【必読※迷惑書き込みの対処方法をまとめました。】

石原莞爾関係の掲示板

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■--満洲事変の張本人
++ 六 (高校生)…62回          

昭和天皇独白録には、満洲事変についての記述はないのであるが、2、26事件のところで「満洲事件の張本人でありながら、この時の態度は正当なものであった」と昭和天皇がおっしゃられたことになっている。これは昭和天皇のお言葉そのままではないと思われる。また満洲事件というのも寺崎英成が満洲事変を満洲事件と書きまちがえたわけではあるまい。しばしば満洲事変の張本人と言われのは、悪いことをした張本人の意味で使われているようだが、その張本人は昭和十三年次のようなことを言っている。信仰上の同志の人々にむかって言ったらしい。「大聖人の御遺文に、強きを恐れ、弱きをおどす、これ畜生の心なりとありますねえ。いま日本は、米英と見れば大阪商人のようにモミ手をしてヘイコラし、支那に対してはチャンコロと言って、いじめている。これは国の大謗法です。これを呵責せずして法華信者の面目はどこにありますか。云々」。勿論これは石原莞爾の言葉そのままではないだろうが、昭和十三年(開戦三年前)に米英にヘイコラ?していたというのは、事実を調べる必要がある。ところで、大阪商人というのがちょっと気になっていたのだが、「満洲事変から日中戦争へ」(加藤陽子著)をぱらぱら見てると、こんなことが書いてあった。「リットン調査団が日本を訪れていた32年3月、大阪商業会議所は次のような覚書を調査団に手渡していた。いわく「満洲の変乱を惹起せるは(中略)支那が条約により日本に認められたる権利を尊重せず、日本をして其の権利を確保するため、正当防衛の行動に出ずるの外なからしめた。」」
文脈があるから、ちがうかもしれないが、もし「張本人」が、この理屈を読めば苦々しく思ったにちがいない。満洲事変については、張本人、軍部中央、政府、国民と考えにズレがあった。ズレだけでなく正反対の考えもあった。しかし「張本人」達のほかの多数は満洲を権益の生命線と考えていた。
.. 2008年03月30日 12:59   No.126001

++ タク (部長)…213回       
天皇の意向と、呼応するように、いち早く討伐の方針を打ち出し、事態を動かしたのは石原莞爾でした。『独白録』で昭和天皇は、満州事変を主導した(つまりは統帥権を公然と踏みにじった)石原莞爾が、2・26事件では、率先して陛下の意向を実現したことを奇異に感じられた言葉を残しています。

石原莞爾が、26日の段階で磯部ら決起部隊の首謀者に鎮圧にあたることを明言し、事態の穏便な収拾を図ろうとしていた軍事参議官会議に圧力を加えた。27日午前8時に石原莞爾は、杉山参議次長を促して参内せしめ、奉勅命令を伝えさせた。

すでに午前3時に緊急勅令が下され、香椎中将が戒厳司令官に任命されていた。東京地域を対象に下された戒厳令は、内地でははじめて発動される「戦時戒厳令」であって、いうまでもなく軍事力による鎮圧を想定したものでした。

.. 2008年03月31日 11:41   No.126002
++ 六 (高校生)…65回       
盧溝橋の事件がおこったのは、昭和12年7月7日夜半であった。(七夕の夜に事をはじめるなんて性格悪い奴)。この時は石原莞爾は参謀本部第一部長だったが、8月初旬、近衛総理に次のように言ったという。「あなたは総理大臣であるから、事変解決のために南京におもむき、蒋介石主席と直接話し合って国交調整をなすべきである。その場合はこの石原も同行するから、大至急この事を取りはからうようにして貰いたい」。これには内閣書記かん長風見章から、「南京行きは見合わせる」という返事がきた。内務大臣末次正信海軍大将はこの件についての意見をきかれて「それは大変だ、それこそまた東京事件だ(2,26事件のような事件がまたおこる)」と答えたという。これを聞いて石原は「陸軍大将や海軍大将の十人、二十人殺される事ぐらいが何で大変なんだ。この石原が真っ先に殺される覚悟で行こうというのだ。老いぼれて役にもたたない陸海軍の大中将が、二、三十人殺されるだけで、この東亜の大難が救われるなら、それこそ有りがたいことではないか」と言ったという。かならずしも言う必要のない悪口がまじっている気がするが(石原という人は言わなくてもいいことまで言うという批判がある)、石原という人は、なすべきことだと判断したら、殺される覚悟の行動をすぐにとれた人だと思う。実際戦争犯罪の裁判では、大将中将で汚名をきせられて死刑になった人は二三十人ではきかないだろうから、石原の言っていることはまったく正しいことを言ったのだと思う。
.. 2008年04月13日 10:43   No.126003
++ タク (部長)…215回       
同じ場面の出来事ですが、近衛首相に電話をかけ、「閣下、飛行機で、南京へ私と飛んで、直接、蒋首席とおあい下されば、話はすぐにわかります。中間の雑音を取り除くため一切秘密に中国に対して、日本は、何ら領土的野心をもっていない。中国と戦う考えは毛頭ない。陸軍も海軍も、直ちに中国から引き上げさせる。日本の希望は、中国との経済提携、満州国の独立、ソ連に対して、十分な国防態勢がととのい、日本も安全だが、中国も安全であるということを強調してください」といったのだが、近衛首相の優柔不断は毎度の事だが、この機に、政治的大英断が実現しなかったことを、石原莞爾は残念がっていました。

近衛首相が、御信任もあつく、国民の信望もあって、三回も内閣を組織して、難局に当ったからには、大きな胆力がほしかった。陸海軍の協調を計る為に、東条を押えることが出来なかったと手記に残されているが、軍はもとより、国を挙げて、事変から戦争へと戦勝の強気に酔っている時に、石原莞爾の提案した無条件にも等しい対華講和を、胆力あって、大英決断を下すにも、それが許されない、日本の政治情勢であり、悲しき日本の運命であったと言えます。現に、石原莞爾自身がこのために、左遷されているのですから軍閥は、参謀本部に石原莞爾がいては、日華事件を拡大する事が出来ないといい、石原莞爾を墓場へ送り込むことも難しいと見るや、左遷の辞令を出す事となったのです。

.. 2008年04月15日 11:38   No.126004
++ 伝 (大学生)…77回       
昭和天皇独白録の「支那事変と三国同盟」のところは、そうとうおかしい。寺崎英成の誤解があるように思う。しかし聞いたことをメモしたものとして誤解を除去して考えると、昭和天皇に重臣の誰かがウソをついていたことになる。「日支関係は正に一触即発の状況であったから私は何とかして、蒋介石と妥協しよーと思ひ、杉山陸軍大臣と閑院宮参謀総長とを呼んだ(中略)若し陸軍の意見が私と同じであるならば、近衛に話して、蒋介石と妥協させる考であった。これは満洲は田舎であるから事件が起こっても大した事はないが、天津北京で起こると必ず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の虞があると思ったからである。当時参謀本部は石原莞爾が采配を振るっていた。参謀総長と陸軍大臣の将来の見通しは、天津で一撃を加へれば事件は一ヶ月内に終わるといふのであった。これで暗に私の意見とは違っていることが判ったので、遺憾ながら妥協のことは云ひださなかった。かかる危機に際して盧溝橋事件が起こったのである。」これは盧溝橋事件がおこってから杉山陸軍大臣と閑院宮参謀総長をよんだのではないか。衝突前から天津で一撃を加えるなどというのは変でないか。石原は6月には盧溝橋付近の空気があやしいとにらんで、岡本中佐を派遣している。盧溝橋事件がおこってから後の七月28日三個師団の動員をしたのは、ニコライエフスク事件のような結果になるのをおそれたからといわれている。動員下令のことを奏上のため参内した杉山陸相に陛下から「シナ本土に戦線が拡大すると、長期戦になるからいけないという意見があるが、それでも出兵するか」とのご質問に対し、一ヵ年くらいでかたずく旨奏上したと伝えられている。事変がかたづきかけたところで、8月13日戦火は上海へとびうつった。「独白録」では、「その中に事件は上海に飛び火した。近衛は不拡大方針を主張していたが、私は上海に飛火した以上拡大防止は困難と思った。当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であった。ソ連を怖れて兵力を上海に割くことを嫌っていたのだ。湯浅内大臣から聞いた所によると、石原は当初陸軍が上海に二ヶ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云った相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ヶ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思ったので、私は盛んに兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ連を怖れて満足な兵力を送らぬ」とあるが、これはまったくでたらめである。おそらく寺崎のききあやまりであろう。しかし湯浅内大臣が石原の考えを誤って陛下に伝えた可能性については検討しなければならない。
.. 2008年04月17日 21:19   No.126005
++ タク (部長)…216回       
第二次世界大戦の頃の国際ユダヤ財閥会議の中心人物は、上海のユダヤ財閥シャンハイ・アンクルと呼ばれるE・D・サッスーンの総帥ダビッド・E・サッスーンです。石原莞爾はサッスーン財閥がどのような商売をして財をなし、またアジア全土でどのような事業を展開するかも知っていました。石原莞爾が中国での不拡大方針を叫んだのは、上海ユダヤ資本に操られている蒋介石との関係を刺激したくないこともそのひとつだったと思います。

サッスーンを含め、ジャーナリストの地位をうまく利用して日本の政府要人と会って情報を取り入れていた上海ユダヤ協会機関紙主幹のN・E・Bエズラもその1人です。エズラは上海と東京を結ぶ情報屋で、上海から世界中のユダヤ人向けに発信していました。ユダヤ人は国を追われ、1ヵ国に定着せず、世界中の組織と連絡をとり合っていたのです。

そのエズラも、蒋介石を支援しながら、満州開発に乗り込もうとしていました。彼は指折りの親日家で、度々来日しています。神戸在住のユダヤ商人ケンタッキーには、日本政府や軍の動きを探らせていました。エズラは本業が土木建築業で、ジャーナリストの肩書きを持ち、極東ユダヤ資本家の満州投資計画のために調査業務を下請けしていました。サッスーン財閥もそのひとつで、エズラの調査をもとに、満蒙で畜産事業を計画しています。そのため、日本人の獣医を顧問に、満州に送り込んでいたのです。

.. 2008年04月18日 11:57   No.126006

■--敗戦と反省
++ 六 (高校生)…61回          

小林秀雄が「りこうなやつはどんどん反省するがいい。俺は反省などしない」と、たぶん言葉はちがうが、戦後まもなくそういうことを言ったらしい。これは似非反省について言ったものだろう。反省は必要である。友近美晴の「軍事参謀長の手記」にこんな一節があるという。「吾々は徳ということに関し、深刻に教えられもせず、また、真剣に修めもせずに来た結果はどうか。敗戦の陣中にみる、あの醜い姿を暴露してしまったのだ。将も兵も、自我自欲の凝り固まりとなり、全く人間獣の一匹に帰ってしまっているじゃないか。見たまえ、平常は統帥権というもののお陰で、ようやく部下を統率して来ていた将軍が、統帥権のきき目がうすくなってくると、かれ自身の劣等人格を暴露して、真に獣心を発揮するものだから、一朝にして部下に見はなされてしまっている。これというのも、明治維新の志士は、ただ、単に血気のあまり国事に奔走していたのではなくて、松蔭にしろ、西郷にしろ、皆聖学を深く修めていたればこそ、あの尊敬すべき行動に出られたということに気づかないでおるのだ。みな、明治以来の国民教育が方向を踏み違えて来た結果であり、吾々個人がそういう修養を怠って来たせいではないか。ぼく自身、少尉任官以来、何をやって来たかと省みると、実に冷汗三斗の思いがある」これは深刻な反省ではないかと思う。事柄は古いが、今だって、誰でもだが、人の上に立つ人は特に、徳というものを考えないといけない。
.. 2008年03月23日 15:33   No.125001

++ 伝 (大学生)…75回       
「軍参謀長の手記」を検索してみたら、この本は昭和二十一年の出版になっていた。このころは戦犯裁判の行われていた頃だから、反省はいいが、戦犯容疑者のことを考えるならどうも不用意なことを書いているようにも思える。回想するなら、もっとあとでいいのに。また、GHQの検閲下で出版されているわけだから、真実を伝えているとは言いがたいと思われる。真実もあるかもしれないという程度の記述ではないだろうか。
.. 2008年03月25日 20:58   No.125002
++ 伝 (大学生)…76回       
「軍参謀長の手記」を検索してみたら、この本は昭和二十一年の出版になっていた。このころは戦犯裁判の行われていた頃だから、反省はいいが、戦犯容疑者のことを考えるならどうも不用意なことを書いているようにも思える。回想するなら、もっとあとでいいのに。また、GHQの検閲下で出版されているわけだから、真実を伝えているとは言いがたいと思われる。真実もあるかもしれないという程度の記述ではないだろうか。
.. 2008年03月25日 21:07   No.125003
++ タク (部長)…212回       
日本の敗戦は、神意によるものである。第一は、世界平和のため、心から反省する機会を与えてくれたことである。第二は、素っ裸の丸腰になって真の世界平和を世界に先駆けて創造せんとする大使命を与えられたことである。第二次世界大戦は終わった。しかしこれは政治的に統一される一段階であって、すでに第三次世界大戦が、十分可能性をもって予想されるにいたった。人類最後の戦争(即ち、世界最終戦争)である。この大破壊に入ろうとするとき、敗戦を契機にして真の平和国家を創造する機会を得たのだ。いよいよ後の島が先になるのだ。この意味において、私は神意に心から感謝する」

これこそ、石原莞爾の戦略眼でした。昭和25年(1950)6月、朝鮮戦争が起こって、日本の国内は騒然となりました。国内警備の手薄さを憂慮したマッカーサーは、日本政府に対して「警察予備隊」の新設を指令しなければならなかったのです。日本軍の武装を解除してから5年目のことなのです。

.. 2008年03月29日 10:09   No.125004
++ 六 (高校生)…63回       
岡田資「毒セン」(ゴクセンではありません(笑)。センの字は竹かんむりに前です)を読んでいたら、こういう箇所があった。「民族国家永遠の生命観に立てば、今次の苦験は蓋し一度は体験すべきものであったかも知れぬが、人間の一生や二生の立場で観察するならば一大失敗であるに相違ない。こんな結果をうみ出す事になった近世日本国家運営に参画した吾人は、今生その過去に於ける任務如何に論なく、皆落第点である。でもその当時は持場々々に於いて、全力を傾倒して来たとの自負心を持っていたのは、只々汗顔の至りである。だから今この境涯に陥って、寧ろ何かしら、はじめてホッと落ちつきの気持に坐し得たように思うのは、決して顧みて別なことをいうてるわけではない。それにしても敗戦後巷に躍る自屈の姿、民族卑下の声は何とした事であろうか。いわゆる日本軍閥と独逸の「ナチ」との根本的相違弁別の出来ないらしい批判も流れてる。また窮乏と悲境のために無理はないけれども、とかく個人も民族も、その思索が自らの身辺にのみ低迷して、広く国際情勢の過去現在、そしてその表裏に及ばないものが多い。何とも如何な事である。日本民族は矢張り独逸民族に劣るなんというような、極印を史上に打たれたまま次代の同胞にバトンを渡したくないものだと思う。」
.. 2008年04月05日 11:40   No.125005
++ タク (部長)…214回       
ナチスドイツ・ヒトラーが書いた「マイン・カンプ」を父に紹介されました。大分前のことですが読むと私は強い印象を受けたのを記憶しております。今でも、言葉は覚えています。この驚くべき書から、感じられるものは、邪悪の天才だと言うことです。ナチズムとは組織や制度ではなく、燃え上がる欲望です。その中核は、ヒトラーという人物の、憎悪にあります。私はヒトラーという人物に対して無智でいました。ヒトラーを確かめるために、たくさんの書物を読みました。

ヒトラーに関しては、革命とか暴力とかいう言葉は、注意して使わないと間違います。バリケードを築いて行うような革命は、ヒトラーが一番嫌っていたものです。革命の真意は、非合法を一挙に合法と成すにある。それなら、革命などは、国家権力を合法的に掌握してから行えば沢山だ、これが、早くから、一環として揺るがなかったヒトラーの政治闘争の綱領です。ヒトラーは、暴力の価値をはっきりと認めていました。平和愛好や暴力否定の思想ほど、ヒトラーが信用しなかったものはありません。ナチスの運動は、突撃隊という暴力団に援護されて成功したのです。

.. 2008年04月08日 08:18   No.125006
++ 六 (高校生)…64回       
4月5日下から3行目「何とも如何なことである」は「何とも遺憾なことである」の誤植です。全力を傾倒していたと自分で思っていたら、そうでなかったというのは、そういう気づきは貴重だと思いました。どうだ俺はこれだけできるというような念がおこったら、退歩の第一歩とみてよい。近代の剣道の達人が、ある神社で願をかけたか、一晩のうちに気合をこめて木刀をふること一万回(回数はいいかげんです)、達成感を感じてこれだけやった人はいないだろうと思って奉納書きをみてみたら、一万回というのは、むしろザラにあって、なんと二万回というのがあって感心してうなった自分などまだまだ修行がたりんわいと思ったというような話を読みました。
.. 2008年04月08日 22:27   No.125007

■--石原莞爾と東京裁判
++ 六 (高校生)…55回          

粟屋憲太郎の「東京裁判への道」を読んでいると、次のような箇所があった。「石原の調書を読むと、これまで石原の信奉者たちが語りついできたように、「なぜ自分を戦犯としないか」と検察官に迫ったというような毅然とした姿はみられない。」と。粟屋憲太郎は公平な学者と思われるので正直な感想であろう。しかし誤解を招く表現である。だいたい調書に石原莞爾の毅然とした姿をたとえあったとしても記録する筈がなかろう。誰が、「自分を戦犯としないかと検察官に迫った」ということを言っているのかしらないが、検察官にそんなことを言う筈がないと思う。酒田での裁判では、裁判長のノースクロフト判事に「満洲事変の中心は自分である。この私を戦犯としてひかれないのが不思議である」という意味のことを言ったと伝えられているが、これは言いそうなことである。だいたい満洲事変の当時は最大の功労者は責任者の本庄司令官になっていたと思う。その本庄司令官が全責任を自分に帰して自決しているのだから、その行為発言を無にするようなことは石原莞爾は言わない筈である。しかし満洲事変の中心は自分であるくらいのことは彼の人間性からして、言ってあたり前である。裁判になれば人間の位がちがうのだから、検事などを圧倒しても何の不思議もない。まあ、あまり言う必要もないことだが。
.. 2008年02月16日 20:27   No.121001

++ 六 (高校生)…56回       
石原莞爾という人は素質的にすぐれたところがあったように思う。私は自分が、そんなにすぐれていないから、そういうところは、それほど感心しない。それは、もともとだからだ。しかし、努力して向上していったところは見習わなければと思う。私はそういうところに着眼しようと思っている。えらかった、すごかったでは、ああそうですかというだけだ。
.. 2008年02月18日 20:36   No.121002
++ 伝 (大学生)…71回       
昭和二十一年の三月頃から、被告人選定の会議が行われたらしいが、3月28日の第十二回会議で石原莞爾の名前があげられた。ところが、まちがって石原広一郎(石原産業代表)の報告が提出されて決定は延期。4月1日の第十三回会議でも、石原莞爾については、最終リストが決定される前に調査の報告ができるかもしれないとのことで決定延期。報告には、「民衆の声」と書かれた匿名のマッカーサー宛の投書が引用されていた。それには「石原は桜会と深い関係をもち、関東軍にいたが、日中戦争中、上海に転戦したのち一時帰国。41年11月フィリピンに渡り、バターンでの作戦を指揮し、のち、ルソンやレイテにも転戦した」と書かれていた。最終的に4月8日の参与検事会で、被告から除外されることになった。石原は日本人の間では満洲事変の実質的主役として有名だったが、連合国の検察側には、ほとんど知られていなかったのである。
石原が東京裁判の被告とならなかったことが不思議がられるが、東京裁判の訴因をみていみるならば、不思議ではない。55ある訴因のうちで満洲事変については、訴因2満洲支配を目的とする対中侵略戦争の共同謀議、訴因18 1931年9月18日頃の中華民国に対する侵略戦争の開始8満洲事変) 訴因27 1931年9月18日ないし945年9月2日の中華民国に対する侵略戦争の遂行 の3つだけであって、石原莞爾が該当するとしたら、訴因18だけである。しかし、9月18日の鉄道爆破については決定的証拠はないのだから、侵略戦争の戦端をひらいたとは言い得ない。満洲事変以後の石原莞爾の言動には侵略と非難すべき何物もないのである。およそ侵略とは反対のことを言っている。共同謀議の罪の着せようがないと思われる。

.. 2008年02月23日 20:22   No.121003
++ タク (部長)…205回       
昭和22年5月2日、酒田商工会議所を臨時の法廷として、極東軍事裁判の公判が行われました。訊問に先立って裁判長から、「何か言うことはないか」と問われたので石原莞爾は答えました。「ある。不思議にたえないことがある。満州事変の中心は、すべて自分にある。事変終末の錦州爆撃にしても、軍の満州建国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」と言っています。近衛文麿のように戦犯指定を免れるために怯えている人が数多いというのに、自らを「戦犯に指定しろ」と直談判した人物は、石原莞爾しかいないでしょう。石原莞爾にはこれ以外にも、大胆かつ横柄な受け答えで、法廷で質問に立った検事や、取材に訪れた外国人記者などをやり込めています。今大戦最大の戦犯は、「無差別空襲によって非戦闘員を大量虐殺した、アメリカ大統領のトルーマンだ」という発言は、その一例です。

また、「満州事変の根源は、日本の戦争責任を日清、日露戦争までさかのぼって調べる」と言うと、石原莞爾は次のように言う「それではペリーを呼んで来い、日本は当時徳川鎖国時代で、どこの国とも付き合いたくないと言って、堅く外交通商の門戸を閉ざしていた。それを米国からペリーが黒船でやってきて、門戸開放、通商交易を迫った。もし実行しなければ、大砲をぶっ放すと脅迫した。徳川政権は、結局米国の脅迫外交に屈して開国を決定し、列国と外交通商関係を結んだ。外国と付き合ってみると例外なく侵略主義の恐ろしい国だということを知らされた。それから貴国らを大先生として、日本は泥棒のような侵略主義を習い覚えたのだ。いわば貴国らの弟子である。もし日清、日露戦争が悪いというならばペリーを証人としてあの世から連れてくるのだな」と帝国主義の歴史をユーモアなど交えながら語り、米国への批判を行なったのです。短い言葉で、よく本質をとらえています。

昭和22年酒田市において石原莞爾の訊問が行われる事となりました。なぜ極東軍事裁判が、酒田市において行なわれたかというと、石原莞爾を東京で訊問すれば、東京裁判と連合軍側の権威の失墜を招くことを恐れがあったと思うのです。酒田法廷に出廷する石原莞爾をリヤカーで駅まで曳いた側近である私の父が当時の状況をこう語っているのです。歴史の本質的な部分を洞察していて興味深いところです。

.. 2008年02月24日 08:25   No.121004
++ 伝 (大学生)…72回       
リヤカーで駅までだったのですか。裁判所までリヤカーかと思っていました。といっても地理的なことは調べたことはないのですが。私は仲條さんとは一度だけ会ったことがあって、国柱会で石原莞爾平和思想研究会の会合があったとき、顔をだしたら酒田裁判のとき将軍の先導をしたのはこの人だよというような話だったか、わし(わたしだったか、自分だったかもしれませんが)が将軍の(乗った)リヤカーを引いたのだよということを聞きました。そのときは酒田の裁判についても、それほど知識がなかったから、リヤカーを引いたのが、そんなにエライ?ことかというように思って、話が展開することにはなりませんでした。今なら酒田裁判の様子を聞いたことでしょうが、その時はそれだけの智恵?がなかった。
.. 2008年02月24日 18:32   No.121005
++ タク (部長)…206回       
遊佐にいた時と鶴岡にいた時と酒田に呼び出されたのと鶴岡に呼び出されたのとごちゃごちゃになってしまって曖昧です。もう一度父の本を読んでみようと思います。国柱会では石原莞爾将軍をリヤカーで運んだ時と酒田裁判での出来事を講演したことがありました。その日はとてもお天気がよく国柱会に眠る宮沢賢治のお話もされていたのを何となく記憶しています。
.. 2008年02月26日 06:57   No.121006
++ 六 (高校生)…57回       
眠るときくと、「眠ってなんかいません」?という唄の文句が思いうかびます。関係ありませんが。ところで、石原莞爾が満州事変に突入したころ、宮沢賢治は東北砕石工場の仕事を会社として商売的に成立させるためだったか、東京に営業にでてきていました。これが昭和六年の9月19日らしい。無理してでてきたのか、東京で発熱して21日には遺言を書きます。結局2年後の同じ日になくなるわけですが、賢治という人は「すこしばかり仕事ができて、それに腰をかけているような、そんな多数をいちばんいやに思うのだ」というようなことを30歳くらいの頃に言っていたと思うのですが、彼の晩年にはずいぶん常識的になったけれども、精神は、とどまるところのなかった人のようです。
.. 2008年02月28日 22:14   No.121007
++ 伝 (大学生)…73回       
東京裁判における検察側の認識は、15年戦争の期間、日本の対内対外政策は犯罪的軍閥により支配せられかつ指導せられた。そして侵略国家による世界の他の部分の支配と搾取の獲得のための共同謀議が行われた。また人道に対する罪についての共同謀議が行われた。こういうことであった。記録を読んでいないが、それに対する証拠は(不適切な証拠が多かったようだが)いちおうあげられたらしい。(世界の他の部分の支配と搾取なんて、現代でも、それと気づかれないようにアメリカなどはやっているのでないか。)。石原莞爾に対して証拠をあげることは、むつかしかっただろうと思われる。
.. 2008年03月02日 16:57   No.121008
++ 六 (高校生)…58回       
あまり、いい加減なことを書いてはいけないので、調べてみたら、「告別」という題の春と修羅第二集の詩の文句で、「・・・・・なぜならおれは すこしぐらいの仕事ができて そいつに腰をかけてるやうな そんな多数をいちばんいやにおもふのだ・・・・」これは「いいかおまへはおれの弟子なのだ」と語りかけている詩の中の言葉ですから、一般的感想ではありません。横道の話ですが。
.. 2008年03月02日 19:39   No.121009
++ タク (部長)…207回       
日中戦争は満州事変も含め「15年戦争」と言われていますが、この呼び方は歴史的事実を正確にとらえているとは言い難いです。
日中が本格的に戦ったのは、盧溝橋事件から武漢陥落までの一年半弱で、その後は、各地方の重慶政府・蒋介石、南京政府・汪精衛、延安政府・毛沢東が、三つ巴の内戦を続けただけであるからです。このような真実が日本国民に伝わっていないと思います。

.. 2008年03月03日 08:12   No.121010
++ 伝 (大学生)…74回       
15年戦争ということばを安易につかったけれど、検察側はおそらく、このことばは使っていないと思います。というのは、張サクリンの爆殺事件からの期間を問題にしているからです。期間でいうと、18年でしょうか。満洲事変は、あくまで事変であって、正式の戦争ではない。検察側の主張に対する証拠は何でも採用したけれど、共同謀議否定の証拠は、ほとんど却下という偏頗な裁判だったけれど、検察側としての筋はとおっているところがあるかもしれない。
.. 2008年03月04日 20:45   No.121011
++ タク (部長)…208回       
それに対して、「放火犯の消火作業」だという佐高信先生の批判もある。この批判については後日、2人で食事をしている時に佐高信先生の口から「ちょっときついこと言っちゃって悪かった。石原莞爾平和思想研究会の方々は怒っていなかったな」と言っておられました。 昭和6年の満州事変から日米開戦、そして昭和20年8月15日の玉音放送までのプロセスが連鎖しているという史観からすれば、石原莞爾を免罪するわけにはいかないでしょう。つまり、満州事変というものを放火して後で、日華事件の拡大は消火しても、最初の罪が消えるわけではないという理屈でした。

.. 2008年03月05日 18:16   No.121012
++ 六 (高校生)…60回       
検察側は共同謀議の存在を立証しようとしたのであるが、次のようなことをはじめに言っている。「この共同謀議の分析に関する一つの困難は、その範囲が非常に広汎であったために、これが人間の一団によって行われたことを想像することは困難であろうということである」これにはまいってしまう。人間の一団によって行われたことを想像することが困難なら、被告の一団によってそれがなされたと想像することは、ますます困難なはずである。検察側にはそれが矛盾とは考えられなかったのであろうか。
それからこんなことも言っている。「たとえば現地軍人は、だれもたんに軍事作戦を行ったということでは訴追されていない。かれらが訴追されているのは、侵略計画の教唆、ならびにそれを実現させるのにあたっての活動のためである」このように説明したとき、あるいは石原莞爾が意識されていたかもしれない。満州事変を調べれば石原莞爾は戦犯候補?に当然浮上してくるからである。そこにおいて、石原莞爾を被告の一団に加えることはヤバイ?結果になるという判断がはたらいたことは充分考えられる。一方、石原莞爾が共同謀議に加わっていたということは、被告のなかでは最も証拠が出しにくい存在であったことは事実である。石原莞爾が東京裁判の被告にならなかった理由には二面ある。また万が一まちがいでマニラあたりにおくられて、まちがいで処刑されたということになれば、連合国の各国裁判がいかにいい加減なものかという大きな証明になる。石原莞爾にはふれないほうがよいと、考える人は判断する筈である。

.. 2008年03月19日 18:13   No.121013
++ タク (部長)…211回       
石原莞爾は山形県に戻っていた時、病が重く東京へ証言に行けなかったので、石原莞爾の調書をとるために、1947年5月1日と2日、(日付は父の日記に書かれている)酒田で特別軍事法廷が開かれました。国際軍事裁判所の50名以上の聴衆を前に、石原莞爾は満州事変と日中戦争における自分の役割について述べました。両事件について現在我々が知っていることからすれば、石原莞爾の証言記録の多くは不正確で、言い逃れのような印象を受けるが、法廷外では怒りにまかせて、誰はばかることなく刺のある発言を行ったのです。石原莞爾はトルーマン大統領こそ、一般市民に対して無差別爆撃を命じた本人で、起訴されるべきだと議論を挑んだ。父の書物によれば、日本の膨張主義を一世紀にも及ぶ西洋との闘争の文脈のなかに位置づけ、以下のようにアメリカ合衆国の検察官を攻撃したのです。

「なんだ、ペルリを知らないのか。君は貴国の歴史を知らないのか・・・。日本は当時徳川封建時代で、どこの国ともおつき合いをしたくない、といって堅く門戸を閉ざして鎖国主義をとっていた。それを、貴国からペルリが黒船に乗ってきて、門戸を開放しろ、もし開放しなければ大砲を打ちはなって日本をおどしつけ、門戸開放を迫り、列国との交わりを強要した。それで日本も門戸を開放して外国と交際をしてみると、列国はみな侵略主義の恐ろしい国と知ったのだ。それから自衛のために貴国らを大先生として日本は泥棒の侵略主義を習い覚えた。いわば弟子である。ペルリをあの世から呼んで来て戦犯としてはどうか」と。

.. 2008年03月20日 07:35   No.121014

■--資本主義は犯罪です 
++ まりー (幼稚園生)…1回          

資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
.. 2008年03月15日 13:52   No.124001


■--カット訳
++ 六 (高校生)…54回          

原文のある箇所をカットしている訳文をカット訳となづけることにする。ちょくちょくある。佐藤亮一訳の第二次世界大戦にも、カットしている部分がある。原子爆弾の章の次の箇所である。「大統領と二人だけの、あるいは彼の側近の居合わせるなかでの何回かの長い話し合いのなかで、私は何をなすべきかを論じた」の次に、原文では、こう書いてある。「週のはじめにスターリンは私的に私に話したことには、彼の一行がモスクワを出発しようとしていた時に、日本の大使から宛名のないメッセージが届けられた、それはたぶん彼自身か、カリーニン議長か、ソビエト政府の他の誰かあてにということだろうが、日本天皇からのものであった。それは、日本は無条件降伏を受諾することはできないが、他の条件については妥協する用意があると述べていた。スターリンは、メッセージには具体的提案がないので、アクションをとらないと返事をした。私は大統領に、スターリンが直接彼に話をしなかったのは、ロシアが彼に和平をすすめようとしていると考えるといけないからだと説明した云々」。ポピュラーな歴史の本にはあまり書いてないが、聖断により和平をはかろうとして、ソ連に和平の斡旋をたのんだが、ソ連はいちおうことわったようだが、明確な返事をしなかった。昭和天皇は、ポツダムでの会談の前にこちらの和平の意向をつたえておけばよいということで、ソ連の斡旋は期待していなかったと思われる。(もちろん、萬が一、千が一の期待はあったであろう)。コミンテルンはすでに解散していたが、ソ連の動きは、ある程度ご存知だった筈である。
.. 2008年02月08日 21:00   No.120001

++ タク (部長)…209回       
「対日参戦」極東におけるソビエト軍の諸作戦は、第二次世界戦争全体の結末に大きな意義をもっていた。日本帝国主義者どもの突撃的目的集団の一つであった関東軍の撃滅は、日本の敗北と無条件降伏を早めさせた。後日西側諸国は日本撃滅の際のソ連の役割を小さく見せるため・・・例えば1951年アメリカ国務省が作成した対日平和条約草案に「ソ連が対日戦に参加したのは、僅に六日間」と、明瞭に書かれていた。

.. 2008年03月09日 07:40   No.120002
++ 六 (高校生)…59回       
昭和天皇の聖断により、ポツダム宣言を受諾して日本国軍隊の無条件降伏を宣言することになったが、阿南陸軍大臣は終戦の実現だけで力つきたのか自決してしまった。気の毒な立ち場に立ってしまったのに同情するけれど、陸軍大臣としてはりっぱに自決したとはいえない。軍隊の降伏を実行しなければならない立ち場ではないか。連合軍といっても、ソ連の極東軍司令官はマッカーサーの言うことをきかない、またソ連極東軍の部隊は司令部のいうことを聞かない(そう言っただけかもしれないが)というむつかしい状況がシナ大陸ではでてきた。対シナでは日本軍の降伏も重慶政府に降伏したらいいのか、延安政府に降伏したらいいのかわからないところもあった。ソ連はポツダム宣言の約束に反して60万人から80万人を捕虜にした。関東軍司令長官等が適任でなかったこともあると思うが(しばらくにらみをきかすことができたらよかった)、相手のソ連が悪かった。国際正義の声は高まったが、それは人類の希望としてであって、現実は国際暴悪の時代であったと言わざるをえない。ソ連の弁明?は偽善またはレトリックの問題である。
.. 2008年03月09日 20:08   No.120003
++ タク (部長)…210回       
石原莞爾は洋服に下駄ばきで航空本部総監の阿南惟幾大将に会いに出かけました。石原莞爾と阿南大将の会談があり、繆斌工作を話し合いました。翌日、阿南大将に陸軍大臣の内命があり。さらに三鷹の阿南氏の自宅で、繆斌工作について会談しました。阿南陸相は「自主的撤兵ならする。小磯総理大臣はやめる必要はない。陸軍に繆斌工作を協力させる。」とのことだったので、この工作の重要人物であった緒方氏のところに駆けつけたが、緒方氏は総理に辞表を出して帰って来たところで一足遅れてしまったのです。

阿南陸相は、辻政信大佐を南京によび戻して、日本軍の撤兵を強行させると確約していました。しかし、陸軍大佐になった阿南陸相は、強硬派に包囲されてしまった形でした。阿南陸相との連絡は、周囲によって遮断され連絡のしようがなくなりました。中山優氏が最後の努力に協力して、外務省関係の説得に努めたが、外務省は依然としてソ連にすがる方針を変えなかったのです。

阿南氏は自殺する直前、「もう一度石原莞爾に会いたいなあ」と夫人が語っています。山形県鶴岡の石原莞爾の家には、阿南大将の死を弔う弔旗が立っていた。彼は軍人の政治干与を禁じ、もう1度、皇軍を粛正にするつもりであったらしいが、あまりにも遅すぎたのです。

.. 2008年03月10日 06:28   No.120004

■--化石燃料浪費文明から持続可能な未来へ
++ 中川修治 (幼稚園生)…1回          

 明治維新を契機に、日本は資源循環型の地方分権国家から、化石燃料資源収奪型の中央集権国家へと方向転換を果たした。戦後は地方農村部の過剰労動力が都市部の産業資本の労働力として高度経済成長を支え、さらに集中が加速する。
 補助金をつかい、生産性の高い都市部から生産性の低い田舎へと政策的な所得移転をさせ、箱モノや道路などの耐久消費財へ金をつぎ込む手法で、一見、所得は平等になったかに見えたが、それらは根本的な問題を押し隠してきた。
 気がつけば少子高齢社会となり、右肩上がりの前提は破綻。地球環境も危機的な状況で、産業資本社会を支える使い捨ての安い化石燃料はもう使えない。果たして、解決策は? いきづまった中央集権的な資源収奪経済からどのような転換が模索できるか?
.. 2008年02月24日 07:52   No.122001


■--近衛上奏文の謎
++ 六 (高校生)…51回          

近衛上奏文(昭和二十年二月)の中に、「軍部内一味の革新運動」について、「そもそも満洲事変、支那事変を起こし、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは是等軍部内の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存じ候。満洲事変当時、彼らが事変の目的は国内革新にありと公言せるは有名なる事実に御座候。支那事変当時も「事変永引くがよろしく事変解決せば国内革新が出来なくなる」と公言せしは此の一味の中心人物に御座候」とあるが、この「中心人物」とは誰だと考えていたのだろう。当時の事情から、陛下に意味が伝われば、変化球を投げたことも考えられるが、自ら真実と確信することを上奏したはずだから、注意をひかれるのである。
.. 2008年01月14日 10:25   No.118001

++ タク (部長)…199回       
国際情勢を前にしたとき、日本政府は深いジレンマに対して、どのように対処したのでしょうか。国民が心から受け止められる戦争目的を、どのように設定していったのでしょうか。それについては、三谷太一郎氏による説明が一番明快ですので紹介します。三谷氏は、東京帝国大学行政学教授で近衛文麿のブレインでもあった蝋山政道の日中戦争観を分析することで、この問いに答えていきます。蝋山は、東亜新秩序という地域主義理論を考慮しました。そして、日中戦争が戦われなければならなかった理由を、次のように説明したのです。

日本の軍事力によって打破されなければならない二つの障害があったからである。一つは中国民族主義であり、一つは中国民族主義を利用し、そのためにこれと提携した西欧帝国主義である。東アジアの地域主義的な秩序原理に反対し、それを認めようとしないのが、中国の民主主義であり、それを後援する西欧の帝国主義だというのです。かつて、満州事変期においては、中国の国権回収運動や革命外交を支えていたものこそ、中国の民族主義であるとの認識が日本側にはありました。

つまり、その当時の日本にとって中国のナショナリズムが問題にされた理由は、それが、条約などの国際法、西欧的秩序の基本要素を中国が守らないとされたからでした。ところが、それから10年経った大東亜戦争の時期にあたって、中国のナショナリズムが問題とされた理由は、「西欧的秩序の基本要素の一つである主権的独立をもった民族国家」という形式に、中国が拘泥しているからというのです。中国を測定する日本側の軸が、明らかに変化しているのです。

.. 2008年01月15日 06:04   No.118002
++ おかけん (小学校低学年)…7回       
國民新聞に山口富永氏が『近衛上奏文と皇道派』を連載しております。まさにご指摘の”中心人物”とは誰か、を解明していくようであります。

.. 2008年02月03日 00:20   No.118003
++ おかけん (小学校低学年)…8回       
近衛上奏文中の”中心人物”について既刊の資料で調べるとすれば、
『大東亜戦争とスターリンの謀略』三田村武夫 著
『第二次世界大戦と日独伊三国同盟』平間洋一 著
がよろしいかと思います。
”中心人物”とは、尾崎秀實やゾルゲのコミンテルンに踊らされた、統制派の軍人です。昭和研究会や朝飯会のメンバーに多い。もっと広くいえば、愛国者の衣をまとった共産主義者達や革新官僚等も入る。
近衛上奏文中の”眼に見えない力”とは、コミンテルンの力・影響力の事です。

.. 2008年02月04日 00:03   No.118004
++ タク (部長)…203回       
相沢事件から二二六事件までの経緯を、陸軍の派閥対立から見た場合に、統制派と皇道派と見るのが普通です。一般的に永田鉄山に代表される統制派が、エリートを中心とし、近代化された国防国家の建設をめざし、官僚的であったのにたいして、皇道派は、陸大出身のエリートに反発をする隊付き将校を中心とし、農民・労働者に深い同情をもち、土着的であったとされています。

二・二六事件によって、皇道派が一掃された結果、統制派が軍の主導権を完全に把握した。と、すれば、統制派は、念願の国防国家建設に取り組まなければならなかったはずだったが、統制派のトップである永田鉄山亡きあと、あるべき国防国家の姿を描ける人材は、石原莞爾ただ一人しかいなかったのですね。

さらに、二二六事件後の粛軍が、軍首脳部の世代交代を促しました。事件の責任をとって、陸軍の川島をはじめとして、本庄侍従武官長、南関頭軍司令官、そして参議官の林銑十郎、安部信行、荒木貞夫、真崎甚三郎、寺内寿一、植田謙吉、西義一ら、現役の大将10人すべてが辞表を提出したのです。

.. 2008年02月04日 16:10   No.118005
++ マサ (小学校低学年)…8回       
近衛上奏文については最近にわかに話題に上がっている様ですね。おかけんくんのお話に追従する事になりますが、近衛は良く言えば非常にオープンな人間であり、首相時代も自分に対して陳情ないし助言する人間を拒むこと無く迎え入れた人物でした(優柔不断と言われればそうなんですけど)。そのようなこともあり、ブレーンを多く持つ人でもあった訳です。
ただ、その中にはソ連コミンテルンのスパイが多くいたようです。戦後、近衛のブレーンだった多くの学者が共産主義運動を展開して行ったことを見ても明白なのですが、取り上げると長くなるので割愛します。
ルーズベルトの側近にソ連コミンテルンのスパイがいた様に、これらはスターリンの常套手段でした。
当時はナチスの統制主義(国家社会主義)やマルクス・レーニン主義が流行した時代でしたが、どうもその時の日本の高官や高級軍人達には、統制主義と共産主義(マルクス・レーニン主義/スターリン主義)の区別がよく解っていなかったものが多かった様で、ゾルゲ事件に代表される様に利用されていた人間達ですら自分たちのポジションがこれらのどこにの分類されているか見えておらず、結果として自分ではソ連に加担するつもりではなく、共産主義運動という思想的背景を持っていたとしても、無意識にその代表的存在として認識していたソ連コミンテルンの思惑に嵌って行った様に見えます。
全部とは言えませんが国民党の前に瀕死の状態であった中国共産党を救ったのは盧溝橋事件に端を発した支那事変勃発であったわけですから、そこに作為的な臭いがすると言っても過言ではない様に思います。日本軍上層部のソ連に対しての異様な安心感(無防備)と広域戦線の拡大という愚策を安易に行った背景を司馬史観のみで捉えるのは乱暴すぎます。

.. 2008年02月08日 08:38   No.118006
++ タク (部長)…204回       
昭和39年中国を訪れた社会党の委員長だった佐々木更三氏が、「日本軍国主義が中国を侵略した」ことへの謝罪をしたところ、毛沢東は次のように答え、座は大いに盛り上がったといいます。「何も申し訳なく思う事はありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。皆さんの皇軍なしに我々が権力を奪取することは不可能だったのです」と。

東京裁判の最中に、当時中国共産党の副首席であった劉小奇が「盧溝橋事件(昭和12年7月7日深夜発生した銃撃を発端とした日中両軍の軍事衝突。これがきっかけで日本は大陸深く攻め入ることとなり、日本の侵略戦争のはじまりとされている)の仕掛け人はこの私だ」と発言しました。そのため戦犯として拘留中の河辺大将、牟田口中将が理由も告げられずに釈放されました。

盧溝橋事件の1ヵ月後の8月13日、コミンテルン派の張治中将軍は、蒋介石の命令に反して上海に73個師団、しかも精鋭部隊からなる40万人以上を投入して、全面的な戦争に発展した。これが世に言う上海事変です。昭和24年の中華人民共和国樹立宣言の際、周恩来首相は、「われわれ中共軍が日本軍と蒋介石軍の両方に銃弾を打ち込み、さらに日華協定を妨げたことが、中国共産党の今日の栄光をもたらした起因である」と言明しています。

中国軍の残虐な挑発行為。昭和12年の通州事変では、中国保安隊が行った無抵抗の日本人居留民に対する残虐な公開処刑に日本の世論は沸騰し、現地の日本軍は報復心に燃え、深く大陸への戦闘へと誘い込まれていきました。それは盧溝橋事件の3週間後、ラジオでデマを流布したことでした。現地の日本人385名のうち、幼児12名を含む23名が虐殺され、多数の女性は強姦されたあと陰部を銃剣で突かれ、えぐりとられ、首に縄をかけられ、引き回しにされたうえ、目玉をえぐられた者もいました。牛のように鼻に針金を通されたまま殺された子供や、生きたまま片腕を切断された老婆もいた。これらはすべて中国伝統の虐殺の作法なのです。

.. 2008年02月09日 18:30   No.118007

■--中学社会科?テスト誤問題例
++ 六 (高校生)…52回          

次のカードa〜dをみて、各問いに答えなさい
(ab略)カードC 米英露の三国首脳は日本の降伏条件を示す宣言を発表したが、日本はこれを無視し、戦争は続けられてしまった。(d略)
(3)日本はカードcの宣言を受け入れて降伏しました。この宣言文の一部として正しいものを次のA〜Dから一つ選び、記号で答えなさい。
A帝国主義諸国から独立し、国内諸民族の自決権を認める
B日本の主権は、本州・北海道・九州・四国とわれらが決定する諸小島に限定される
C連合国の占領軍は、すみやかに日本から撤退する
Dアメリカの陸・海・空軍を日本国内およびその付近に配備する権利を、日本は認める。
「米英露の三国首脳」ではない。露はあとから加わったのだ。そんなことも知らないのか、知っててやているのか、どっちにしても、こういう先生たちから教えられるのは迷惑ならずや。
.. 2008年01月16日 21:48   No.119001

++ タク (部長)…200回       
歴史の先生とお話しすることがよくありますが、何も知らなくて驚くことが多々あります。

石原莞爾平和思想研究会に「なか」という歴史の先生がいますが、この先生の教育は素晴らしい。
大阪なので新年会にはなかなか出られませんが(笑)

伝六さんは新年会に出席されませんか。
国柱会の方も参加したいとメールいただきました。

.. 2008年01月17日 06:56   No.119002
++ 伝六 (大学生)…76回       
新年会は出席の予定をくんでいませんでしたので、失礼します。新年会楽しそうな雰囲気ですね。「なか」先生はハンドルネームなんでしょうね。なかなかなか先生は出られませんか。(笑)名前を使って失礼しました。
.. 2008年01月17日 17:54   No.119003
++ タク (部長)…201回       
新年会のお知らせは会報に記載されている通りです。
「なか」はハンドルネームです。

.. 2008年01月17日 18:50   No.119004
++ 六 (高校生)…53回       
米英露の首脳会談の前に、日本は露(ソ連)に講和の仲介をたのむ旨を連絡していた。日本政府として天皇の思し召しを奉じて近衛公が特使としてソ連にゆき和平の条件について相談したいので、受け入れをたのむとの申し入れをおこなっていた。ソ連ははっきりした返事をしなかった。ソ連にしてみればヤルタ会談で参戦の約束をしている。それによって樺太、千島はソ連がいただく?という約束もしている。たぶん困っただろう。しかし、それはわからない。そのうちポツダム宣言が出された。これについてはソ連は相談をうけなかったらしい。それで、日本政府はポツダム宣言にソ連の名がないことから、希望的観測をしたらしい。ソ連は和平の斡旋を自己に有利な条件でするつもりではないかと東郷外務大臣あたりが判断したと思われる。鈴木首相は国内事情のためにポツダム宣言は黙殺だという。そこでウロウロしているうちに、原子爆弾が落ちソ連は返事のかわりに宣戦布告をしてきた。これはずいぶんひどいしうちだが、あとからみれば、ソ連が和平を斡旋すると考えるのが不明であるとのそしりはまぬがれない。英米もソ連が参戦することは言っていたのだが、それは謀略宣伝と考えたらしい。それはともかく和平の斡旋をするつもりがないのだから、ソ連はすぐにポツダム宣言にくわわればいいのだが、そうしないのが汚いところだ。もっともそうしなかった理由もいくらでもつけることができるが、どの国が日本の立場にたっても、やりかたが汚いと考えるだろう。しかし汚い点ではアメリカもソ連もいい勝負だろう。これは別に非難するつもりではない。実際のところを国民に教えないのは問題だ。日本国民は愚民ではない。しかし実際に戦争でひどい目にあった人も終戦の経緯についての事実を知らない。
.. 2008年01月20日 21:22   No.119005
++ タク (部長)…202回       
1945年2月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三者はヤルタ会談で、対ドイツ戦争終結のヨーロッパや太平洋について話し合いました。この時、日本について重大な取り決めが行われました。ソ連は日ソ不可侵条約を破棄して日本攻撃に加わり、日露戦争の恨みを晴らすことでした。だが、4月12日ルーズベルトは突然死亡して、副大統領のトルーマンが大統領に就任したのです。トルーマンは、知らされていなかった原子爆弾の存在をスチムソン陸軍長官から聞いて知ってしまうのです。

5月8日、ドイツは無条件降伏して、ヨーロッパの戦争は終わりました。トルーマンは、ソ連より優位に立ちたいために原子爆弾を日本に対して使用すると決定するのです。トルーマンは原子爆弾実験成功の報告を手中にし、7月17日、ポツダム会談に臨みました。トルーマンは、ソ連が8月8日に参戦する通告を受け取っていたので、アジアでのアメリカ主導権を握りたい一身でソ連参戦より早く原子爆弾を使用したかったのです。

7月26日、アメリカ・イギリス・中国のポツダム宣言が発表されました。「日本政府に対し無条件降伏を宣言し、これ以外の選択は迅速かつ完全な壊滅があるのみ」という最後通牒でした。日本の鈴木首相は、それを聞いて「ただ黙殺するのみ」と新聞発表しました。だが、黙殺は翻訳では、「拒否」という英語となり連合国に伝わってしまったのです。トルーマンは喜んだ。それはポツダム宣言発表の前、7月25日、極秘に原子爆弾投下命令をしていたからなのです。

第1目標は広島、第2目標は小倉、第3目標は長崎、第4目標は新潟と決められました。B29エノラ・ゲイは、8月6日広島上空で原子爆弾リトルボーイを投下しました。8月9日、B29ボックス・カーは、小倉上空に到着しましたが、厚い雲にさえぎられて目視できず、長崎に向かいました。同じく長崎も厚い雲に覆われていましたが、1カ所だけポカーンと穴が開いており、プルトニウム爆弾ファトマンを投下したのですね。

.. 2008年01月23日 07:14   No.119006

■--自衛権
++ 六 (高校生)…50回          

自衛権があるかないかというのは愚問である。自衛作用のない生物は滅亡するほかない。自衛は当然である。問題は、ある行為が自衛にあたるかどうかという時に、自衛権の行使であるかどうかという問題がでてくる。これを個人でいうと自分を害しようという者がでてくると、氣の荒いやつはたたきつぶすとなる。おだやかな者はそこまでしなくてもという。もし物理的戦いとなると、自衛からはじまっても自衛ではおわらないのがふつうだろう。そういうのは業務上過失防衛とかいうことにして、自衛隊員には、もし外国に行くことになったら自衛の自由を与えるべきではないか。ただし、これは一般論で、私は自衛隊の実情については何も知らない。
.. 2008年01月08日 19:31   No.117001

++ タク (部長)…198回       
去年の12月忘年会で一緒だった民主党の小沢一郎代表は、現在の状態から民主党が総選挙で勝利するという不安を感じていたのかも知れない。民主党の結束のひとつであるのが、安全保障問題です。インド洋での海上給油、イラク派兵など、自衛隊の海外派遣は、集団的自衛権に反する憲法上の問題を解決しないままに、拡大解釈されていく懸念を含んでいます。国際連盟と言う、集団安全保障を前提とした国際機関が戦後、機能していない事実を前にして、国際連盟への評価を二分しています。国際連盟を過信してはいけないのですが、無視する事もできないのが安全保障問題なのです。

.. 2008年01月08日 20:50   No.117002

■--迷訳?
++ 六 (中学生)…47回          

パール判決書の英文を訳文を参照しながら読んでいたら、self−defenseを自衛権と訳してある。ことばの意味は自己防衛だ。aggression(侵略)とself−defenseは切り離せない問題であるという時には何も自衛権などと訳す必要はあるまい。今の世で自己防衛しなかったら死んでしまうだろう。自己防衛は権利などではない、するしないは個人の判断だが、ある場合には義務であるかもしれない。国家においても自己防衛は当然で個人以上に義務の面がでてくる。問題は自己防衛と口でいって侵略する場合があるということではないか。
.. 2008年01月04日 10:53   No.116001

++ 六 (中学生)…48回       
管理人さま、上に書いたことは錯覚で、よく見たらthe right of self−defenseとなっていました。自己防衛の権利すなわち自衛権です。めんどうでなければ、このレスとともに、「迷訳?」の削除をお願いします。
.. 2008年01月04日 11:29   No.116002
++ タク (部長)…195回       
荒らし防止で難しくしてしまって削除が難しいです。ご自分で出来ませんか。多くの方から誤字脱字や間違いなので削除して欲しいのメール貰いますが、私自体も間違いだらけですが、そのままです。一度書いたものはそのままでお許しください(笑)
.. 2008年01月05日 16:33   No.116003
++ 六 (中学生)…49回       
けっして、自分でやるのがめんどうだから?たのんだのではなく、自分で削除することは考えていなかったのです。たぶん削除キー?も入力しなかった。これからは自分で削除することも考えましょう。しかし、一度書いたら消せない掲示板というのも、おもしろいかも。
.. 2008年01月08日 19:18   No.116004
++ タク (部長)…197回       
すいませんねぇ〜
また、この掲示板はこのままにしてURLは変更してあるのです。
もう削除できない(爆)
余計なバナー広告はなくなりました。

*一度書いたものが突然消えると苦情のメールが沢山来るので消さないでね(笑)

.. 2008年01月08日 20:21   No.116005

■--東京裁判
++ 伝六 (高校生)…69回          

東京裁判速記録を読んでみようと思って、図書館に行ったら、私の住んでいる県の公立図書館にはおいていないという。それで国会図書館から借りてくれたが、館内閲覧のみ許可するというので百分の一くらいしか読めなかった。なにせ分厚い本十巻で、辞書のような小さい字でギッシリつまっているのだから、ふつう?読むのがいやになる。しかし、読みはじめると内容的には興味深いものだ。せめて主要?公立図書館にはおいてもらいたい。といっても、現在は出版されていない。分量は多いが下手な解説を読むよりは百分の一でも読んだほうが有益だ。
.. 2007年10月13日 20:07   No.108001

++ 伝 (高校生)…67回       
昭和十八年十二月一日(あるいは十一月二十七日)のカイロ宣言では三大同盟国(米英支)は日本国の侵略を制止し罰するために戦争をしていると言っている。そして三大同盟国は連合国と歩調をそろえて、日本国の無条件降伏を得るために重大かつ長期の軍事行動を忍耐強く続行すると言っている。この日本国の無条件降伏から、ほんの少し譲歩したのが、ポツダム宣言で、「吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且つ右の行動に於ける同政府の誠意に付適当且つ充分なる保証を提供せんことを同政府に対し要求す」とあって、日本国政府が無条件で降伏することを要求していない。ただし、それに続いて「右以外に日本国に残されたる途は迅速且つ完全なる壊滅あるのみとす」とあって、脅迫のような文章がある。それはともかくとして、降伏の条件を提示したのだから、軍隊はみごとに無条件降伏をしたのだから、提示した約束はまもるべきである。それが人間の論理である。そこで東京裁判において清瀬弁護人は、ポツダム宣言の第十にいうところの戦争犯罪人は当時の国際法でかんがえられる戦争犯罪をおかしたものに適用されるべきであって、平和に対する罪、人道に対する罪で、裁くべきではないと主張した。これに対してキーナン検事はポツダム宣言第六条の「無責任なる軍国主義が世界より駆逐せられざれば、平和、安全及び正義の新秩序が生じ得ざることを吾等は主張するものなるを以て、日本国民を欺瞞し誤導して世界征服の挙に出しめたる者の権力及び勢力は、永久に除去せられざるべからず」をひいて反駁している。
.. 2007年10月14日 19:59   No.108002
++ タク (課長)…178回       
極東軍事裁判法廷でキーナン検事の発言が終ると、法廷は失望にざわめいたと言います。それは人類の最重刑である死刑判決が下されたからです。キーナン検事は、休憩時間に記者団に質問されると、「死刑だ。遠慮なくロープを使え、という意味だ」と答えたが、死刑の求刑は、予期されていたことでした。しかし、ただ重刑に値するというだけでは、2年間の審理の成果を伺う事が出来ません。論告文は予想された格調の高さもなく、罵倒に似たむきだしの表現に満ちていたのです。「復讐心の満足」と鈴木元企画院総長がつぶやいた感想は、被告や弁護人、新聞記者たちにも共通していたのですね。

キーナン検事の秘書山崎晴一は、キーナン検事は、ナチス・ドイツと日本は違うと言って財界人の免責を強調して「適切かつ法にのっとった裁判」が行われると述べたり、天皇をかばう努力したり、要するに明らかに裁判の進行につれて、日本の国情にたいする理解度を深めたためか、態度の軟化がうかがわれました。しかし、最終論告にその気配の反映はなかったのです。山崎秘書は、キーナン検事が帰米するので、その前夜、キーナン検事に被告の評価を求めました。最終論告には個人論告も含まれているが、キーナン検事の調子からみて、アクセントのある論述は期待薄でした。山崎秘書はキーナン検事に被告にたいする人物評価を求めたのです。

検事団と判事団との「一体性」が感じられるだけに、キーナン検事の論評から検事側の被告にたいする気持がわかれば、判決の筋も予知できると聞いてみたら、キーナン検事の返事はあっさりと「木戸がもっと強くて東条一派の圧力に屈伏しなかったら、日本の運命は違っていただろう。南、荒木、裁判は必要だが刑は不要だろう。年をとりすぎている。白鳥はよくない。大島は立派な軍人だと思う。武藤はずるい奴、畑は立派な将軍だし、どこの国でも同じだが、アメリカ人はアメリカ人らしく、日本人は日本人らしい人物が立派だ」

検事たちは、3時間も単独で朗読すれば交代したのですが、ソ連検事ワシリエフ少将は延々2日間にわたって朗読しつづけて声帯の強靭さを誇ったと言います。

.. 2007年10月15日 06:09   No.108003
++ 伝 (高校生)…68回       
所謂カイロ宣言の翻訳であるが、公式訳は「右の目的を以て右三同盟国は同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し」とあるが、同盟諸国の原語はUnited Nationsとあるから、連合国と訳したほうがいいと思う。三同盟国というのは、three Alliesとなっている。だから、「右の目的を以て、右三同盟国は日本国と交戦中の連合国と協調し」と訳したほうが、今においては歴史の流れがよくわかると私は思う。というのは昭和16年に連合国共同宣言が発せられているからである。
.. 2007年10月16日 20:17   No.108004
++ タク (課長)…179回       
対日関係で、米国はアジアを無視してきた。1943年12月1日、カイロでチャーチル英首相とルーズベルト米大統領、日本を「懲罰、拘束」し、日本が「暴力と貪欲」によって奪った領土をすべて取り上げる決意を明らかにしたとき、米国国民は正義と民主主義の行動として歓迎した。しかし、イギリス、フランス、オランダのどの国も自分達の植民地に対しては独立を約束していなかったのです。当時の状況から、アジアの政治活動家たちが対日カイロ宣言を解釈するなら、日本の罪状は、植民地住民に対して暴虐をふるったことではなく、日本の暴虐が、同じような暴虐でヨーロッパ諸国が確立した植民地体制の現状を揺さぶったことなのです。

.. 2007年10月17日 07:15   No.108005
++ 伝 (高校生)…69回       
訂正します。連合国共同宣言が発せられたのは昭和17年1月1日です。同宣言は特にヒトラー主義を問題にしています。連合国の行った軍事裁判が、日本の戦争犯罪人についても、ニュルンベルグ裁判と同じ基準を無理にあてはめようとしたことと関係あるかもしれません。
.. 2007年10月19日 22:06   No.108006
++ 伝 (大学生)…70回       
訂正します。連合国共同宣言が発せられたのは昭和17年1月1日です。同宣言は特にヒトラー主義を問題にしています。連合国の行った軍事裁判が、日本の戦争犯罪人についても、ニュルンベルグ裁判と同じ基準を無理にあてはめようとしたことと関係あるかもしれません。
.. 2007年10月19日 22:18   No.108007
++ タク (部長)…180回       
裁判が事後法によって行なわれたということです。それは事が起きた後に法律を作成して適用するという、近代法の考え方からは逸脱したものです。戦犯たちは3つの罪に問われました。
1.平和に対する罪。
2.人道に対する罪。
3.通例の戦争犯罪。
このうち、1の平和に対する罪と2の人道に対する罪は、太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発する以前にはないもので、ドイツの戦犯を裁くニュルンベルグ裁判で創設されたものでした。つまり、ドイツと同じように、侵略と大量虐殺で日本を裁こうとしたのです。

パール判事の発言では、「この裁判は戦勝国による復讐裁判である。欧米諸国がアジア諸国に行なった行為こそ侵略だ!事後法で裁く事は、法の審理を蹂躙する愚挙である。この裁判は国際法違反、よって全被告は無罪!」

.. 2007年10月20日 06:35   No.108008
++ 六 (中学生)…40回       
カイロ宣言の三週間少し前に大東亜共同宣言が発せられている。日本、ビルマ、満洲、南京政府(中国)、タイ、フィリピン、自由インド仮政府の首脳が東京に集まって、大東亜会議を開催し、戦争目的をうたったものである。そして戦争の原因を次のように言っている。「・・・然るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ・・・・」というが、これはだいたい本当である。もっとも、米英にかぎらず欧米では、自国の繁栄のためには欧米の他国家他民族を抑圧した歴史がある。そしてアジアに対してはその抑圧は一段とひどく侵略搾取と言ってよい。それでは日本はどうか、やはり帝国主義でないかと疑われるが、日本は共存共栄を理想とする国だ。近代日本に帝国主義があっても、どこか腐っても鯛というところがある。しかし、そういうところをまったく認めないのが、戦後日本のだいたいの論調である。東京裁判などは、日本の悪いところは、ご苦労なくらい調べた(その上捏造もとりあげた)であろうが、いいところを示す資料はだいたい却下したであろう。
大東亜共同宣言とカイロ宣言は対照すべき宣言であろう。ただ大東亜共同宣言は旗色がそうとう悪くなっての宣言であり、勝っていたら、宣言どおりのことはできなかったであろう。カイロ宣言は勝利を確信しての宣言であり、どぎつい文句をならべて、勝利の結果は東京裁判のような悪どいことをやっている。東京裁判の全部が全部悪いとはいわないが、国際法を破壊するようなことをやったのだ。

.. 2007年10月20日 21:26   No.108009
++ タク (部長)…181回       
第二次世界大戦中、アメリカは、世界を征服し奴隷化する野望に燃えた軍国主義的侵略者、日本の事を言うが、日本が「白人ブロック」の「奴隷体制」から太平洋地域と「アジアを解放する」というスローガンのもとに日華事変し第二次世界大戦を戦っている事を見ようとしなかったのです。1931年の満州から1941年のインド国境まで、日本が破竹の勢いで進出できたのは、アジア・太平洋諸国をヨーロッパの白人政治・経済的支配から解放するという大アジア建設計画・大東亜共栄圏のダイナミックな革命的魅力に負うところが大きいのです。

アジア・太平洋地域の植民地には、もともと経済的支配からの政治的独立と自由への渇望がありました。日本国の思いは、それに火をつけたに過ぎません。その1つは、開戦当初の日本は、ほとんど銃火を交えないで戦果を収めているのです。ヨーロッパのアジアを植民地にしている白人達は、日本軍から逃げたのではなく、現地住民の敵意から逃げたのです。米国が「日本からの解放」と呼んでいたものは、実はヨーロッパ白人によるアジアの再征服という恥ずかしいことに、アメリカが手を貸したことだったのです。

.. 2007年10月23日 06:16   No.108010
++ 六 (中学生)…41回       
平成18年10月6日の衆議院予算委員会で、安倍首相はA級戦犯は国内法的には戦争犯罪人ではないと発言した。ある戦犯問題研究家は「公式の場で堂々と発言したことは意義深い」と言われた。今まで、そういうことを言った首相はないのだろう。今後の首相は、さらに一歩を進めて国際法的にも戦争犯罪人ではないと発言してもらいたい。世界の国際法の大家は皆支持するであろう。世界のわからずやどもからは袋叩きにあうかもしれないが、そのおそれは少ないと思う。ガリレオはそれでも地球は動いているとつぶやいて、四百年たって、裁判が訂正された。今は時代の回転がはやくなっているから、昔百年でおこった変化が十年のうちにおこる。東京裁判の戦犯は国際法的には全員無罪。ただし道義的には無罪ではないだろう。それは真理の法廷できめればよい。
.. 2007年10月24日 22:10   No.108011
++ タク (部長)…182回       
第二次世界大戦の終戦後、東京裁判が行われ日本人は裁かれました。日本が実際に「人類に対する罪」を犯したとしても、白人が日本国民を懲罰するのは果たして正義なのだろうか。また、将来起きるかもしれない同様の犯罪の抑止力になりうるだろうか。答えはノーです。

西洋列強が極東で行ってきたことをふり返り、戦争中の白人の行動を認識し、白人社会の政策と連合国の戦争政策を日々の新聞紙上で追うならば、日本を有罪にしても民主主義諸国の罪はぬぐえないことがわかるでしょう。日本が犯した罪は実際には何であったか、白人が何で日本を罰しているのか、白人はどういう根拠で罰せられるより罰する立場にいるのか、将来現れる侵略者にはたぶん、理解できないでしょう。

日本の罪と罰を再吟味して思うのは、国際法の原理原則はもっと厳密に定義する必要があるということです。日本の犯罪を人道的見地からいうなら、「国益」という自己利益を人権の上に置き、「国家の存亡にかかわる利益」を武力に訴えて守ろうとしたことです。しかし、すべての国がそういう行動を合法的権利と考えている限り、強者による弱者の懲罰は、自らの支配体制を維持しようとする大国の我欲でしかない見せしめの処刑でしかありません。

一連の「事変・事件」で日本を裁く民主主義諸国の法的立場は、国家間の紛争と不平等問題は平和手段で解決すべきであり、解決出来るということを前提にしています。しかし、事実は、この前提を認識してくれない。たとえば、アメリカもイギリスも対中国関係では、自分達の特権的地位を放棄しようとはしなかった。米英両国とも日本が獲得した租借地と外国資産を中国行政府に引き渡すまで、不平等条約、治外法権、租借地を返上しなかったのです。

.. 2007年10月26日 06:20   No.108012
++ 六 (中学生)…42回       
終戦の頃からでないかと思うが、アライド パワーズを連合国と訳すようになった。降伏文書では、米英支ソをアライド パワーズということにすると書いてある。東京裁判をおこなったのは、基本的に、このアライド パワーズである。ユナイテッド ネーションズではない。アライドパワーズはユナイテッド ネーションズの中心?勢力であるが、ユナイテッド ネーションズそのものではない。日本語でアライドパワーズを連合国と訳するようになったが、ユナイテッド ネーションズも、ある場合は連合国と訳する。しかし、現在のユナイテッド ネーションズは国際連合と訳する。私はいつ誰がアライドパワーズを連合国と訳するようになったかと、問題意識をもって史料を見ている。
.. 2007年10月28日 16:31   No.108013
++ タク (部長)…183回       
有名なイギリスの歴史学者、H・ウェルズは終戦直後、大東亜戦争で日本が果たした世界的役割について、「大東亜戦争は大植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の基礎を築いた」と述べている。このような世界民族平等の理念は、現在の国際連合(UN)発足の基礎にもなったものです。大東亜戦争はアジア解放のための戦いだった。結果的に日本は敗れたとはいえ、その戦争目的は最終的に達成された。これをどうして「侵略」とただ単純に東京裁判で裁くことができるだろうか。
.. 2007年10月30日 06:42   No.108014
++ 六 (中学生)…43回       
ソ連とフランスの判事は、法廷の公用語である英語、日本語のどちらも理解できなかったという。これでは公正な判断はできない。まるで悪い冗談のようだ。ソ連などは日本軍が無条件降伏したのをさいわい、捕虜にして本国につれてゆき、過酷な労働をさせるというようなことをやっておいて、その前には、条約を破って攻め込んでおいて、それで日本の侵略を裁判しようというのだから、ふつうの神経でない。またそれを認める連合国も日本憎しかなにかの感情?で道理感覚を喪失してしまっているのか。日本国に罪ありと仮定しても、この裁判は公正でない。アメリカ人にも不公正を認める人は少なくないが、アメリカ国としては、まだ東京裁判は正しいという立ち場だろう。
.. 2007年11月10日 20:18   No.108015
++ タク (部長)…185回       
ソ連検事ワシリエフ少将は延々2日間にわたって朗読しつづけて声帯の強靭さを誇ったと言います。また、その論告は、一部門の担当というよりは、ソ連独自の最終論告の形をとり、はっきり東条大将ら11被告の名前をあげ、それぞれ次のような人物評を加えて責任を追及しました。

東条=「日本軍閥の首領」
梅津=「対ソ侵略計画の直接指導者」
荒木=「日本軍閥の膨張思想指導者」
板垣=「対ソ侵略の全事件の関係者」
平沼=「対ソ軍事ブロック創設の従事者」
南=「日本帝国主義者一味の古い指導者」
重光=「日本の侵略的対外政策の先導者」
広田=「外交官の職業を侵略陰謀目的の実現の手段とした、日本支配階級の最も有力な指導者」
大島=「三国同盟締結の陰謀参加者」
橋本=「ソ連邦の徹底した凶悪な敵」
東郷=「対ソ侵略の幹部的犯罪人」

このソ連検事の評言は、被告たちを驚かせました。「憎悪と雑言のみ」と重光元外相が嘆息すれば、鈴木元企画院総裁も憮然としました。鈴木元総裁は、「極刑者は10人くらいの見込みだ」という「情報」を、戒能通孝弁護人から聞いたが、ソ連検事の主張がとおるものなら、それだけで10人の極刑者は決まったようなものです。ソ連検事の人物評価のうち、やや軟調子なのは平沼元首相だけで、あとの10人は、まさに極刑に値する評価だったのです。

.. 2007年11月11日 15:42   No.108016
++ 伝六 (大学生)…71回       
東京裁判では犯罪を3つのカテゴリーにわけた。所謂「平和に対する罪」、「通例の戦争犯罪」、「人道に対する罪」である。それは裁判所条例の代条に規定されている。これについてパール判事は次のように述べている。
「裁判所条例第5条は、犯罪の異なるカテゴリーを定義したものと言われている。条文は平易な語で人及び犯罪に対する管轄権のみを与える趣旨である。そうしようとして憲章は「次の行為は・・・本裁判所の管轄権に属する犯罪とする」とのべている。わたしの意見では、その意図はこれらの行為が犯罪を構成することを制定しようというのでなく、これらの行為に関して、もし犯罪があるなら公判に付することができることを制定しようとしたものである。これらの行為が何らかの犯罪を構成するかどうかは適切な法により裁判所によって決定されるべく、オープンな状態にあるのである。わたしの意見では、これが条例についてとることのできるただ一つの可能な見解である。ポツダム宣言、降伏文書は、連合国(アライドパワーズ)が、過去の行為に対して彼らの選ぶどのような性格をも与えるような権威をもち、そしてそれによる処罰を未来において決定できるとは確かに想定していなかったのである。これらの文書を読んで、そのような権威を認めることは不可能であり、連合国がこれらのなかでなされた厳粛な宣言に違反し、亦おそらくは国際法と慣例を無視して、そのようなゆゆしき力をもつことをもちろんのこととしているとは、私はしばらくも想像することができないのである。私はそのような憲章の解釈が、ただ一つの可能な解釈ではないのに、連合国、もしくは連合軍最高司令官に対して、そのような無慈悲な仮定をしなければならないといういかなる理由もみつけることはできないのである。」
以上は辞書をひきながら、共同研究パール判決書の訳文を参照しながらの拙訳である。パール判事は連合国から任命されているのだから、表現には相当の配慮をしていると思われる。なるべくおだやかに言いたいことをきちっと言うというのはむつかしいことではないだろうか。パールは頭もよかったのだろうけれど、その道徳的勇気には感心する。

.. 2007年12月23日 16:58   No.108017
++ タク (部長)…192回       
南京虐殺は、退却した際の中国側の暴行、略奪と重なり合い、どの程度が日本側によって行われたものかは分かりません。有名な東京裁判におけるマギー神父の証言や、ラーベ日記における記述も、直接本人が目撃、確認したものは1件を除いてないあり様です。また南京事件をはじめて世界に広めたJ・ティンバレーの『中国における日本軍の残虐行為』についても、取材風景は以下のようなものでした。

攻略翌日に南京入りした福田篤秦参事官の証言によるものです。「残虐行為の現場は見ていないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながらあったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されているようだ。当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所にでかけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけこんで来る。

『いま、上海路何号で10歳ぐらいの少女が5人の日本兵に強姦されている』あるいは『80歳くらいの老婆が強姦された』等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか』と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない、住んでいる者もいない。

また、『下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった』と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。ティンバレーの原資料は、フィッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられる。と・・・

.. 2007年12月24日 09:20   No.108018
++ 伝六 (大学生)…72回       
71回投稿の三行目の「裁判所条例の代条」は「裁判所条例の第5条」のまちがいです。

「極東(のための)国際軍事裁判所条例」にはA級戦犯という語は、どこにもありません。第一条に、極東における重大戦争犯罪人の公正(just)かつ迅速なる審理および処罰のためここに極東国際軍事裁判所を設置す」とあって、重大戦争犯罪人(容疑者)を裁判したのが、東京裁判です。A級BC級というのは、宣伝のための語で、GHQのカーペンター大佐は、A級というのは東条首相のごとき政治的指導者をいうと「星条旗」紙に発表しています。Bというのは戦場における虐殺等の責任を問われる指揮者。Cというのは虐殺等を実際に行った兵隊というように分類しています。ニュルンベルグ裁判ではBクラスは通常の戦争犯罪、Cクラスは人道に対する罪(対象はユダヤ人のホロコースト)と認識されていますので、極東でもC級犯罪があったとなると、日本人が中国人のホロコーストをおこなったのかと知らない人は思うわけです。戦時中に日本軍は野蛮で獣的な軍隊と宣伝してきたから、日本軍は世界の軍隊に比して野蛮で獣的とはいえない、比較的りっぱであるとなれば、宣伝にならない。それでC級犯罪があることにした。松井大将はそのために有罪死刑になったのではないか。私はそのような疑問をもっています。

.. 2007年12月29日 11:26   No.108019
++ タク (部長)…193回       
一般の呼び名である「東京裁判」を正式に言うと「極東国際軍事裁判」と言い、太平洋戦争(大東亜戦争)の戦勝国(米国、英国、中国、ソ連など)が、負けた日本を裁く軍事裁判の事です。その軍事裁判の中にA級戦犯というものがあります。A級戦犯というのは、指導的役割で戦争を遂行した人のことで、他にB級戦犯、C級戦犯というものがありますが、これは罪の重さをランク付けしたものではなく種類別したものです。正式には「分類A」というのが本当の呼び名ですね。

ちなみに第二次世界大戦で指導的役割をした28人が起訴されています。A級戦犯とされた人物と判決は、東条英機首相・絞首刑・板垣征四郎陸相・絞首刑・広田弘毅首相・絞首刑・平沼騏一郎首相・終身禁固刑などです。〔分類A〕平和に対する罪(侵略戦争の遂行)・〔分類B〕通常の戦争犯罪・〔分類C〕人道に対する罪(民間人に対する迫害・せん滅)。

靖国神社には戦犯で絞首刑になった人が刑を執行された後で、罪を償ってから祀られています。法的には、刑期を終えた犯罪者と一緒で、刑罰が終了した時点で受刑者の罪は消滅するというのが近代法の理念です。釈放をもって戦犯の名誉は国際的にも回復されたと言うことです。

A級戦犯とされ有罪判決を受け禁固7年となった重光葵氏は釈放後、鳩山内閣の副総理や外相となり、国連加盟式典の代表として戦勝国代表から拍手を受け功績を認められ勲一等を授与されているのです。さらに終身刑となった賀屋興宣は池田内閣の法相を務めています。名誉が回復されていないとするならば、日本国は犯罪人を大臣に任命して勲章を与えた事になるのです。彼等がA級戦犯だからといって、国際的に不都合なことは何も起きていないのです。

.. 2007年12月31日 07:20   No.108020
++ 伝六 (大学生)…73回       
名誉回復というのがどういう意味かあいまいなところがあります。BC級の人には冤罪が多い。冤罪であったということをあきらかにしてこそ、名誉の回復だと思います。この点、BC級戦犯にたいしては国家はやるべきことをまだやっていないと思います。国内的には犯罪人ではないことになった。しかし、まだ筋を通していない。いまさら、そういうことをやっても死んだ人はいきかえらないし、家族の人もほとんどなくなっているけれど、事実は事実として、国家としてあきらかにすべきだと思います。
.. 2007年12月31日 14:54   No.108021
++ 伝六 (大学生)…74回       
年末はゆっくりすごしたいのだけれど、際までパル判決などを読んでいる。私の考えでは東京裁判あるいは極東国際軍事裁判というのはINNTERNATIONAL MILITARY(軍事)TRIBUNAL(裁判所)FOR THE FAR EASTすなわち極東国際軍事裁判所でおこなわれた裁判のことです。極東(のための)国際軍事裁判所と「ための」をいれたのは、FORの直訳です。
.. 2007年12月31日 18:18   No.108022
++ タク (部長)…194回       
日本の総理大臣であった小泉首相の言葉を借りれば「不戦の誓い」、2度と戦争をしてはいけないという誓いのために、日本国内の神社に行っても、それを外国からとやかく言われる筋合いはないと思うのです。中国などが言う「A級戦犯が悪い」ということを認めるならそのとおりですが、本当にA級戦犯がいけなかったのか、と考える必要があるでしょう。

日本と中国の認識の違いがあります。日本は中国を侵略する意図はなかったのですが、中国は侵略戦争だったと言います。日本は刑の執行で罪は償ったと認識していますが、中国はA級戦犯で死んでも罪人だと言います。罪を償ってから祀っていますと言っても中国では罪人の罪は未来永劫消えないというのです。ということは、東京裁判そのものが正しかったのかという事になります。

正月からお客さんのおもてなしでパーティーが続きます。ずーと呑み続けます。だが、宴はいつかは終わる(笑)

.. 2008年01月01日 10:26   No.108023
++ 伝六 (大学生)…75回       
ニュルンベルグ裁判をうけたドイツについては、西ドイツ議会により戦犯には時効を認めないとの決議がなされ、戦犯処理という実務の上において、この点が結果を大いに異にすることとなったものである。この宣言は「戦争犯罪及び人道の罪に対する時効不適用に関する条約」として1970年11月11日に効力を発しているが、わが国の代表は、
「時効制度は刑法上、既に長期にわたって確立した制度であり、その撤廃は逆に犯罪容疑者の人権保護の問題とも関連して慎重に検討すべきである。戦犯など極めて非人道的残虐な犯罪について時効制度の適用除外を例外的に考慮することは可能と考えるが、そのためには犯罪の内容範囲を明確にすることが先決である。事後法の禁止は法律の大原則で、人権規約第十五条でも明確に保証されており、従って遡及処罰には賛成しえない云々」として、わが国はこの条約に加入していない。条約に加入しなかったのは正しいけれど、その論拠については半分しか賛成できない。ただ、「犯罪の内容範囲を明確にすることが先決である」というのは正論である。BC級戦犯とされる人の「犯罪の内容」について国家としてまだあきらかにしていない。人権蹂躙について被害者の家族は国家を相手に訴訟をおこしていい問題でないかと思うが、現在にいたるまで勝つ見込みのない裁判になるであろうから、やった人はいない。
時効などというのは、実務処理上そうするだけであって、悪人の便利になるようなことは、なるたけやらないほうがいいくらいだ。犯罪者の人権については、残虐非道な犯罪については、人権喪失規定をもうけるがよいと私は思う。もちろん悪用してはいけない。BC級戦犯の問題は時効だとか人権だとかとはちがった範疇の問題である。

.. 2008年01月03日 12:08   No.108024
++ タク (部長)…196回       
実は、現在問題になっているのは領土、教科書、靖国、日本の安全保障理事国入りの問題、すべてがこの東京裁判で扱われた太平洋戦争(大東亜戦争)に対する認識に原因があるのです。日本の国連安全保障常任理事国入り問題では、小泉元首相が平成16年国連総会で、安全保障理事会の常任理事国をめざすことを表明して、日本は国連予算の全体の約20%を拠出し、アメリカをのぞく常任理事国の負担金の合計よりも多いのです。

常任理事国入りは日本の世界での発言力強化にもつながるし、安全保障に関する情報をより早くキャッチできると言いますが、現在の常任理事国の中で、中国などは強くこれに反発しています。アジアで中国以外に安保理の常任理事国ができれば、中国の影響力が低下すると考えているからですね。

.. 2008年01月05日 18:19   No.108025

■--雑記帳
++ 六 (中学生)…44回          

外務省篇の終戦史録の年表を見ていると、昭和十九年十月二十日、チャーチル、スターリン、ハリマンのモスコー会談終わる(会談中スターリン、ハリマンに対して対日戦参加を約す)とあって、同年十一月七日、スターリン日本国を侵略国と看做すと演説。まさに、その日、「ソ連大使館の革命記念日に日本高官多数出席(スターリン演説後)」と記載がある。あとから見ると、さだめて馬鹿面をならべたことであろうと思うが、お人よしばかりだったのかもしれない。こういう演説をスターリンがしているのを見逃したのは、そうとうボンヤリしている。人のふり見てわがふりなおせである。歴史的事件にかかわる人は、よく、かんがえ、よく鍛錬していないと、いけない。市井人でもそういう場面にでくわすことが、絶対ないとはいえないから、修養は必要である。
.. 2007年12月03日 19:46   No.112001

++ タク (部長)…188回       
条約を破って日本に攻め込んだソ連の言い分
昭和20年(1945年)9月2日スターリンが、国民に送った戦勝メッセージより。「日露戦争」日本がわが国に対して侵略を始めたのは、遠く1904年(明治37年)日露戦争からである。周知の通り1904年2月、日本はロシアとの間にまだ折衝がつづけられていた時、日本はツアー政府の弱体につけこんで、不意に背信的に戦争の宣言なしにわが国に襲いかかった。そしてロシアは負けた。この敗北は、国民の心に重苦しい思い出を残した。わが国民はいつの日か、日本が撃破される日が来ることを信じて待っていた。そして今や遂に、その日がやって来た。

.. 2007年12月06日 22:11   No.112002
++ 六 (中学生)…45回       
萩原徹著「大戦の解剖」によれば、ソ連の対日参戦の政治的条件や名目に関する苦心にもかかわらず、ソ連がいよいよ日本に宣戦した時、そのニュースは一般のロシア民衆には大した反響はおこさなかった。又一週間後戦争の終わった時も民衆はほとんど無関心であったという。対独戦争では、ロシア人の誰にもドイツ人に殺されたり、ドイツに連れていかれたりした近親や友人があった。また又都市の破壊やドイツ人の残虐を眼でみていたので、ドイツに対するロシア人の敵愾心は強かった。日本については、戦争中ずっと中立維持の必要から新聞などにもほとんど何も書かせなかった。今更急に民衆に民衆に対日憎悪心を起こさせることは。さすがのソ連宣伝機関もできない相談であったらしい。というように書かれています。
.. 2007年12月17日 20:37   No.112003
++ タク (部長)…190回       
ソ連宣伝「ソ連邦対外政策史」軍国主義日本に対する勝利の結末、ソ連は固有のロシアの土地・・・南サハリンとクリル諸島(千島)をとり返した。これらの領土は、ソ連の対日戦参加の条件として、ヤルタ協定に準拠して、ソ連に返還されたものである。

「対日参戦」極東におけるソビエト軍の諸作戦は、第二次世界戦争全体の結末に大きな意義をもっていた。日本帝国主義者どもの突撃的目的集団の一つであった関東軍の撃滅は、日本の敗北と無条件降伏を早めさせた。後日西側諸国は日本撃滅の際のソ連の役割を小さく見せるため・・・例えば1951年アメリカ国務省が作成した対日平和条約草案に「ソ連が対日戦に参加したのは、僅に六日間」と、明瞭に書かれていた。

しかしソビエト陸軍は六日間ではなく一ヶ月にわたって日本軍と血みどろな戦闘を行った。なぜなら関東軍は、天皇の降伏宣言にも拘わらず、なお長く抵抗を続けていたからである。ソビエト陸軍は、満州で22ヶ師団を撃破し、将兵六十万人を捕虜とした。日本は関東軍の決定的打撃を見て、はじめて降伏を決意したのである。

.. 2007年12月20日 20:54   No.112004
++ 六 (中学生)…46回       
なるほどー、ソ連宣伝機関はそういうように言うのかと思いますが、ある面で語るにおちることを言っている。樺太千島列島に侵攻したのは、客観的に考えると、実効支配するためで、そのために流さなくてもいい血を流した。日本は降伏したのだから、満洲も急いで攻めることはなかった。一ヶ月も待っていれば、ほとんど血を流さず、悲惨な目にあう人もはるかにはるかに少なく事は運んだ筈である。ソ連の口実とは無関係に、戦争によって血を流して利益を得ようとしたから、悲劇がおこった。捕虜もそうで、給料も払わず超こきつかうのだから、国際法違反である。それでいいたい放題。無茶苦茶言いよると若干笑えるところがあるが、しかし、あまり断言的に言われると事実を知らない人は、そうかなと思ってしまうかもしれない。
.. 2007年12月21日 21:43   No.112005
++ タク (部長)…191回       
さらに、8月8日、ソビエトは日本に対し戦宣し、8月9日未明、約4,000kmにわたる戦線から攻勢に入り、20日までは関東軍主力を撃破し、9月9日には満州における個々の集団の抵抗は、事実上終わった。8月9日、ソビエト軍の攻撃に呼応して、モンゴル人民共和国も参戦、中国解放軍も攻勢に転じ、僅か11日間、8月9日より19日までに関東軍は撃破され、満州、旅順、遠い昔からロシアに属していた南サハリンとクリル諸島から、日本人を駆逐し、北朝鮮を開放した。

極東におけるソビエト軍の軍事行動の目的は、北東中国の日本軍の撃破と、遼東半島に進出することにあった。南サハリンに対する攻撃は、8月11日の朝よりから始められ、8月25日には、同地区全部の日本軍の帰討を終わり、一方クリル諸島は、8月7日午前4時、上陸部隊の舟挺多数が、カムチャツカのペトロパヴロスクを出て、濃霧の中を多数の軍艦に掩護され、東海岸に沿って、クリル諸島最北端のシュムシュ島を攻撃し、9月1日までに解放を完了し、両地合わせて63、840名の将兵を捕虜とした。

.. 2007年12月22日 10:23   No.112006

■--時代の先端を切り拓いた前野良
++ 樋口篤三 (幼稚園生)…3回          

 1868年・明治維新⇒1945年・日本帝国の惨敗と米占領軍による上からの大改革、さらに下からの民主革命と占領軍との対立、米軍政−吉田政府の制覇⇒高度成長
・世界第二位の経済大国化⇒いま。この巨視的な歴史観ぬきに、いまのめまぐるしい大変動の本質と流れはよくみえない。
 そして政治・経済・文化・道徳は深刻な危機にとらわれ、第二の“亡国の危機”とさえいわれている。
 梅原猛(前日本ペンクラブ会長。九条の会よびかけ人。“梅原日本学”ともいわれる独創的哲学者)はいう。
 「日本人全体に道徳がマヒしている。日本はいま、たいへん危ない、滅ぶんじゃないかと言われていますが、滅ぶとしたらその原因のひとつは、日本人から道徳心が失われていることにあると思います」。

   全体性と倫理(道徳)

 政治学者・前野良は長い学者・運動者の総括をふまえ時代認識と運動の結論としていう。「今後の危機は、政治、経済の危機の時代であると同時に、運動の思想の危機の時代であると考えています。大きな歴史の転換の時代における民衆運動の思想の危機でもあるのです」。(今日の社会運動・市民運動の思想への問題提起)
 「全体知、全体性の回復それは全体主義とは異質のものと倫理(道徳)性、必ず新しい時代を創り上げる倫理。この二つが運動の一番中心の軸になってきた…キー、概念」。「全体性と倫理性というのは私の考え方の今基礎に枠組みになっているんです」。この考え方は愛する麻子夫人が亡くなる前の百日間の闘病生活に付き添っていた間につきつめたもの、と本人はパンフで語っている。

   小泉首相と二人のブレーンの没論理

 “先進”欧米諸国をめざすべき文明−に対するアジア、第三世界は野蛮−ととらえ、その政治経済文化に追いつき追いこせ!、というのが明治維新いらい日本の大目標であった。戦前は欧州、戦後はとくに小泉内閣になって極限化したのが米国モデルへの追ずいであった。
 小泉首相は他の誰の意見もきかず、内政は竹中久蔵の経済金融政策、外交は岡崎久彦(タイ大使など)の二人の理論と政策をのみとりいれている、とかつての盟友加藤紘一はなげいた。二人とも超米国一辺倒主義者である。
 前野は指摘していう。その「竹中の経済政策も倫理という問題が一つも出てこない。倫理観という問題。新しい経済は新しい倫理観を持たなければならない時代になったと一言もないわけです」。
 岡崎は米国のイラク侵略戦争を百%支持し(CIA情報をもとに二週間で圧勝といいきったが大はずれした、日本型ネオコン安倍前首相の指南役として、集団安保懇12人の筆頭)など、日本民衆や市民社会なきアングロサクソン一体派である。
.. 2007年12月11日 07:11   No.115001

++ 樋口篤三 (幼稚園生)…4回       
   たて割り構造と全体性

 欧米諸国も日本国家も中央集権国家であり、中曽根内閣頃からは超中央集権国家といわれてきた。官僚世界も政治社会も縦割り構造化してきた。
 東京集中はその帰結で1990年頃に一、二、四、六、八という数字があったが、一は、人口の一割、二はGNPの二割、四は卸売、六は大企業の本店所在地、八は文化の東京集中が−文化・情報のほとんどが東京発なのである。今もさらに
つよまっている。
 「反核運動については全体性が欠けています。つまり、原発は原発、核兵器は核兵器、プルサーマルはプルサーマルというふうに、分業的な運動形態になっている。一番欠けているのが国家論です…」
 この縦割り構造を大改革するに当たって、全体性の回復という思考力と運動実践を前野は強調する。

   倫理的知的ヘゲモニー

 そして同時に、「ものが変わるときには、グラムシが言った知的道徳的指導性が必要です。近代から現代にいたる大量生産・消費のフォード・システムといわれたものが、人間社会と環境に対してどのような否定的な作用を支えているか、それから脱出するためにはどうしたら良いかということについては、個別的な運動形態が追求しています。しかし、これらが接合しない。女性、環境、民族、人権などの問題を接合することが大衆運動の中で出来ない。これらは接合して初めてひとつの時代の新たな価値観として確立するわけで、それが欠落しているということです」。
 前野は「自らの解放なくして社会解放はできない、という古典的な命題を非常に大事にしております」という。彼は知的道徳的改革を倫理的知的改革といいかえて、とくに倫理道徳を強調しているが、これと接合していない政治改革は、体制変革はできないというのがグラムシ理論の「一番大事な所」ととらえ、日本ではどうするかと設問し、問題提起している。
 私もまた60年の実践的致達点として道徳的ヘゲモニーの大事さをとらえ、「社会運動と道徳」を東アジア儒教・漢字文化圏の共通性として 今夏に一文を起草した。
 前野良は、終生改革し創造をつづけた社会主義者としての政治学、それと結合した反戦反核平和運動と接合した諸運動の実践−労働組合や生活クラブ生協、市民運動など多様な−を一貫して追求−時代の先端をきり拓いた。
 グラムシ、ポーランド連帯の西欧世界(フランスの自主管理的社会主義、イギリスの批判的科学運動等も)から、晩年の韓国朝鮮連帯運動等、東西の結合をめざしてきた。
 そして当今流行的なレーニン否定とグラムシ肯定論をとらず、グラムシを日本に創造的に適用しつつも「グラムシ主義者ではない」とみずからいう。
 その思想と生涯は、大知識人というにふさわしい。
 変革の志ある人々の必読をすすめたい。尊敬さるべき人であった。

.. 2007年12月11日 07:24   No.115002

■--武田邦太郎先生のご連絡先について
++ 友行 信 (幼稚園生)…1回          

お世話になります。
私は日本新党時代に、党職員として武田邦太郎先生に
大変お世話になりました友行信と申します。
主に農業政策で先生に色々とご教授頂きました。
長い間ご無沙汰いたしておりました武田先生に
ご連絡を取らせて頂きたいと思い、いろいろと
探しましたが連絡先がどうしても分かりません。
もしご存知でしたらお教え頂ければ大変有難く存じます。
何卒宜しくお願いいたします。
.. 2007年02月27日 08:19   No.53001

++ タク (高校生)…68回       
武田邦太郎先生に確認をとっていますので暫くお待ちくださいませ。
.. 2007年02月27日 18:54   No.53002
++ 友行 信 (幼稚園生)…2回       
お忙しいところ大変有難うございます。
何卒宜しくお願いいたします。

.. 2007年02月28日 09:09   No.53003
++ タク (大学生)…70回       
昨日、武田邦太郎先生宛てにお手紙をお送りしました。
依頼されている案件もありましたもので・・・直ぐに返事が来ると思いますのでよろしくお願い致します。

話は変りますが、3日前の日曜日に民主党憲法調査会長の枝野幸男氏や長浜氏・松崎氏などとお会いしました。このメンバーも元は日本新党だったですよね。
3月4日は同志である。高瀬真木が流山市から市議会議員に立候補するので事務所開きです。長浜氏も来る予定です。私が司会します。

.. 2007年02月28日 09:52   No.53004
++ 友行 信 (幼稚園生)…3回       
枝野さんも長浜さんも松崎さんも皆同じ
日本新党でした。途中から色々とありましたが・・・

武田先生にお手紙をお出し頂いたとの事、
お忙しいところ本当に恐縮です。

また先生からご返事がありましたらどうぞご連絡下さい。
何卒宜しくお願いいたします。

.. 2007年03月01日 13:40   No.53005
++ タク (大学生)…72回       
昨日は、民主党の太田和美先生と高瀬真木と一緒に呑んでいました。
もちろん、事務所開きの打ち合わせを兼ねてですが(笑)

武田邦太郎先生にお手紙を出す前に電話をしてみたのですが、お留守なのか出ません。耳も遠くなっているのでお手紙にしました。
返事がありましたらご連絡致します。
少しの間、名古屋へ出張するので留守にします。

.. 2007年03月01日 16:46   No.53006
++ タク (大学生)…74回       
先程、高瀬真木の出陣の事務所開きの司会をしてきました(笑)
来賓の挨拶に長浜ひろゆき代議士が来ていたので友行信様のことをお聞きしたらよく知っていました。お待たせいたしました。
早速、武田邦太郎先生のご住所と電話番号をお送りいたします。

.. 2007年03月04日 18:14   No.53007
++ 友行 信 (幼稚園生)…4回       
この度はお忙しいところ武田邦太郎先生の連絡先を
お調べいただき大変有難うございました。
面識が無いにも拘らず、親切にお調べいただき
大変恐縮致しております。
武田先生には、本日早速お電話させて頂きたいと思います。

私は10年近く前、政治を職業とすることを諦め、
今では東京・千駄木でITネットワークやセキュリティに関する運用・保守を行う会社を営んでおります。
近くにお越しの際は是非お立ち寄り下さい。

どうぞ今後とも宜しくお願いいたします。

.. 2007年03月06日 08:10   No.53008
++ 友行 信 (小学校低学年)…5回       
度々申し訳ございません。友行です。
お教えいただきました下記電話番号
にお電話させて頂いたところ、「菅野小学校」
と言うところにかかり、
「武田と言う者はこちらにはおりませんが・・・」
とのことでした。
電話番号に、タイピングの間違い等は
ございませんでしょうか?
大変恐縮ですが、もし間違い等ありましたら
折り返しご連絡頂ければ幸いです。
何卒宜しくお願いいたします。

.. 2007年03月06日 08:46   No.53009
++ タク (大学生)…75回       
大変申し訳ございませんでした。
確認したところ、間違っていました。

もう一度お送りしました。
何卒、よろしくお願い致します。

私も父と一緒に日本新党立ち上げ当時は随分とご一緒に夢を見させて頂きました。
千駄木ですか、とても懐かしい。日本医科大学では民主党の小沢一郎代表と主治医が同じでよく一緒になりました。昔、鈴木都知事の本に小沢一郎代表にサインしてもらった事がありました(笑)
小沢一郎代表も「歌手じゃないのだから嫌だよ」と言っていたのですが、奥さんが「サインぐらいしてあげなさい」と言われてしてもらいました。
これからの季節、根津神社はつつじが綺麗に咲く時期になりますね。

武田邦太郎先生が石原莞爾平和思想研究会の会合へ出席される時はご連絡いたします。これからもよろしくお願い致します。

.. 2007年03月06日 09:11   No.53010
++ 友行 信 (小学校低学年)…6回       
大変有難うございます。
早速お電話させて頂きましたが、どなたもお出にならない様ですので、お教えいただきましたご住所にお手紙を書く事に致しました。
武田先生が石原莞爾平和思想研究会の会合へ出席される時は是非ともご連絡頂きたく存じます。
何卒宜しくお願いいたします。

.. 2007年03月06日 14:59   No.53011
++ 友行 信 (小学校低学年)…7回       
大変お世話になります。友行 信です。
昨日武田先生より丁寧なお手紙を頂戴いたしまして、今月の26日から4,5日間上京の予定があるので、
その時にでも会いませんかとのご連絡を頂きました。
石原莞爾平和思想研究会の山崎事務局長に連絡を取って日程を調整する様にとのご指示でしたので、早速お電話させて頂き、先ほど山崎事務局長とお話させて頂き、3月26日−30日の間に、武田先生と石原莞爾平和思想研究会の皆様が会合を持たれる場合は、その日時と会場を予め山崎事務局長より私にご連絡しておいて頂き、私も参加させて頂くと言うことになりました。
お手紙には仲條様のお父上は、もう亡くなられましたが、親友中の親友であった・・・と
書かれてありました。もし宜しければ今月の武田先生と石原莞爾平和思想研究会の皆様との会合に参加させて頂いた際に、仲條様ともお会いさせて頂ければ幸いです。
何卒宜しくお願いいたします。


.. 2007年03月14日 08:07   No.53012
++ タク (大学生)…78回       
武田先生よりお手紙が届きましたか、それはよかったです。
今月の26日から30日の間ですね。
大阪から石原莞爾平和思想研究会の会員が上京する頃と重なるかな。
決算時期でもありますが何とか予定を調整してお会いしたいと考えております。
父の葬儀は家族だけで行ってくれと言うことでしたのでほんの一部の方にしか知らせませんでした。申し訳ございませんでした。
その後、毎日のように来客が尽きることなく大変な思いをしてしまいましたが・・・
お会いできる日を楽しみにしております。

.. 2007年03月14日 10:40   No.53013
++ 友行 信 (小学校低学年)…8回       
ご連絡有難うございます。
先日石原莞爾平和思想研究会の会合に参加させて頂きましたが、仲條様がいらっしゃいませんでしたので、参加されなかったものと理解しておりました。折角の機会にお会いさせて頂くことが出来ず大変残念です。
是非又機会がありましたらお会いさせて頂きたく存じます。

ps
明日3月25日(日)午後2時に、西武線池袋駅地下出口改札にて、武田先生と待ち合わせをしております。
その後近くにある私の会社に移動して、再度いろいろとお話をさせて頂くことになっております。

.. 2007年03月25日 07:33   No.53014
++ タク (大学生)…85回       
私の予定など確認せずに会合の予定が決まってしまうのです。私がいろいろ意見を言うのでうるさいのでしょう(笑)

本日、武田邦太郎先生とお会いするのですか。
私は石原莞爾平和思想研究会の高瀬真木が出馬したので本日の懇親会で宣伝する予定です。
高瀬真木は幼馴染なのです。重なっているので残念です。
武田邦太郎先生にお会いしたら、先生から依頼されていた本が手に入ったことと、ビオトープ水田の本年も頑張っていることをお知らせくだされば幸いです。

.. 2007年03月25日 07:53   No.53015
++ 友行 信 (小学校低学年)…9回       
お世話になります。友行です。
さて、下記ご依頼の事項につきまして、大変申し訳ございませんが、今週の日曜日(3/25)に武田先生にお会いさせて頂いた際にお知らせさせて頂くことが出来ませんでした。
5月19日(土)20日(日)の両日に、山形の
ご自宅にお伺いさせて頂くことになっておりますが、
まだ先の話ですので、恐縮ですが仲條様から武田先生に直接お知らせ頂ければ幸いです。
この度はお役に立てず申し訳ございませんでした。

.. 2007年03月28日 15:21   No.53016
++ タク (大学生)…87回       
了解しました。
近くなったら武田先生へ伝えておきます。
近くまで行けばご自宅は直ぐにわかると思います。
そこから、石原莞爾将軍のお墓も直ぐです。
父も将軍と一緒に眠っております。

.. 2007年03月29日 06:14   No.53017
++ 秘書 (幼稚園生)…1回       
12月16日、民主党小沢党首が参加される忘年会へ出席させていただきます。
昔の仲間が皆出席ということで楽しみにしています。

.. 2007年12月08日 07:56   No.53018

■--ビオトープについて
++ 大ちゃん (幼稚園生)…1回          

私は29年4ヶ月公務員として働いてどうしても我慢できず脱藩した浪士だが、誇りは捨てていないつもりです。
ビオトープは実は農学部出身の私にとって馴染み深いもので小規模のものは自ら設計したこともあります。
今までの色々な記述を読んで私なりに理解した所では、それなりの活動を伴うものと見ました。
ついては一度お会いいたしたく面会を望むものです。
12月9日午前新宿に着きます。
恐らく11日までの滞在となり直ぐ帰省しますが、その後また直ぐ東京に舞い戻ります。
20日まで東京に滞在予定です。
もしよろしければ、ご一報ください。
携帯電話の番号をメッセにてご連絡します。
ご返答お待ちしております。
.. 2007年12月07日 04:08   No.114001

++ タク (部長)…189回       
大ちゃん、こんにちは(〃⌒ー⌒〃)ノ
石原莞爾平和思想研究会の会長も最高顧問も農業のプロです。
会のメンバーはどれだけ出席するかわかりませんが、小沢一郎を囲んだ忘年会は地元のものです。
集まる場所と待ち合わせ場所の地図とか入っているので、封書でお送りしているのですが、9日に新宿では郵送は間に合わないかな?
当日、我孫子についた時に電話ください。
時間に遅れるとバスは出発してしまいますのでご注意を・・・・
場所はクリアビューホテルです。


.. 2007年12月07日 07:37   No.114002

■--忘年会
++ タク (部長)…187回          

★忘年会のお知らせ★

12月16日 日曜日 18時30分〜20時30分まで
場所 野田市のホテル
会費 3500円
主な出席者 民主党小沢一郎党首 太田和美衆議院議員

参加されたい方は詳細をお知らせしますので一報ください。(〃⌒ー⌒〃)ノ
.. 2007年12月04日 06:14   No.113001


■--(無題)
++ 森生文乃 (幼稚園生)…4回          

ご無沙汰しております
お元気ですか
ウィルスが流行っているそうなのでお互い気をつけましょうね。
(岡田晴恵さんの一連の本を読んでびっくりでした
もう読まれました?)

ところで友人が青森でイベントやるべく単身宣伝活動に行くのですが手弁当のボランティアで頑張るので応援したいと思うのです。
どなたか青森に知り合いがいらしたらご紹介いただけないでしょうか?
エチオピアの野生の森で収穫された最高のコーヒーをエチオピア支援の形でNPOが最高の技術で開発したコーヒーがあるのですがそれを試飲していただく機会を作りにいくのです。
で、出来るだけ多くの方にその機会をご案内させていただきたいと思っています。

どなたかいらしたらぜひよろしくお願い致します

ではまた


p。s。
うがいなどでウィルス対策をして,この冬乗り切りましょうね
温かくしてお体を大切に
.. 2007年11月23日 07:12   No.111001


■--お久し振りです
++ 渡辺望 (幼稚園生)…4回          

ご無沙汰しております。お元気でしょうか。
「人形町サロン」というネット言論雑誌に私の原稿が今日からこちらに掲載されています。
よかったらご一読くだされば幸いに思います(^^ゞ
「倶楽部ジパング」「うさねこ研究室」

管理人 渡辺望 拝

.. 2007年11月08日 18:37   No.109001

++ 伝六 (大学生)…70回       
「こちら」の文章、拝見しました。長文ですね。というか、ネット上では比較的短文ばかり読んでいるものですから。時流の思想に対するすぐれた批評が含まれているように思いました。
.. 2007年11月10日 11:36   No.109002
++ タク (部長)…186回       
確かに長文を読むのには大変なところがあるし、コメントは絞り込めないので難しい(笑)
.. 2007年11月16日 06:28   No.109003

■--日本の核武装
++ たんぽぽ舎 (小学校中学年)…11回          

中川一郎自民党総務会長、麻生太郎外相、中曽根康弘元首相などの「日本核武装を論議しよう=日本も核兵器を持ちたい」発言以降、この問題が憲法改正(9条改悪)と並ぶ保守勢力の2大目標(本音)ゆえ、本屋さんの店頭には右派系の「日本核武装すべし」の本がいくつもならんでいます。
 極右政治家=安倍首相の登場以来、教育の憲法といわれた教育基本法の改悪、憲法改悪への大きな一歩(改憲手続きの国民投票法案)…など、まさに悪法のラッシュです。
.. 2007年06月03日 07:01   No.83001

++ タク (平社員)…131回       
日本の政治家の中には「暫くすると米国が衰退する」と思っている方がいます。だがこの発言は、自国を危機にさらすことなので、はっきり言いません。核武装議論に象徴される、日本独自の防衛力の保持についての議論を始めた方がよい、というのが中曽根・麻生・中川の発言の真意だと思えるのです。

中川昭一氏の演説で「米国が日本に原爆を落としたのは犯罪だ」と述べました。日米同盟があるというのに、中川氏が何故、米国が怒り出しそうな発言をしたのかと言えば、米国が衰退して日本が核の傘の中にいられなくなる状況下で、核武装を頭に描いていたのかも知れません。その発言には、日本人の心の根底にある反米感情を揺り動かし、米国従属の呪縛を取り去ろうとしていたのではないでしょうか。

.. 2007年06月03日 07:52   No.83002
++ 鎌仲 ひとみ (幼稚園生)…1回       
六ヶ所村再処理工場が今年本格稼動すれば毎年8トン近くのプルトニウムを生産し、使い道がない。100年後に高速増殖炉の燃料にするという。
 今からプルトニウムを大量生産してどうしようというのだろう?
 核武装、などと言われても言い訳ができないだろうに。加えて原子力産業から出る廃棄物である劣化ウランが兵器になっている事も、無視できない。平和利用は足元から崩れている。
 平和利用を主張したいなら劣化ウラン弾の禁止を自ら提唱し、潔白を証明してほしい。で、なければプルトニウムの大量生産が疑われてもしょうがない。
 自衛隊を軍隊にしようとすることも疑惑を増加させている一因だ。
 核武装する気がないなら行動で示さねばだめだろう。
 しかし、その姿勢は一切ない、そこが問題なのだ。

.. 2007年06月19日 05:57   No.83003
++ 横原 由紀夫 (幼稚園生)…1回       
87年9月にNYで第1回核被害者世界大会が開催された際、私は実行委員会事務局の構成員として参加しました。その際、分散会の中で仏の運動家から"日本は被害しか発言しないが、日本は今や「準核兵器保有国」ではないか"と、日本の核政策を批判されました。海外の運動家からすれば、日本の採っている核政策(原子力利用政策)は核兵器保有政策と映るのは当然なのです。
 昨今、マスコミを通して過剰に煽り立てられる朝鮮民主主義人民共和国や中国に対する脅威論の中で、被爆二世からも(未だ少数ではあるが)核武装容認論すら出ているのが実情です。原子力利用政策は、常に、核兵器製造と表裏一体をなしているとの認識を市民が持たねばならないと考えます。
 「核開発に反対する会」結成は、まさに時宜を得ている運動です。多くの市民が抱いているエネルギー政策に対する幻想を現実に引き戻すためにも、重要かつ緊急な活動だと確信しています。
 「会」の活動が、核開発に反対する大きなそして強い流れを作り出すことに期待し、私もその流れを作り出すことに加担することを喜びとします。
(広島県原水禁元事務局長)

.. 2007年06月19日 09:55   No.83004
++ マサ (小学校低学年)…7回       
東西冷戦の最中、超軍事大国同士の戦争の抑止となったのは何でしょう?それは核兵器そのものだった訳ですよね。では、安保条約が無くなり、中国、北朝鮮が核ミサイルの照準を日本に向け(現に今でも向けてますが)いつでも核攻撃が出来る状況となった場合、どう対処します?安全保障面からの代案を聞かせてください。国際世論が許さないというかも知れませんが、いっくら国連で制裁決議をした所でそれは事後の話ですから、その時にはもう日本は焦土になってますよ。
将来石油燃料が無くなった場合、或は、非常時において制海権を奪われ石油の安定供給が難しくなった場合、同等の電力を石油無しでも数十年保てる、原子力に代わる電力供給源は何でしょうか?対策をお聞かせ下さい。今現在の発電の生産比率を見ると、水力や風力ではとてもカバーしきれないと思いますが。
そもそも、何故、日本が核兵器を所有すると、即戦争を起こすように考えているかが解らない。日本は資源が乏しく交易によって収入の大半を得ている国です。即ち、平和、安定こそが日本のある意味での財源となっている訳で、わざわざ何で戦争起こさなきゃならないのですか?核兵器でどこかの国を攻撃でもしようとしているのですか?その確実な情報を基にしているのならば教えて下さい。
先の大戦で日本は戦争の悲惨さを嫌という程味わいました。今の日本国民が政府が戦争を起こそうとする時、諸手を上げて賛成し、一挙に軍事国家の道を歩むと考えているのですかね?だとすれば国民に対する侮辱以外何者でもありません。「朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)が仮に原爆を保有しているとしても、せいぜい長崎原爆数発でしかないことを思えば、核開発に関する限り日本の方が遥かに悪い。」などどよほど北朝鮮が好きなんでしょうが、実際核兵器を持って、外交の脅しに使い、日本国民を拉致している国と、核開発をしているだけの国のどちらが悪いかいろんな人に聞いたらどう答えるでしょうか?長崎原爆数個分なら持っても良い訳ですか、五十歩百歩という孟子の話を知っていますか?あんまり馬鹿馬鹿しい事言うと笑われますよ。長崎の人に失礼です。そのせいぜい長崎原爆一発で、どれほどの人達が命を失い、今も苦しんでいると思ってんですか。無神経な物言いは謹んでもらいたいですね。
どこぞの時代遅れの共産党員の決まり文句みたいな主張ですが、反対するのはかまわない、現に、原発の不祥事が多発した事から、見直さなければならない点がいくつもある。
では、原子力発電を停止した場合の安全保障、経済、国民生活、将来のエネルギー政策、それらを包括的に考えた代案を示さなければ、子供の戯言と一緒です。代案のない意見は意見じゃないですよ。
「包丁は人を殺せる武器に転用できるから、料理に使うとしてもけしからん、一切使用禁止だ。」と言ってる様なもんです。
政治も外交も経済も、理想だけじゃ動きません。現実との擦り合わせが必要なんですよ。

.. 2007年06月22日 10:51   No.83006
++ 福井・若狭・明通寺(住職)中嶌哲演 (幼稚園生)…1回       
「もんじゅ」建設は核武装への道

1982年7月2日の「もんじゅ」阻止敦賀一万人行動へ向けて、若狭の私たち市民グループは、以下のように訴えました。

    ●「もんじゅ」建設は核武装への道!
    ●原発拒否こそ"もんじゅの知恵"
    ●青い海のこして若狭も都会も共存共栄

 戦後50年目の1995年12月8日、「もんじゅ」はナトリウム噴出火災大事故を起こしました。
 奇しくも12月8日とは、ヒロシマ・ナガサキ・敗戦へと日本を大破局へ引導した真珠湾攻撃の日であるとともに、生きとし生けるものの平和と共生への道を釈迦が開悟された記念日でもある−−ということを私は幾度も言及して参りました。

2007年6月24日の、「核開発に反対する会」の結成が、願わくはブッダの悲願にかない、平和憲法の具現化にもつながらんことを、至心に祈念し期待してやみません。
                    合掌

.. 2007年06月23日 06:59   No.83007
++ タク (平社員)…142回       
中川氏は、経産大臣だったときに、東シナ海油田の開発を強く進めている、中国共産党を仮想敵国にして日米同盟を強化する戦略でした。しかし、現在の中川氏は米国に頼らない日本が核兵器を所持するかどうか議論して、米国を非難する発言をしています。そこには米国は安倍首相に「靖国神社を参拝するな」と圧力をかけて中国に近づこうとしている背景があるのです。

日本は核武装するべきだと話では核を数発撃ち込まれても戦争を続けられるのは国土の広い国だと思います。それは米国や中国・ロシアのような国です。国土が狭くて人口が密集している日本は、核を打ち込まれたらひとたまりもありません。だが米国が衰退して日本から米軍が撤退した後の世界の状況を予測すれば、今後は、北朝鮮・中国・ロシアなどの国が、日本の領空海に入り込んでくる事でしょう。その状況を打破する為には核武装するかどうかは、考えていく必要があるのだと思います。

昨今、中国海軍の原子力潜水艦による領海侵入により日本領海が脅かされています。我が国の軍事力と日本政府の弱腰を見切り、バカにしているように思えます。毅然とした態度で謝罪要求しなければ沖縄上陸の危険性を意味するのです。沖縄に駐留する米軍がいなければ、中国共産党は、もっと過激な軍事行動を、行っていたに違いありませんが、だからといって、米軍基地を沖縄県民に押し付け続けて日本政府が沖縄を防衛しないのかと思うのです。

さらに北朝鮮は、日本全土を射程に収めるノドンミサイル約200発を日本に向けて配備しています。アメリカが軍事行動にとれば、米軍基地を抱える日本が北朝鮮の直接の攻撃対象になることは間違えないでしょう。そうなれば、原子力発電所や重要施設を狙ったテロリストの攻撃もありえます。逆に、ネオコンのアメリカが、北朝鮮を攻撃してしまえば、いずれの場合も日本にとっては最悪のシナリオなのです。こうした事態を避け、北朝鮮問題を平和的に解決するためには、日米同盟関係を強化しておかねばならないと考えたのは外務省です。外務省にとって、イラク戦争も支持する以外の選択肢はなかったのですね。現在の日米同盟と言うのは日本国民を守るために各国の無辜の民を犠牲にするほど不安定ということなのです。

.. 2007年07月01日 17:32   No.83008
++ 鎌仲ひとみ (幼稚園生)…1回       
 イラクで起きている事、劣化ウラン弾による被曝、医療不足、混迷を深める国内の状況、これらすべてになんらかの責任が私たち日本人にもあると思います。そこでは命が無駄に、無慈悲に、不条理に奪われているのです。そこにこそ、私たちの責任があるのです。
劣化ウラン弾の使用禁止、医療支援、開かれたメディアを実現する努力を私たちがしていかなければ何も変える事ができないのではないでしょうか? 

.. 2007年11月02日 06:03   No.83009
++ タク (部長)…184回       
劣化ウラン弾は、分類上、核兵器とは呼ばれていないそうです。米国はこの事を悪用し、放射能による身体、環境への毒性を隠しています。放出される放射能量が 半分になるまでの時間は、地球という星の一生の時間に匹敵するという。悪影響があるにもかかわらず、非核兵器という名目で、廃物の再利用だとし、これを大量に製造、湾岸地域で大量に乱用したため、湾岸地域の子供には、白血病や小児癌の発症率とても高く、満足に治療も受けていないのです。米当局は未だに全く持って安全だと主張しているのです。

結局、大量破壊兵器に大量殺人化学兵器は、何も見つからなかった。アメリカの情報網は素晴らしく、日本もその恩恵を授かっています。イラクが大量破壊兵器を持っているという確固たる証拠というのは世界最高の情報機関の間違いというのは考えにくいことで、嘘をついて戦争を仕掛けたのでしょう。追随した日本は最初からわかっていたのでしょうか。謎です。アメリカの戦争理由は、戦争が進むに連れ、どんどん変わって行きました。

いつの間にか大量破壊兵器の阻止ではなく独裁者の排除となり、結果的にアメリカの目的は達成されたが、被害者は、無辜のイラク国民である。独裁者は排除されたが、それに至るまでに多くの人民が犠牲になったわけです。アメリカは第二次世界大戦後初めて公にして先制攻撃という手段をイラクに行った。イラクがアメリカに何かいけないことでもしたのかな?ブッシュ大統領は、イラクに大量破壊兵器があるかもしれない、その兵器がテロリストに渡り、アメリカを攻撃するかもしれないとイラクに先制攻撃を行った。こんな形で、先制攻撃をしていいのであれば、どこの国に対してだって気に入らない指導者に武力行使が可能になるわけです。ブッシュ大統領は、大量破壊兵器の解除ではなく、フセイン政権の転覆を狙っていたのです。そして日本も米国に追随してアジアでの信頼もなくしてしまったのです。

.. 2007年11月03日 08:32   No.83010

■--終戦
++ ACT (幼稚園生)…1回          

終戦の年の2月、私の父は軍に徴兵されました。

そして翌月、旧満州(中国東北部)の虎林(こりん)市の虎頭鎮に築かれていた虎頭(ことう)要塞というところに赴任しました。

虎頭要塞は、対ソ戦略のためにシベリア鉄道が見渡せる高地に築かれていました。

私の父が配属された部隊の任務は、その要塞にあった軍馬や弾薬そして分解した大砲などを、本土決戦のため内地(日本国内)に移動させることでした。

(同じ部隊の歩兵の戦友で、満州に残る事になり、後にシベリアに抑留され命を落とされた方もおられたようです・・・。)

部隊は、列車で満州、朝鮮を南下し、釜山(ぷさん)から船で京都の舞鶴に着きました。

(父の乗った船は幸い無事でしたが、先に出た船は敵の潜水艦の魚雷にやられたそうです・・・。)

そして、高知の海岸付近に塹壕(ざんごう)を掘って、敵の上陸を待ち構えているうちに8月15日の終戦となりました。

(敵の爆撃機は、父たちなど無視するかのように頭上を通り過ぎ、しばらくするとラジオから空襲警報が放送され、遠くの町に炎が上がっていたそうです・・・。))

父は、乾パン、米一升(1.4kg)、金20円をもらって除隊し、8月22日に実家に無事帰還しました。

(徒歩で実家に帰る人の中には、軍馬をもらって、実家の農耕に使った人もいたようです・・・。)

*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:

しかし、実家に帰った父は、満州の虎頭(ことう)要塞の守備隊が、その10倍以上のソ連軍を相手に、第二次大戦最後の激戦を続けていたことなどその時は知る由もありませんでした。

終戦の3月、虎頭要塞の守備隊は解散になり、保守管理のための小人数を残すのみでした。

ところが、7月に約1400名の守備隊が再配置されました。

その理由は、要塞の秘密兵器ともいうべき41cm榴弾砲が、あまりの巨砲のため分解して移動できず、要塞に残っていたからです。

この巨砲は、アムール川の支流ウスリー江に合流するイマン川に架かる鉄橋を射程圏内に収め、シベリア鉄道=スターリン街道遮断を目的に極秘に設置されていました。

父も一般の兵隊も、そのような秘密兵器がこの要塞にあることなど当時誰も知りませんでした。

―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*―*

『しかもそれは、大量の異民族の血のいけにえのもとに建設されたのであった。
ソ連の参戦によってそこには凄絶な死闘がくりひろげられたが、十倍以上の大兵力をもつソ連軍の猛攻の前に
さしも要害を誇った大要塞も抹殺され、守備隊は全滅した。
驚くべきことに、その全滅は、「終戦」後の8月26日であった。
太平洋戦争は真珠湾に幕をあけたが、その最後の幕が降ろされたのは、実に、知られざるこの虎頭要塞だったのである。』
岡崎哲夫著 「秘録 北満永久要塞―関東軍の最後―」より
.. 2007年08月17日 21:13   No.101001

++ タク (課長)…161回       
石原莞爾は満州国を守るべくソ連の国力を調べるため、ウラジオストックからモスクワ入りしました。途中、シベリアを注意深く観察しながらモスクワ入りしました。モスクワでは、エゴロフ参謀総長が、一介の大佐にすぎない石原莞爾を招待しました。石原莞爾としては、敵の事情を探る意味から、この招待に応じ国賓なみの待遇を受けていました。エゴロフは当時の外務大臣は松岡洋右で石原莞爾は外務省事務官の肩書きにすぎないのにソ連の参謀総長が「日ソ不可侵条約」を申し出たのです。

石原莞爾は「私個人としては、日本とソ連とは争うべきものでないから大賛成である。しかし私には文句がある。君らは日本に対して共産主義の宣伝をするが、日本の国体を理解しているのか。宣伝をはじめる前に相手のことを十分に研究せねばならない。日本国体は世界に類のないもので、日本国民は天皇を戴くことに無上の喜びを感じ、日本国民の幸福は凡てここに立脚しているし、将来は世界の人々にもこの幸福をわかつべきものと信じている。この日本の国体を理解しないで、他国に対すると同じように軽々しく宣伝することは罪悪である。日本に共産主義の宣伝をする前に、まず日本を徹底的に勉強する義務がある。ソ連の優秀な青年をなるべく日本に送れ。私は微力ながら日本的に訓練して十分に日本を理解させてあげよう」

結局、日ソ不可侵条約締結されましたが、ソ連がドイツに攻められているとき日本は背後をつかずに条約を守った。このときドイツと日本がソ連を挟み撃ちにしていればソ連は崩壊していたでしょう。だが、その恩も忘れソ連は条約を破り虫の息の日本に襲い掛かり満州国は崩壊してしまい日本国の領土も占領してシベリア抑留で大勢の日本人が死にました。歴史的に見ても、日本固有の領土として、北方領土は、樺太千島交換条約により、樺太全島における日本の権利と引き替えに、ウルップ島からシュムシュ島までの諸島が、ロシアから日本に譲与されたのに、この状態なのですね。

.. 2007年08月18日 07:23   No.101002
++ 伝 (高校生)…59回       
終戦の時、樺太の真岡では、二十日朝ソ連軍が艦砲射撃をくりかえした後、上陸を開始。第一大隊は早速軍使13名を派遣して停戦交渉にのぞむが、ソ連軍は将校以下十名の軍使を射殺し、避難する住民に対しても攻撃を加え、戦闘が開始されたという記録があります。札幌の第五方面軍参謀長は、二十三日電報を河辺参謀次長あてに打っています。「北部樺太方面の防衛平静なるも真岡方面の敵は頗る惨虐にして、住民を惨殺し避難民を機関短銃を以て猛射し、・・・同方面第一線部隊は若干の対抗手段を執りたるが如きを以て当方に於いては現地部隊に対し国家保全の大局に立ち万事を諦め完全なる無抵抗主義に徹すべき旨指導したり」。
南樺太全部隊の武装解除が終了したのは8月28日であり、日ソ戦闘開始から日本軍の死亡者は千島を含み約ニ千五百名、在住邦人の犠牲者は、真岡約一千名、恵須取約百九十名、豊原約百名、塔路約百七十名といわれます。
虎頭要塞のことは、はじめて知りました。岡崎哲夫の本は絶版のようなので、ネットで「虎頭要塞」という本が出ているのを知り、そのような本の出版は有意義なことだと思い、積ん読でいいと思って、注文しました。今日届きましたが、少し見てたいへん真面目な本であるのをうれしく思いました。

.. 2007年08月22日 22:05   No.101003
++ タク (課長)…163回       
新京にもソ連軍が雪崩れ込んで来ました。満州国政府のなくなった、その間をうめるべき暫定的な行政機関として、東北暫時治安維持会が結成されました。会長は満州国総理だった張景恵です。ところが、治安維持会の委員は全員、ソ連軍司令部によばれ、その解散を命ぜられてしまったのです。ソ連軍は中央政府をつくらず、その権限はソ連軍自信で握ってしまい、新京など地方機関は、ソ連軍が任命してやらせたのです。

終戦とともに自殺するものが、多数あり、大杉栄のところで有名な甘粕正彦大尉(当時・満映社長)も自殺してしまいました。徹底抗戦をとなえていた人たちは、日が経つに連れ、みな落ちついてしまい、通化で事件を起こした程度でした。ソ連軍が侵攻してくると同時に、一般市民は引き揚げろといってもなかなか組織的にいかないが、関東軍の家族は命令ひとつで動くからといって、一番先に引き揚げてしまいました。その次に満鉄の家族が、汽車を自由にできる利点を使い、一、二等寝台を連ねて、サッと引き揚げていきました。一般の慰留民はほっておいて、軍官の家族だけが引き揚げるとは何事であろうか。

なかでも開拓団の人々は悲惨でした。開拓団は、ソ連との国境近くに入植させられていたのに、見殺しにされてしまったのです。満州では、男は全部、軍隊にとられてしまっていたので、あとには年寄りと女子供だけです。それを引き揚げさせるならともかく、黙って知らん顔をしていたのです。関東軍は前線から引いてしまう、ソ連軍は攻めてくる、その間に入って、ソ連軍の追撃、現住民の迫害、動揺と不安の中を開拓団の苦労はいかばかりであったろうか。「華麗なる家族」を書いた山崎豊子さんの「大地の子」という作品を読んでいただければ、この悲惨の状態がどんなものなの少しはわかることでしょう。

.. 2007年08月24日 08:12   No.101004
++ 伝 (高校生)…62回       
「大量の異民族の血のいけにえのもとに建設された」という言葉では、どういうことかわからないが、その事実は中国人等の捕虜を建設の作業員として使ったことらしい。ソ連が日本人をつかまえて、過酷な労働をさせたようなことを、この要塞では小規模でやったのであろうと思われる。そこで、虎頭要塞が、悲劇的運命をたどったのも、それらの人々ののろいがかかっていなかったといえようかというような感想を虎頭要塞の生き残りの著者が書いているのである。
.. 2007年09月22日 12:24   No.101005
++ タク (課長)…170回       
侵攻してきたソ連兵の掠奪は酷かったと言います。鉄砲を持っては家に入ってきて、みな奪っていく。道を歩いていても、時計が欲しくてしようがないらしく、かたっぱしから盗んでいく。戦争中というせいもあってか、ソ連兵の生活程度は、ずいぶん低い。そして、日本はブルジョア国家である、資本主義国家である、と宣伝教育されているので、やって来たソ連兵は、ブルジョアのものをとりあげるのは、当然の事だと考えていた。ブルジョアからプロレタリアートがものをとるのは、かえって良いことくらいに思っていたのです。家へ逮捕に来た時は、家宅捜索を徹底的にやり、物盗り的捜索です。写真機、ミシン、電気蓄音機という種類のものは、全部、逮捕にきた奴が持っていってしまう。さらに強姦なども多かったので、娘は頭を剃って坊主になり、地下室へ隠れて、気の毒だったと言います。


.. 2007年09月23日 11:07   No.101006
++ 六 (中学生)…36回       
日本人が中国人を殺したなどというと、すぐ政治的に利用される。事実虎頭要塞のあとには、どれくらい政治的かわからないが、日本人の残虐を示す展示場ができているらしい。
しかし、事実(もはや断片的事実であろうが)は認識しておいたほうがいいから、岡崎哲夫の著書から引用する。
「虎頭の地下要塞は、その規模において、世界的な未曾有のもので、戦争の必要と近代技術とが結合してつくりあげた巨大な逸品であり、当時の金で数億と、また労力十数万とを投入して構築された秘密施設」であって、「労力は主として中国軍の捕虜を使役し、日本人技術者がこれを監督したが、この死の労働ののろいが要塞にまつわっていなかったとは断言できないであろう。彼らはいつも目かくしされて地下に入り、受持ちの一廊下、一室の工事に従った。」という。工事のあと、口封じのために、殺されたことが、伝聞か、事実か一部か全部か、しれないような書き方をしてある。あるいは私の読み方が悪いのかもしれない。戦争というものが、すでに残虐なものだから、人間がどういう心理になるかは、想像がつかない。あんまり一般的な話題にしないほうがいいかもしれないが、書いてみた。

.. 2007年09月25日 19:54   No.101007
++ タク (課長)…171回       
「中国青年報」では、中国人の日本のイメージを調査した結果を「日本」と聞いて連想されるものは「南京大虐殺」が83.9%、「日本人は残虐」が56.1%だった。
中国の一般の青少年は、もともと日本人について知る機会は非常に少ない。
一種の白紙状態のところに徹底したマインド・コントロールをほどこしているというのが、現代の反日教育の実態なのです。
この調査からプロパガンダの素晴らしい成果がわかったことでしょう。
これでは、中国人と日本人が仲良くできるわけがないのです。

「虐殺」は中国人にとって、事実であり、絶対に否定してはいけないもので、殺害された人数についてはさまざまに言われています。
過去、「百万人以上」とされていたが、これでは、揚げ足を取られかねないので、その後、中国共産党の党史部と文宣部は「30万人以上」であることを「決定」し、今日ではそれに対する異説は許されなくなっているのです。
数字が確定したので、あとは「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」など、歴史博物館の展示内容と宣伝技術をいかに強化するのが、残された課題なのです。

.. 2007年09月27日 06:20   No.101008
++ 伝 (高校生)…65回       
樺太では、白旗をかかげる日本の軍使をソ連軍は撃ち殺した。虎頭要塞では、降伏をすすめにきたソ連軍使?を日本軍は斬り殺した。ソ連軍使?としたのは、正式な軍使ではなく、日本人と朝鮮人で、日本人は開拓村の村長だったかなんだったか、そういう人だった。説得しているうちに感情を害したかどうかしらないが、斬り殺してしまった。使者を殺すなどというのは、まったく野蛮なことである。昔、北条時宗は蒙古の使者の首をはねたが、これについてはほめる人が多くて、本居宣長の歌をもじって「しきしまの大和心を人とはば蒙古の使い斬りし時宗」というような歌さえあるときく。使者の首をきったからといって相手を怒らせるだけで、何にもならない。こんなことはほめないようにしないと、虎頭の司令官のような者をうみだしてしまうのでないかと思う。詳細はわからないが、司令官が降伏をうけいれていれば、部下は悲惨な死をまぬがれたのである。自分は己の美学から死をえらぶのもよろしかろうが、人の命をあづかっている者が、考えが足りないのは困る。
.. 2007年09月29日 20:27   No.101009
++ タク (課長)…174回       
ソ連の降伏勧告のとき、満州ではこのようなことがありました。「日本は戦争に負けて、降伏することになっても、私の部下将兵は健在である。私の命令のない限り、勝手に武器を捨てたり、任務を放棄するような者は一人もいないから、満州の民および在留邦人は、決して騒ぐ必要はない。私は上司の命令と、国際法規に従って行動するが、わが部下および満州民と邦人の生命は、私の生命を賭けても保護する覚悟であるから、駐蒙軍の指導を信頼し、その指示に従って行動されるよう切望する」と放送し、直ちに司令部に帰ると、隷下部隊に対して、「別命のあるまで、以前従来の任務を続行すべきこと。もし命令によらず勝手にその任務を放棄したり、その守備陣地を離れたり、または武装解除の要求を受諾した者は、軍律に従って厳重に処断する」ことを伝え、とくに丸一陣地守備隊に対しては、「その理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎これを撃退せよ。それによって起こる責任は、一切挙げて司令官が負う」と重ねて命令した。この事がありシベリアに連行された方はここでは皆無でした。

.. 2007年09月30日 09:02   No.101010
++ 六 (中学生)…37回       
そういう素晴らしい人がいたのですか。調べてみると、8月16日の停戦の大命は「停戦交渉成立に至る間敵の来攻にあたりては止むを得ざる自衛の為の戦闘行動は之を妨げず。」とあったのですね。関東軍司令官はソ連軍の極東軍司令官に即日戦闘停止の申し入れをしたようです。それで各地でまだ戦っているのに、関東軍司令官はさっさと降伏してしまうという形になったのだと推測します。これは自分の身が心配だったのだと批判されてもしかたがないでしょう。敗戦というような時に高い地位にあるのは、その人にとっては災難でしょうが、運命とあきらめて最善をつくすようにしなければならない。りっぱにふるまえば歴史に名がのこる。もっとも名をのこすほどの行動をするには日頃から準備していなければできるものではない。
.. 2007年09月30日 18:23   No.101011
++ タク (課長)…175回       
昭和20年8月15日正午以後、大命を承っては謹んでこれに従うという行動の結果が、自らはシベリアに抑留され、残された140万の慰留民は、血の涙を流す歴史にない惨劇を作り出したことはまぎれもない厳粛な事実です。だが、その時以後、ソ連軍に対し師団以上の規模で勝つことのない限定された本格的戦闘に応じた例が3つあり、その決定をした指揮官とその「大義なき戦い」の戦闘に一命を捧げた同胞将兵に対し、当時の在外居留民がいまだに深い敬意を表しています。

その3つの「大儀なき戦い」とは、1.北千島占守島、幌筵島守備 第91師団(堤不夾貴中将)2.樺太駐屯 第88師団(峯木十一郎中将)3.内蒙古張家口の駐蒙軍(根本 博中将)・・・実兵力独立混成第二旅団だけ。占守島は、日魯漁業の関係者を、全員北海道に引き上げさせた上、満州から移駐した戦車1ヶ連隊(85両)も参加した上での、対等の戦いだったといいます。これに引き替え、樺太では30数万、張家口では4万人の一般同胞を抱え、樺太では戦闘の間に約10万人、張家口ではその全員が退避引揚げることができました。

その大儀なき戦いの犠牲者は、占守島で700名、樺太全土でほぼそれと同数、張家口で70名、そして駐蒙軍は、大阪出身の召集兵を主とした混成部隊で、装備も悪く張口家周辺の鉄道と鉱山の警備が主任務で、到底精鋭などと云える内容ではなかったそうです。その上、多少とも軍隊らしい師団は、上海付近の応援に赴いており、僅か2500名位の治安維持のための混成旅団が、南進して来たソ連外蒙軍と白兵戦を行っています。「自分たちの背後にいる同胞を守らなくてはならぬ」という使命感が、圧倒的優勢なソ蒙軍に対する弱兵の抵抗となったので、樺太と張家口における8月15日以後の戦闘こそは、「大義なき正義」専守防衛の戦いでした。

.. 2007年10月01日 06:25   No.101012
++ 六 (中学生)…38回       
「戦争終結につき陸海軍人に賜はりたる勅語」の日付は8月17日になっていて、「・・・・・汝等軍人、克(よ)く朕が意を体し、強固なる団結を堅持し、出処進退を厳明にし、千辛万苦に克ち、忍び難きを忍びて、国家永年の礎を遺さむことを期せよ」とあります。軍が一切の武力行使の停止を命じた期限は8月25日でした。その数日前には関東軍司令官も参謀長も軟禁状態ですから、あとから見れば、あまり感心しない。その場にいれば、なかなかそんなにうまくはいかないのはわかっていても、どちらかといえば反面教師でないかと思っています。こういう時は直観がものをいいます。平常の熟慮がなければだめですが。私はいまのところ、口だけですが。
.. 2007年10月01日 21:05   No.101013
++ 六 (中学生)…39回       
出処進退ではなしに、出処進止でした。なお勅語の漢字は原文通りではありません。
.. 2007年10月01日 21:23   No.101014
++ タク (課長)…176回       
勿論、あの広い満州の各地で、終戦後関東軍将兵による抵抗が行われたことは、その他で終戦を迎えた在満同胞はよく知っています。しかし、軍隊という組織は、最高責任者がハッキリとした考えを示し、隷下の部隊がそれに副う行動をしてこそ、その1人1人の行動に意識があります。それが、指揮統制はとれず、情報命令も伝わらないまま、多くの武装集団が、南をさして落ち延びる途中、食糧調達のための部隊を襲い、またその反撃を受けるという行動をくれ返したのでは意味がありません。

だからそこの人たちは、秋風吹きしきる中を、ソ連軍に命ぜられて降伏を勧告する役の、丸腰の日本将校に「戦争は8月15日に終わった」と教えられると、全員が気抜けして、待っていた武器を投げ捨ててアッサリと降伏しました。しかしそういう心境におかれた将兵こそ哀れであり、個人の力で歴史の歯車を回すことはできないけれど、考えれば考える程無念という外はありません。

.. 2007年10月02日 21:23   No.101015
++ 伝 (高校生)…66回       
今の人はほとんど、知らない話だけど、日本がポツダム宣言を受諾して降伏するとき、国体の護持ということが問題になった。阿南陸軍大臣は国体の護持の保証がないかぎり、死中に活を求めて徹底抗戦すべきと主張した。聖断の下ったその夜だったかに阿南大将は切腹して自殺した。「一死大罪を謝したてまつる」という言葉をのこして。まだ、よく調べていないけれど、少し前にポツダム宣言受諾の動向を聞いた将校?たちのクーデター計画があって、どうもかつがれそうだとか言っていたとかいう。そういうことを止めるという関係もあったかもしれない。また無条件降伏などということは陸軍の辞書になかったかもしれない。しかしながら、あとから考えると、腹を切るなら9月2日にしたほうが筋が通る。承詔必謹で整然と降伏したというが、相手が紳士ならそれでよいが、もし無茶をやるなら一泡ふかせるという態度も必要だったのでないか。停戦を控えて陸軍大臣が死んでしまっては困るではないか。関東軍司令官も英気のある人ならよかったが、陸軍大臣はよけい有終の美を考えなくてはいけない立ち場だろう。負けることを考えていなかった軍人だから、要求するのは無理であり、異常事態で超人的ふるまいをするのは、至難であるのはわかるが、8月15日以後には無念なことが多い。
.. 2007年10月10日 21:44   No.101016
++ タク (課長)…177回       
昭和20年8月14日午前10時 海津参謀総長、豊田軍令部長、阿南陸軍大臣が死中活を求める抗戦を主張し、ポツダム宣言受託に反対の意見を言上した後の天皇陛下のご発言である。「自分はどのようになろうとも国民を助けたい。この上戦争を続けては全く焦土となり、万民にこれ以上の苦悩をなめさすことは忍び難い。日本が無くなってしまう結果に比べ、少しでも種子が残りさえすれば、また復興という光明も考えられる。私は明治大帝が涙をのんで思いきられた三国干渉当時のご苦衷を偲び、この際絶えがたきを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち向かいたいと思う。今日まで戦場にあって非命に斃れた者、またその遺族を思うときは、悲嘆に耐えぬ次第である。

また戦傷を負い戦災を蒙り、家業を失いたる者の生活に至りては、私の深く心配するところである。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民によびかけることがよければ私はいつでもマイクの前に立つ。一般国民には、今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合、動揺も甚だしかろう。陸海軍将兵は、さらに動揺も大きいであろう。この気持ちをなだめることは、相当困難なことであろうが、どうか私の気持ちをよく理解して、陸海軍大臣共に努力し、よく治まるようにしてもらいたい。必要あらば、自分が親しく説きさとしても構わない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府は早速起案してもらいたい。以上が私の考えである」と。

また、阿南氏は自殺する直前、「もう一度石原莞爾に会いたいなあ」と夫人が語っています。山形県鶴岡の石原莞爾の家には、阿南氏の死を弔う弔旗が立っていた。彼は軍人の政治干与を禁じ、もう1度、皇軍を粛正にするつもりであったらしいが、あまりにも遅すぎたのです。

.. 2007年10月11日 07:01   No.101017

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