【必読※迷惑書き込みの対処方法をまとめました。】

石原莞爾関係の掲示板

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■--戦争責任
++ 伝六 (小学校低学年)…6回          

天皇の戦争責任ということを言う人がある。ちょっと横道のそれたテーマだが、ついでに言っておこう。この言葉は朦朧とした表現である。天皇が戦争を主導した責任ということを言う人はないだろうから、天皇が開戦をとめなかった責任ということを言いたいのだろうか。これについては、昭和天皇が昭和五十年、ニューズウィーク誌のインタヴューで「・・・開戦のさいは閣議決定があり、私はその決定を覆すことはできなかった。これは日本の憲法に合致していると私は信じます」と言われている。ところが戦前の日本人は、いくら閣議決定があっても天皇が右向けとか左向けとか言えば大臣は聞くものだくらいに思っていたみたいですね。国政が天皇の意思でどうにでもなるということは、皇室のしきたりでなく、また明治憲法もそのようなことはみとめていないのです。しかし、閣議できめたことだから、天皇が何の意思も表明しなかったかというと、そうではないのです。9月6日の御前会議は異常な緊張のもとにおこなわれました。「日米戦争と戦後日本」(五百旗頭真著)によると、「しかし天皇は、木戸内大臣に対して御前会議開催の二十分前に、その日の会議では自ら質問したい、との意向を表明したのである。木戸内大臣は困った。」陛下のおこころは我々にはおよびもつかないが、われわれであれば思いあまって、二十分前になって言ったということかと想像される。同書からの引用をつづける「木戸は、天皇が御前会議でその種の発言をして軍部とやりあったらどうなるか、と心配した。軍部を抑えられるかもしれない、しかしそれは危険である。それは天皇が政治抗争の一方の当事者になることを意味する。神聖不可侵の権威を捨てて、地に降りて軍部ととっくみあいをすることになる。一度や二度は成功するかもしれない。しかしそれを始めれば、人間のやることだから間違うこともでてくる。そうなると、神聖にして不可侵の絶対の権威としてふるまうことはできなくなる。陸軍として許せぬ、耐え難いとなれば、陸軍が天皇から実力で権力を奪うことだってありうるだろう。天皇がそのような生身の当事者として降りてこないことこそが、天皇制の続く所以であると、と彼は考えていた。」木戸の考えについては、一次資料をしらべていないが、とにかく陛下の御意向には反対申し上げたのは事実だろう。そこで陛下は独断をさけて、御自身の質問はなさらなかった。しかし、この御前会議では統帥部を叱咤されることがあったそうである。これについては、よく調べてみたいと思っている。
.. 2006年08月01日 22:14   No.11001


■--歴史認識
++ 六 (小学校低学年)…5回          

中国の古賢孟子は「ことごとく書を信ぜば書なきにしかず」と言った。ことごとく歴史の記録を信じるならば、記録など読まないほうがよいということだ。歴史を見る眼がなければ、頭の中で観念が回転しているだけのことがある。そいうところへもってきて、歴史を捏造して己のためにするという者の歴史など読むと害があるくらいのものだ。ウソも百ぺん言えば真実になると考えたものがあるが、ウソはウソだ。しかし暗闇の中でははウソの正体がわからないこともある。それが困ったことなのだ。
.. 2006年07月31日 22:46   No.10001

++ タク (小学校中学年)…19回       
中国人民が日本人と仲良くできない理由は中国への侵略戦争に対する問題で、正しい歴史認識ができないことにありますね。両国間関係の発展の重要な基盤を築くのには、真実の歴史を知ることだと思います。中国は、日本軍の侵略や靖国神社のA級戦犯を非難しますが、歴史観の対立と言うより、中国共産党の歴史観の押し付けや歴史の捏造ばかりです。日中戦争は、日本の侵略や陰謀ばかりが取り上げられますが、日本側が被害者だというのも事実です。日本は中国の百年内戦という渦に呑み込まれ、反日侮日の挑発に乗せられたのが、戦争の原因だと分析している本も出版されています。当時、中国に住んでいた方は日本が被害者だと考えているようです。日中戦争は英米ソなどの列強が中国の内戦に介入し、最終的に南京、重慶、延安の各政府にそれぞれ荷担したことが原因で、日本は中国に危害を加えたというより、近代的な統一と発展に対し、大きな貢献をしていたのも事実です。インフラ建設をはじめ、財政、金融の安定を図り、医療衛生、文化教育などさまざまな分野でも力を注いでいたのですよね。

.. 2006年08月01日 07:00   No.10002

■--宣伝不戦?
++ 伝六 (小学校低学年)…5回          

石原莞爾はたぶん昭和十六年の講演でこんなことを言っています。「満洲事変以来日本の宣伝戦は完全に失敗している。日本が侵略国であるということは殆ど世界の常識となっている。確かに宣伝下手である。だが宣伝下手は寧ろ私は日本人の名誉と考える。だがこの世界的誤解の根底には、宣伝の上手下手よりも、もっと大事なことがある。それは我々の信念の問題である。満洲事変以来国策に対して国民的の自信なく、自信がないから根が正直な日本人としては、どうしても果敢な宣伝が不可能で、釈明的態度に陥ったことが益々諸外国をして日本の態度を疑はしめた。満洲事変当時、所謂国民使節がアメリカに渡って努力した。然し彼らのしたことをみるに、すべて消極的釈明にすぎない。彼らは心の中では「どうも困ったことをやったな」と思ひながらも、君国のためにそれをアメリカ人に何とか弁解するらしい。弁解すればするほど悪結果を生むことは当然ではないか。」(石原莞爾全集第七巻所収「欧州大戦の進展と支那事変」)日本が侵略国であるということの宣伝は、シナ事変のころは蒋介石政府が中国人民に宣伝し、大東亜戦争のときには連合国が世界に宣伝した。戦後は日本人民に対しても宣伝?して、今では大半?の日本人が日本は侵略国だったと思っているのではないか。戦後は日本政府は日本は侵略国でないと宣伝するどころか、過去の侵略を反省するといっているので、アホかというところだが、正気を失っているので、頭は悪くないはずの政治家がそんな状態だ。反省が不要なのではない。実は反省していないのだ。石原莞爾は王道の宣伝は王道の実行に先だつものであってはならないという意味のことを言っているが、今は王道と言ったら何ソレ?という段階であろう。
.. 2006年07月19日 21:23   No.7001

++ 伝 (幼稚園生)…4回       
一次資料を確認していませんが、石原莞爾は満州事変の作戦計画においても、「この戦争は対支戦争に非ずして対米戦争なり」と性格づけているそうです。後に、おおざっぱに言うと、西洋覇道文明の代表米国と東洋王道文明の代表日本国が決戦戦争を戦うことになる。そしてこれが世界の最終戦争で、人類はこの後恒久平和の時代に入るということを公言しています。単純化して図式的にとらえると、シナ事変までの石原莞爾の行動の方向は、米国との決戦戦争に勝利するための準備で、戦後は、戦争史研究からの最終戦争を確信しつつも、それは日本と米国の戦争という単純?なものではなく、また戦争に勝利する準備よりも戦争がおこらないようにする努力をすべきであるとなったようです。
.. 2006年07月23日 10:52   No.7002
++ 六 (幼稚園生)…4回       
蛇足ですが、蒋介石政府は日本の侵略ということを中国人民にだけ宣伝したのでなく、世界にも宣伝しました。カール・カワカミの「シナ大陸の真相」という本によると、1929年かあるいは、その時分に国民党外務省の宣伝広報局は、世界的規模をもつある報道会社と協定を結びました。それは宣伝広報局が提供するニュースを一日当たりあるいは週あたりの決められた分量だけ流すので、結局南京政府のための宣伝工作活動に等しい仕事をうけおったわけです。南京政府はこの会社にそうとうの金をはらったそうですが、額はわかりません。そして中国ではいつものことですが、政府が支払ったお金の一部を宣伝広報局長官または他の国民政府外務省高官は、この報道会社から払い戻し金ということでうけとることになっていたといいます。リベートという語があるから、程度問題で、どこにもあることかしれません。今も宣伝工作的ニュースが、そうとうにある筈です。「信じた私が馬鹿でした」という歌があったようだけれど、「信じたあなたが馬鹿なのよ」と歌っている人があるかもしれませんね。(笑)
.. 2006年07月26日 22:28   No.7003
++ 伝 (小学校低学年)…5回       
歴史の教科書で読んだおぼえがないので知らない人は知らないだろうから、少し書くと、ソビエトロシアは世界革命省をおいて、世界の平和を攪乱し、秩序を紊乱しようとして大仕掛けな組織機関を設けた。それは東亜のほうに重点をおいた。孫文はソビエト要人と親しく、資金援助もうけている。ソビエトで金を出すのは中国のことを思って出すのではないので、蒋介石は孫文にそのことを言っている。モスクワに「孫文中国労働者大学(中山大学)」と「スターリン東方労働者大学(東方大学、名誉学長スターリン)」という二つの機構があって、多くの中国人がここで学び、祖国にかえって、コミンテルンと現地工作員の指示にしたがって活動した。それは建設活動よりは破壊活動であったと考えられる。
.. 2006年07月27日 22:49   No.7004
++ タク (小学校中学年)…15回       
中国人にとって「南京大虐殺」は、日本批判の象徴的存在だそうです。
なぜ象徴的かというと、それは歴史問題ではなく、政治の問題で、事実がどうだったのかは、議論する事は一切しません。
ただ、子々孫々の代まで教科書で「南京大虐殺」を教え込まなくてはならないと決められているのです。

一例を挙げると、「中国青年報」では、中国人の日本のイメージを調査した結果を「日本」と聞いて連想されるものは「南京大虐殺」が83.9%、「日本人は残虐」が56.1%だった。
中国の一般の青少年は、もともと日本人について知る機会は非常に少ない。
一種の白紙状態のところに徹底したマインド・コントロールをほどこしているというのが、現代の反日教育の実態なのです。
この調査からプロパガンダの素晴らしい成果が現れています。
これでは、中国人と日本人が仲良くできるわけがないのです。

「虐殺」は中国人にとって、事実であり、否定してはいけないもので、殺害された人数についてはさまざまに言われています。
過去、「百万人以上」とされていたが、これでは、揚げ足を取られかねないので、その後、中国共産党の党史部と文宣部は「30万人以上」であることを「決定」し、今日ではそれに対する異説は許されなくなっているのです。
数字が確定したので、あとは「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」など、歴史博物館の展示内容と宣伝技術をいかに強化するのが、残された課題なのですね。

.. 2006年07月30日 15:44   No.7005
++ タク (小学校中学年)…16回       
石原莞爾は戦争史研究と日蓮宗信仰の結合、それが満蒙問題の解決策とも繋がり五族協和から恒久平和へと結び付けられるところが認められるのです。石原莞爾は世界の戦争史を跡付けて持久戦争(消耗戦争)と決戦戦争(殲滅戦争)とが交互に繰り返されてきたとし、持久戦争であった第一次世界大戦以後の将来の戦争は決戦戦争となるとみた。しかも、一都市を一挙に破壊する大量殺戮兵器とそれを運搬する航空機が出現したことにより、次に来たるべき決戦戦争こそ世界最終戦争となるであろう、と考えていたのです。

そして、この最終戦争こそ、日蓮が世界統一実現するためにまず「前代未聞の大闘條諍、一閻浮提(人間界)に起るべし」と喝破したところの未曾有の大戦争をさすはずであり、日米決戦がこれに他ならないと見たのです。これが石原莞爾の世界最終戦争論でした。この世界最終戦を経て世界の文明は統一され、「一天四海皆帰妙法」の境地に到達するはずで、石原莞爾はこの世界最終戦としての日米戦争という着想を信仰上の師、国柱会の田中智学から得ていたのです。

.. 2006年07月30日 17:28   No.7006
++ タク (小学校中学年)…17回       
中国は日中戦争での戦勝国意識が強烈で、二つの恩恵を敗戦国日本に施したと言います。
その一つは、日本から賠償金を取らなかったことで日本に対する優越感を味わっているのです。李鵬元首相の「日本からのODAなど、戦争の賠償に比べれば微々たるもの」といった発言は冗談でなく、中国人がもつ反日優越意識が露骨に表れたにすぎないのです。

もう一つは、終戦後に中国軍が九州を占領しなかったことです。中国人が信じている嘘話は、米国は蒋介石に九州を占領するよう要請したというのです。米国にとって日本列島は多くの犠牲を払ってようやく手に入れたものなのにそんなこと言うわけがありません。実際、北海道を占領したがるソ連の要求を米国はきっぱりと断っているのです。真実はカイロ会談の記録で、蒋介石は九州領有を希望したというのです。だが、ルーズベルトは、「とんでもない男だ」とこれを拒否しています。当時の蒋介石軍は奥地の重慶にまで逃げ込んだ状態で、国共内戦も始まったため、とても九州「進駐」などできなかったのです。

.. 2006年07月30日 17:44   No.7007
++ タク (小学校中学年)…18回       
「反日侮日」に走ってしまう中華民族は、親日¢キ文を「国父」に祭り上げる中国人の矛盾なのです。

中国で「親日派」といえば、民族の裏切りを意味するらしいが、列強諸国でもっとも中国の将来を真剣に心配し、力になろうとしたのは日本人で、その証拠に、孫文時代の国民党指導者といえば親日派で、孫文の後継者・蒋介石も同じなのです。

中国人革命家の多くは日本の明治維新や日露戦争の勝利に触発されて、革命を志したのです。
国民党・孫文の革命同盟会も、日本の玄洋社や国龍会など民族派団体の人的・資金的支援のもと東京で結成され、その後もあらゆる面で日本人志士の世話になり、革命の戦争でも、大勢の日本人有志がバックアップしていたのです。
だから、反日政策に転じた人たちでさえ、革命支援の代表的人物・頭山満(玄洋社創設者)や犬養毅(五・一五事件で暗殺された首相。大アジア主義者)には、のちのちまで尊敬と感謝の念を抱いていたのですね。

.. 2006年07月30日 18:21   No.7008

■--アジアと共に生きる日本の道
++ 樋口篤三 (幼稚園生)…1回          

小泉首相の5連続靖国参拝はこれとは逆コース

(元労働情報編集長、キューバ円卓会議共同代表、日本労働ペンクラブ会員)

 日本は、アジアで全く孤立している。明治維新以来、いや二千年の歴史で小泉政府が代表した日本はもっとも孤立している。
 小泉政権下の日本外交が全力をあげたのは、2005年の国連常任理事国に入ることであった。第三世界=発展途上国へのODA予算累計は戦後世界で一〜二位に達し、その経済力で多くの国々が日本支持にまわるとあてこんだのである。
 だが、アジアで支持した国はわずか三か国−ブータン、アフガニスタン、モルディブだけであった。隣国の韓国や中国の東北アジアも、ODAで最大国のインドネシアなど東南アジア諸国も、ゼロであった。EU(欧州)に続く東アジア共同体形成をめざしているのに、日本の信用はここまで、ない!のである。
 アジア太平洋戦争下の東條内閣がしかけた大東亜会議(1943年=昭和18年)には、ビルマ(現ミャンマー)、×満州、×南京政府、タイ、フィリピン、自由インド仮政府(現インド)が参加した。×印国は日本のかいらい政権で世界史では認められていない。が当時の正規三か国首脳が参加した。小泉内閣は、この東條戦犯内閣より
さらに東アジア諸国から信頼がない。
 その不信感の象徴こそ小泉首相の5連続靖国参拝なのである。A級戦犯を神とする靖国神社のありかたは、彼らの責任によって戦死、餓死、溺死した130万人をこす遺族のかなりの人々も批判と不信感を持っている。沖縄の「平和の礎」の思想、精神、鎮魂で靖国を問い直すチャンスである。
.. 2006年07月23日 07:51   No.8001

++ タク (小学校中学年)…14回       
我が国のエネルギーの輸入依存度は80%以上です。
エネルギーの半分は石油で、その86%は中東に依存し、石油の国家備蓄は85日分しかありません。このようにエネルギーの海外依存度が異例に高いだけでなく、貿易依存・食糧確保・安全保障などすべての面で、我が国は孤立しては生きてゆけないのが現状です。
しかし核冷戦終結で世界は大きく変動しています。
世界人口は1950年に25億だったものが、1990年には50億人、2000年に61億人を超え、毎年1億人以上の爆発的増加を続けており、2050年には100億人になると予想されています。

アジアの急速な経済発展は、今後の世界エネルギー事情に大きな影響を与えるものと予想されています。
世界人口の3分の1を占める中国とインドを中心としたアジア諸国のエネルギー需要は、20年で倍増すると考えられているのです。
しかも中国は、環境保全上から「脱石炭」を進めており、10年後の石油や天然ガスの需要は、日本を超すと言います。
今後は日本も天然ガスへの依存を強めなければならないのですが、その入手対応は先進国の中で大きく遅れをとっています。
こうした状況は、安定したエネルギー源を確保したい日本にとって大変な脅威となりそうです。

.. 2006年07月30日 15:35   No.8002

■--関東軍
++ 伝 (幼稚園生)…3回          

昭和六年には、張政権と日本との全面対決はさけられない状況になっていました。再び保坂富士夫「満洲事変と石原莞爾将軍の信仰」より、引用します。「事ここに至って、関東軍はいかなる行動をとるべきか、来るべき世界の大勢を睨んで満を持していた石原中佐は、どうせ火を噴く戦争であるならば、これを単なる日本の権益擁護、あるいは日本の勢力拡張という、覇道帝国主義的戦争に終わらしめず、この武力衝突を逆手にとって百八十度の展開をなし、内には、これまで英米の尻馬に乗って中国を蔑視して来た日本の帝国主義的対支政策に終止符を打つと同時に、外には、日支両国の提携共同の方向を開く端緒たらしめようとしたのであります。そしてその建設過程を通じて日本国家の覚醒と革新を導き出し、統一国家への途上にある中華民国を誘導して、世界史転換の幕開け足らしめようという雄大な構想を秘めていたのであります。」事変決行にあたって、石原中佐は「皇道これを許すならば、世界を挙げて襲い来るとも恐るるに足らず」と軍に対して言っています。皇道と王道は同じことです。この精神で関東軍は戦ったことと推測します。
.. 2006年07月15日 22:07   No.5001

++ タク (小学校中学年)…10回       
1931年(昭和6年)、汪兆銘らが樹立した広東の国民政府で外交を担当していた陳友仁が来日して、当時、若槻民政党内閣の外相だった幣原喜重郎に密かに会って、満州の日本への譲渡を打診しました。

これに対して幣原はこう答えています。「満州を住民ぐるみ買いとることはご免だ。満州住民をことごとく渤海湾に投入して皆殺しにする権利を承認するという条件のない限り、満州とともにその住民をうのみにすることは爆弾を抱えて眠るようなものであるから、タダでも貰い受けません」(幣原『外交50年』)

幣原は、荒れ狂う馬賊がいて治安が乱れている満州ではいくらタダで満州をあげると言われても割に合わないことを知っていたのです。ここで満州支配の話は立ち消えとなったが、森と満州との繋がりはこの頃から形作られ、やがて満州事変などを経て強固なものとなってゆくのですね。

.. 2006年07月17日 06:59   No.5002
++ 六 (幼稚園生)…2回       
日露戦争の前に、ロシアはたしか大連まで、鉄道をひていたのですね。そして旅順には難攻不落の近代的要塞を構築していた。乃木将軍はこの要塞を攻めたので、理論的頭で考えたらできなかったことかもしれない。それはともかく、日露戦争の結果満洲鉄道ができます。関東軍の固有任務は、満鉄の保護にあったわけで、関東軍司令部条例(大正八年四月十一日制定)第一条に、「関東軍司令官は、・・・・・天皇に直隷し、関東州及南満洲に在る陸軍諸部隊を統率し、且つ関東州の防備及南満洲に在る鉄道線路の保護に任ず」。ところが、昭和六年のころの状況は、条文の文字どおりの解釈では、対応しきれないようなことになっていたと思います。もし満鉄の爆破がなければ、シナ東北軍が日本軍の討滅行動をおこす計画があって、「日支開戦は日本軍の襲撃に基くものなることを中外に宣言し列強にうったえて日本屈服の方途を講ずる」なる一文もあります。(古野直也著「張家三代の興亡」の記載による)
.. 2006年07月17日 22:53   No.5003
++ 六 (幼稚園生)…3回       
訂正します。関東軍の任務は「関東州の防備」と満鉄の保護です。二十倍の兵力をもつ張学良軍が敵対的行動をしているのだから、おそらく満洲を占領してしまうほかに防備をまっとうできる方法はなかったのではないかと素人思考をしています。満洲占領の考えを主張したのは、中国人の政治能力に疑念があったからのようです。孫文が革命をおこしたときには石原莞爾は万歳を叫んでいますが、革命の後は軍閥の割拠となって、民の苦しみはますばかりでしたから、そういう疑念を持ったのでしょう。満洲事変の展開のなかで、中国人の政治能力を知った石原莞爾は満洲建国に考えを転換します。
.. 2006年07月18日 20:44   No.5004
++ タク (小学校中学年)…11回       
対外的な影響を鑑みると、日露戦争は日本人のイメージを決定したところがあります。アメリカ人の従軍記者ウォシュバーンが、「乃木」という乃木希典の本を書いたり、農学者の新渡戸稲造が英文で「武士道」がイギリスでベストセラーになったり、 このとき流布したサムライとしての日本人のイメージはかなり大きいと思います。

日露戦争後の満州史を、日本軍の「侵略、虐殺、略奪、搾取」の歴史と見なし、「反満抗日」のみで語るのは悲しいことだと思います。
そもそも関内、(長城内)の中国人にとって関外、(長城の外)の地は荒れ地であり、風土病の地でもあったと言います。
20世紀に入っても、新たに開拓する土地であり、日本の租借地であった関東州と満鉄所属地以外、近代産業らいしものもなかったのですね。
しかし、満州国建国後13年半にして、そこは北東アジアの重工業の中心地となり、自動車や飛行機まで作られる近代産業国家に成長しました。
日本人の開国維新以来のすべての情熱と技術の枠をそそぎ込んだ結晶です。日本人は誇りに思わなければならないと思うのです。


.. 2006年07月19日 08:07   No.5005
++ タク (小学校中学年)…12回       
未開の地の満州買収計画がどのような経緯でまとめられたのかは解明されていませんが、孫文が来日して、3回にわたって内閣を組織した桂太郎と会っています。その際、桂は孫文に対し、人口増加の勢いからも日本は満州に発展するほかない、と説いていました。孫文はかねがね革命成就のためには満州を日本に譲ってもよいとの考えだったと言います。また、この桂・孫文会議のころ、桂は森恪に会い森に「キミは支那を料理せよ」と言っています。この桂の意向を受けた森が、東京で中国側の情報も集めて、側近の山田に交渉を指示したのです。

.. 2006年07月19日 08:12   No.5006

■--王道と覇道
++ 伝六 (幼稚園生)…4回          

以下、保坂富士夫「満州事変と石原莞爾の信仰」から引用します。
満州の一馬賊の頭領から身を立てた張作霖は、日露戦争以後、日本の支援の下に漸次、勢力を拡張して、遂に全満洲を支配するに至りましたが、更にその勢力を駆って北支に乗り込み、全支那本土の支配者たらんとするまでになり、それのみか、欧米と結んで満洲における日本の権益を圧迫するまでになりました。
.. 2006年07月09日 23:00   No.4001

++ 伝 (幼稚園生)…2回       
当時の満洲は、金融はアメリカが握り、税関は英国、郵便はフランス、鉄道は北がソ連、南は日本の満鉄で、正に東洋のバルカンだと称した人があったくらい、列国の勢力が入り乱れていたのですが、日本の勢力が満洲を足場に中国大陸に拡大するのを喜ばない欧米列強は、第一次世界大戦中に日本が日支二十一ヶ条約を結んで、中国に対して覇道的圧迫を加えて以来、中国人の内に澎湃として湧き起こった排日意識を背後から煽り立てる政策を採るに至りました。九ヶ国条約というのは、その背景をなしたものであります。支那本土における排日もかなり強烈なものでしたが、ことに日本の利害が最も密接な満洲において、張政権が欧米列国の勢力を背景に、満鉄を中心とする日本の権益を圧迫するに至ったのですから、日本としては黙っていられなくなったのは当然です。
.. 2006年07月09日 23:11   No.4002
++ 六 (幼稚園生)…1回       
あの昭和三年に起こりました、張作霖乗車の列車を爆破して彼を謀殺した有名な事件は、このような政治情勢下に起こったものであります。直接には張政権に対する日本の反撃ですが、大局からすれば列国の覇道主義に対する日本の覇道的反撃ということになりましょう。この事件は河本大作という関東軍の参謀によって敢行された謀略事件でありますが、この事件は失敗に帰して、当時の日本政友会内閣(田中義一首相)は総辞職に追い込まれ、河本大作はその責任を問われて予備役にまわされます。
 この後釜に関東軍参謀に赴任したのが石原中佐ということになっておりますので、それから三年後に起きた満洲事変も、結局、この河本大作の謀略事件の延長であり、ただ巧くやっただけだと、俗人たちは考えたがるのですが、それが全く百八十度違ったものであったところに満洲事変の重大意義があり、石原莞爾の思想を改めて問い直す必要が起こってくるのであります。

.. 2006年07月09日 23:24   No.4003
++ タク (小学校低学年)…7回       
満州体験を持つ清岡卓行氏の本を読むと、消費物資もあって、映画も満映があり、遊園地もある。
戦後社会を先取りしたような経験をしているのです。だから内地に帰ると辛くてしようがない。
内地は当然のことながら戦前のままですから、満州というものが、無駄になってしまいましたが、大規模な都市計画や、産業を構築したという満州計画が、岸、椎名といった固有名詞も含めた意味で、戦後日本の繁栄の基礎を構築したのだと思うのです。

.. 2006年07月11日 08:24   No.4004
++ タク (小学校低学年)…8回       
私の同志も大連へよく行きますが、日本人にとってとても美しい豊かな町だといいます。当時の大連の女学校の生徒が内地へ修学旅行に来て、
日本人がみすぼらしく見えたといいます。
日本の汽車は小さいと笑う、満鉄の「特急あじあ号」に比べたら、確かにそう見えたかもしれないと言います。

.. 2006年07月11日 08:48   No.4005
++ タク (小学校低学年)…9回       
新京(現在の長春)が首都と定められた後も、満州に関わりの深い人たちの間では大連が中心だったと言います。
日本の鉄道で列車番号は、東京を中心に下りが奇数、上りが偶数となっています。
「あじあ号」も大連発が11列車なので、大連を起点にして発着しているのですね。
岸信介が満州体験について面白いことを言っています。
彼は満州で自分のやりたいことを色々行って日本に帰ってくる。商工省に戻って会議をやったら、日本の官庁の会議は全然話が進まない。会議のための会議をやっている。日本の官僚機構は腐っているじゃないかと言うのです。満州では、言い出した者が責任を取る、そして必ず実行した、と。

.. 2006年07月11日 09:40   No.4006

■--張作霖の爆殺
++ 伝 (幼稚園生)…1回          

東方会議で関東軍司令官武藤信義は「満州問題は外交で解決しない。残る方策は軍事力のみである」と主張し、政府に容れられて、関東軍に準備の内命がでた。河本大作大佐はこういう状況の中で関東軍の高級参謀になった。教科書か何かで見たときは、ずいぶんひどいことをすると思ったが、このごろのように自爆テロが多いと、そうひどいとも感じなくなった。まあひどいにはちがいないが、ひどいかひどくないかは、周囲の状況による。相手の警戒の中を張作霖の乗っている列車だけ爆破して、被害を本人以外にごくわづかしか及ばないようにしたのは、むしろみごとな手際のように思う。河本大作は終戦後も日本に帰らず、共産軍と戦ったが、敗れても自決せずにとらえられた。五年間拘留されて病没したが、張作霖を殺してくれたことは、中国共産党にとっては恩人であり、あつかいは丁重だったらしい。
.. 2006年07月05日 21:29   No.3001

++ 伝六 (幼稚園生)…3回       
張作霖爆殺事件について、昭和天皇は田中義一首相と話をされ、十分に事実を調査し、悪いことは悪いとし、万一外国に流れているデマが本当であったら、事の真相をきわめ、軍の綱紀を引き締め事実を率直に外国に宣明し、あやまる事はあやまり、気をつける所は気をつける、この方が国家の信を国際間に得る所以である旨をのべられたと伝えられている。田中総理も陛下の思し召しに共鳴し、いやしくもかかる暴挙をあえてした我が陸軍将校には厳格な処置をとり、軍法会議に付さねばなりませんと言上した。ところが事実を調査してみると、事実はすこぶる複雑で、その処分を陛下とお話した方向にもっていくことはむつかしかった。それで、約一年の間、陛下にほんとうのご報告を申し上げなかった。一方議会のほうでは張作霖死亡の真相を話せよとせまる。結局、日本の陸軍がやったのではない、しかし我が駐在軍の権域内におこった事変であるから、駐在武官は行政処分に付するという事で帝国議会に臨む事になり、白川陸相からその旨を上奏した。そこで陛下から田中首相に対し、先の上奏とくいちがいがあり了解に苦しむという意味のお言葉があった。これが事実なら、たしかに白川陸相の上奏の前に、田中首相から事情を陛下にもうしあげるべきなのだが、同首相はそれができなかった。首相ともなれば、こんな小さなことを忠告してくれる人間はいないのかもしれない。凡人の感想である。田中内閣は総辞職し、事件関係者は、行政処分となった。河本大作大佐は昭和五年七月予備役となった。
.. 2006年07月08日 22:28   No.3002
++ タク (小学校低学年)…5回       
日本政府は、武藤信義大将を関東軍司令官兼駐満特命全権大使に任命して、満州国全権・鄭孝胥国務総理との間に日満議定書の署名調印を行ない、実質的に満州国を独立国家として承認したのですよね。

満州国は鄭国務総理の名で帝政実施を声明、満州帝国の成立を日本以外の71カ国政府に通告しました。
日本に続いて最初に満州国を承認したのは、中南米のエルサルバドルで、次にローマ教皇庁が承認して、1937年から1938年にかけて枢軸国のイタリア、スペイン、ドイツが承認し、ポーランドも満州国を承認しました。

以後、ハンガリー、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、クロアチア、デンマークといった北欧・東欧諸国が承認して、ドミニカ、エストニア、リトアニアは正式承認しなかったが、国書を交換しました。
その後、大東亜戦争期にはタイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府も満州国を承認した。
しかし、国際連盟から満州国建国の正当性が否定されたため、承認国は18カ国にとどまったのですね。


.. 2006年07月09日 15:24   No.3003
++ タク (小学校低学年)…6回       
1937年7月7日の盧溝橋事件での軍事的衝突については、史実がはっきりしていません。満州事変が石原莞爾の計画によって引起こされたことは、歴史上の事実となっていて異論はありませんが、しかし盧溝橋の第一発の銃声がどちら側からさきに撃たれたのかについては、真相不明というところです。戦前は勿論中国軍からの不法射撃とされていました。もっとも日本側でも張作霖爆殺事件や満州事変の真相を知っていた一部上層部の間では「どちらが先に手を出したかといえば、どうもこちらの方が怪しいと思う」(近衛文麿『平和への努力』)、「柳条溝の手並みを知っているわれわれには(軍部が)『またやりあがった』」(石射猪太朗『外交官の一生』)などと認識されていたようです。

戦後東京裁判に提出された秦徳純「七・七事変記実」では、第一発の問題にはとくに触れず、事変の責任はもっぱら日本側にあることが強調されています。その判決では柳条湖事件の場合には日本軍により計画され、実行されたものと認定しているのに対し、盧溝橋事件については当夜の事件発生の経過を述べているが、その責任が日本側にあったとの明確な判定を下していないのですね。

.. 2006年07月09日 15:34   No.3004

■--東方会議
++ 伝六 (幼稚園生)…1回          

今、西尾幹二のインターネット日録というサイトで満州事変あたりの歴史がのべられています。歴史事実として正確と思います。事実の解釈については、各人が、自分の経験も総動員して考えなければなりません。ところで東方会議というと、名前からすると、すばらしい会議かと思うのですが、出席者の意見は、結局、現今の満州問題の停滞は政府が満蒙政策を確立し、それに従って不変の行動をしなかったことにある。政党間の利害駆け引きでその場限りの手を打ったり、問題の先送りで解決を見送った結果である。ということで、対支基本方針を決定したが、確固たる方針でなかったことが、その後の田中義一首相の張作霖爆殺事件に対する対応でわかる。現実は一筋縄ではいかないが、あまりに情実の部分が大きすぎた感がある。まあ、あとではどうでも言える面があるけれど、ダラ幹?といった感じがしてしまう。
.. 2006年06月22日 22:29   No.2001

++ タク (幼稚園生)…3回       
東亜連盟は、日中戦争の長期化と日本の国力消耗を石原莞爾先生が、「国防の共同、経済の一本化、政治の独立」を条件に、日本と中国および満州国が手を結ぼうという趣旨のもと日中両民族が提携して戦争を速やかな終結を図ろうという思想です。
近衛文麿の東亜新秩序声明を背景に、昭和14年10月に東方会系の農民運動家や満州国協和会系の人々を集めて設立されたのが東亜連盟で日本国内に支部ができただけでなく、汪兆銘の南京政府も自らの立場の基礎理論として、東亜連盟論を積極的に採用していました。
マッカーサーに危険思想であると圧力をかけられてしまいましたね。

.. 2006年06月26日 22:07   No.2002
++ 伝六 (幼稚園生)…2回       
この掲示板では石原莞爾の平和思想のほうに重点があるけれど、満州事変もあまりに誤解されているから、少し書いてみようという意図です。満州事変はその精神においては石原莞爾が中心人物であったけれども(作戦はいうまでもありません)、行動は関東軍の任務の延長線上にあったのではないかと思うのです。あまり研究していないのに、無謀なこころみのようだけれど、あまりに現実を見ない論が横行しているので、まさに文字通り幼稚園レベルで発言したいと思います。
.. 2006年06月27日 20:43   No.2003
++ タク (幼稚園生)…4回       
満州事変を起こしたのは石原莞爾でした。しかし、全面的に日本人が支配する満州国を成立させることには反対でした。だが、満州国の建国と同時に、日本の官僚たちがどんどん満州に入ってきました。また、南満州鉄道が支配力を強め、膨大な利権をめぐって、日本から経済人や野心家が集まってきたのです。日本で食い詰めた浪人も、あるいは旧共産主義で、日本にいられないような人も満州に入りました。その意味では満州は妙な楽土になるわけです。流れ者、野心家、金もうけ屋など、様々な人たちのたまり場になっていきました。そして日本人はそれを食い散らしていくのです。

その中には、石原莞爾のようなアジア解放の夢を持った大陸浪人と称される人々も多々いました。しかし、それは日本の国家利権の人々に支配されて行きました。現地の民衆からも反感を持たれ、中国の人たちからも反感を持たれ、ソ連もますます警戒をかためるような、国際的孤立と危機を招くような満州国がだんだん出来上がっていくのです。これが石原莞爾の理想からかけ離れて行き、裏目に出て行くという形となるのです。

.. 2006年06月28日 06:43   No.2004

■--はじめに
++ タク (幼稚園生)…1回          

今までの掲示板ですが、突然投稿が出来なくなり申し訳ございませんでした。新規に掲示板を立ち上げましたので、よろしくお願い致します。
.. 2006年06月11日 22:16   No.1001

++ みらこ (幼稚園生)…1回       
先日久しぶりに開けてみたらこのページが真っ白だったので
あー、と思ってましたら、今日は映ってた(笑)。
よかった。復活おめでとうございます。

先日小林英夫という人の本で
戦後の日本のグランドデザインを造ったのは満鉄の宮崎正義という人だと書いてあるのを読みました。
宮崎さんを起用したのは石原さんで、この人がデザインした満州での経済政策が優れていて、戦後日本の経済はこの人のデザインを実行したんだというようなことが書いてありました。
歴史に出てこない人が、実は歴史をデザインしているというのは大変興味深いです。

満州は経済面から見ても大変勉強になりそうなので、もうちょっと勉強してみたいですが、なにかよお薦めの参考図書など御存じでしたらお教え下さい。

.. 2006年06月19日 08:11   No.1002
++ タク (幼稚園生)…2回       
心配して下さっている方がいらしたのですね。
ありがたいことです。ありがとうございます。

石原莞爾の理想通りに、日・満・中・朝・蒙の五民族が五族協和で建国できていればアメリカ合衆国のアジア版のようなものになっていた可能性がある訳ですね。

王道楽土、五族協和といった理念の問題は差し置いても、戦後日本の繁栄の基礎に満州国体験があるというのは否定できない事実です。満州ではみらこさんがおっしゃる宮崎正義や、戦後に新幹線を手がける十河信二、それに岸信介や椎名悦三郎といった官僚たちが、ある種の大規模な計画経済を行って、重工業を中心としたインフラを整備したことは、戦後の日本経済の復興にとって掛け替えのない経験となっているのですよね。

お薦めの参考図書ですか、会報に紹介されていますが、みらこさんは会員の方でしょうか。もちろん会員でなくても構いませんので(笑)
お薦めは「石原莞爾のすべて」ですが、現在、古本屋にしかないでしょう。

.. 2006年06月20日 12:16   No.1003

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