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■--地震発生から5年
++ 島村英紀 (大学生)…99回          

 世界から忘れ去られたハイチの悲劇
 |  2010年1月ハイチを襲ったマグニチュード(M)7.0の直下型地震
 |  犠牲者20万人以上という被害
 |  東日本大震災も復興が遅れている。オリンピックの狂想曲にまぎれて
 |  被災地が忘れられてしまうのを地震学者としては心配
 |  「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」コラムその86
 └──── (地震学者)

○ 日本でも、そして世界からも忘れられてしまった地震がある。5年前に起きたその地震は2010年1月12日、カリブ海の島国ハイチを襲ったマグニチュード(M)7.0の直下型地震。2004年に起きたスマトラ沖地震と肩を並べる犠牲者20万人以上という被害を生んだ。
 地震は首都ポルトープランスの西南西25キロで起きた。ここでは北アメリカプレートとカリブプレートが衝突している。日本で起きるような直下型地震が起きても不思議はないところだ。ハイチが載るイスパニョーラ島の東半分を占める隣国ドミニカでも1946年にM8.1の地震で2000人が死亡したし、西隣の島国ジャマイカでも1907年にM6.5の地震で1000人が犠牲になった。カリブ海諸国は地震国なのである。
○ ハイチの地震では大統領府や国会議事堂も倒壊し、地震直後は大統領や閣僚さえ屋内に寝る場所がなくなった。そのほか国税庁、財務省など中央官庁の建物は軒並み全壊するなど多数の建物が崩壊して150万人以上が住む家を失った。
 ハイチは世界初の黒人国家だが、南北アメリカで最も貧しい国だ。6割もの人々が1日2ドル未満で生活している。政情不安も続いてきた。
 この未曽有の災害は、当時は世界各国で大きく報道された。このため各国から援助の手がさしのべられ、支援金も各国から集まった・・はずだった。
 震災直後に約束された国際支援金は120億ドル(約1兆4000億円)にものぼったが、実際にハイチが受け取ったのはわずか40億ドルだった。米国は予定支援額の5%も拠出していない。つまりハイチは世界から忘れられてしまったのである。
 地震前と同じく、ハイチでは経済の低迷や政治の混乱が絶えない。そのうえ地震の年にはコレラが流行して1万人もの死者を生むなど、踏んだり蹴ったりの状態が続いた。
 いまもテント村など120ヶ所以上で85000人以上が避難生活を続けている。被災者の苦しみはなお続いているのだ。
○ だがハイチのことを他人事だと言ってはいられない。
 日本でも、200人以上の津波犠牲者を生んだ1993年の北海道南西沖地震は、その後1995年に起きた阪神淡路大震災以後ほすっかり忘れ去られてしまった。
 そして2011年の東日本大震災で、阪神淡路大震災のことがまた忘れられかけている。
 阪神淡路大震災の被災地での「借り上げ復興公営住宅」の期限は20年。まもなく退去させられる期限が来てしまう。被災者に国や自治体が貸し付けた「災害援護資金」も兵庫県内だけで1万人以上、計約170億円もが回収できていない。生活の再建が出来ていない人がまだ多く取り残されているのだ。
 東日本大震災も復興が遅れている。オリンピックの狂想曲にまぎれて被災地が忘れられてしまうのを地震学者としては心配しているのである。
 (1月23日『夕刊フジ』より)

.. 2015年01月28日 11:06   No.859001

++ 夕刊フジ (幼稚園生)…3回       
南海トラフ地震の「先駆け」となった西日本の直下型地震
 |  北但馬地震(1925年)と北丹後地震(1927年)のこと
 |  兵庫県北部や東隣の京都府北西部など大きな被害
 |  「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」コラムその87
 └──── 島村英紀(地震学者)

○ 1月3日、日本海岸に近い兵庫県豊岡市・城崎(きのさき)温泉で大規模な火事があった。19棟、延べ約2700平方メートルが焼けた。
 私たち地震学者が城崎温泉の火事と聞いて思い出すものがある。
 それは北但馬地震(1925年)と北丹後地震(1927年)のことだ。この2つはマグニチュード(M)がそれぞれ6.8と7.3。直下型地震としては阪神淡路大震災(M7.3)なみの大きな地震だった。
 これらの地震で城崎温泉をはじめ、兵庫県北部や東隣の京都府北西部など丹後半島の付け根部分では大きな被害が出た。
 北但馬地震での死者は430名、家屋の全半壊は4000棟におよんだ。震源地付近では83戸あった住宅のうち82戸が倒壊したほどの強い揺れだった。
 北但馬地震が起きたのは5月の午前11時すぎ。昼食の準備の時間だった。このため大火が起きて豊岡では焼失家屋は2300棟を超え、町の半分が焼失した。城崎だけで人口の8%、271名という多数の死者を生んでしまった。犠牲者の大半は炊事中に倒壊した家にはさまれたまま火災で焼死した女性だった。
 城崎町では、2年後の北丹後地震でも3月の夕食時だったこともあって火災で2300棟以上が焼失した。この地震での各地での合計は死者2900余、揺れによる全半壊22000棟にものぼった。
 城崎は地震による大火にたびたび痛めつけられたところなのである。
○ じつは北但馬地震と北丹後地震はたんなる直下型地震ではなかった。これらの地震は海溝型地震である南海地震(1946年。M8.0)と東南海地震(1944年。M7.9)の「先駆け」になった地震ではないかと考えられている。
 北但馬地震と北丹後地震だけではない。死者1100名を生んでしまった鳥取地震(1943年。M7.2)もある。この地震で鳥取市の中心部は壊滅。古い町並みはすべて失われた。市内の住宅の全壊率は80%を超えた。
 南海地震と東南海地震は、恐れられている「南海トラフ地震」の先代だ。これらの地震に限らず、いままで起きてきた南海トラフ地震の先祖たちの数十年前から西日本で直下型地震が頻発したことが知られているのだ。
 ところで2013年4月に兵庫県淡路島付近でM6.3の地震が起きた。最大震度は6弱。住家の一部損壊が2000棟以上にのぼったのをはじめ、液状化による施設被害、水道管破損による断水などの被害が出た。
 もし恐れられている南海トラフ地震が起きたら、この淡路島の地震も「先駆け」だったといわれるに違いない。
 それだけではない。もしかしたら阪神淡路大震災(1995年)や鳥取県西部地震(2000年。M7.3)も南海トラフ地震の「先駆け」のひとつかもしれないのである。
○ ところで北丹後地震が起きたとき、大阪梅田の駅前にある阪急百貨店では客の食い逃げが莫大な額に達した。このため地震後に後払いをやめ、日本で初めての前金制の食券を取り入れた。これなら取りっぱぐれはない。さすが大阪である。 (1月30日より)


.. 2015年02月02日 08:08   No.859002
++ 島村英紀 (大学院生)…100回       
.「噴火の前兆」空振りのナゾ
 |  噴火予知は一筋縄ではいかない
 |  「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」コラムその88
 └──── (地震学者)

 ちょうど17年前のいまごろだ。日本中の火山学者や気象庁がピリピリしていた。
 岩手県盛岡市の北西20キロメートルほどにある岩手山が、いまにも噴火しそうだったからだった。
 それは火山性の地震活動から始まった。1997年12月末から岩手山の西側山腹の浅いところで群発地震が始まって増加してきたのだ。
 そして翌1998年2月になると低周波地震も観測されるようになった。低周波地震は火山の地下でマグマや熱水が動くことで発生するものだと考えられている。噴火に近づいたに違いない
 げんに富士山の下で起き続けている低周波地震の増加が次の富士山噴火のカギを握っていると考えられている。
 ついで、東北大学や国土地理院が測っていた地殻変動観測データにも変化が現れた。噴火予知のカギになる山体膨張である。
 そして4月の末になると火山性地震がさらに頻発するようになり、傾斜計にも大きな変化が出た。
 これだけの「噴火の前兆」が揃った。いつ噴火しても不思議ではない状態になっていたのである。
 しかし、固唾を呑んで見守っていた火山学者たちや気象庁を尻目に、岩手山は噴火しなかったのである。
 これらの「前兆」だったはずのいろいろな活動は6〜7月をピークに、8月以降はしだいに下がっていってしまった。
 じつはこの間、9月3日に岩手山の南西約10キロメートルのところでマグニチュード6.2の直下型地震が起きた。この直後には岩手山の地震活動も一時活発化したのだったが、それも10月には元に戻ってしまった。
 翌1999年になると火山の山体の浅いところで起きていた地震活動はもっと低下した。
 一方で火山のやや深部で起きる低周波地震や火山性微動の活動は続いた。つまり、まだ何かが起きる可能性が残っていたので気を緩められなかったのである。
 他方、これも火山活動のバロメータである噴気活動は遅れて1999年6月ごろから活発化していた。噴気とは水蒸気を吹き出す現象で、あちこちの火山で見られる。だがこれも2002年から2003年をピークにして、しだいに少なくなった。
 緊張の数年が過ぎた。結局、岩手山は噴火しないまま静かになってしまったのである。
 2014年9月に戦後最大の火山災害になってしまった御嶽山噴火のときには、火山性地震が「前兆」だったので、来るべき噴火を警告すべきではなかったかという議論がある。
 だがこの御嶽山の「前兆」は小規模な群発地震が約2週間前にあったが、その後おさまってしまっていたものだ。
 それに比べると、はるかに多くのもっともらしい「前兆」があっても、岩手山のように噴火しないことがよくある。噴火予知は一筋縄ではいかないのである。(2月6日『夕刊フジ』より)



.. 2015年02月13日 08:17   No.859003
++ 島村英紀 (大学院生)…101回       
南海トラフの「先祖」 明応地震の破壊力
 |  1498年三重県の港町−安濃津、数千軒の家が波にさらわれた
 |  この明応の大津波から学んでその後500年間もの間被害を
 |  ほとんど出していない町・志摩半島の国崎町(いまの三重県鳥羽市)
 |  「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」コラムその89
 └──── (地震学者)

○ 恐れられている南海トラフ地震。その「先祖」の大津波に襲われて、以後200年間も人が住めなかった港がある。
 南海トラフ地震には13回の分かっている「先祖」がある。その先祖は大きさもいろいろあって、いちばん最近の東南海地震(1944年)と南海地震(1946年)は先祖としては小さめのものだった。
 それに比べて宝永地震(1707年)は東日本大震災なみの巨大地震だった。「先祖」は約200年ごとに大きなものが起きるのではないかという学説もある。
 1498年に起きた先祖である明応(めいおう)地震は、とてつもない津波を生んだ。
 この津波でいまの三重県にあった日本三大港のひとつだった港町では、数千軒の家など町全体が跡形もなくさらわれた。そのうえ地形も変わってしまった。
 この港は安濃津(あんのつ)。この港町の復興は200年後の宝永地震以降にようやく始まったと考えられている。
○ 大津波で壊滅して、歴史からも忘れられてしまったこの安濃津を発掘して調べようという試みが1990年代から始まっている。
 発掘では大量の常滑(とこなめ)焼の陶器が見つかった。ここが愛知県・常滑や知多半島で作られた陶器の積出港だったことが分かったのだ。
 また積み出し先だった北関東の北武蔵や上野(こうずけ)国などで、15-17世紀にかけて遺跡から常滑焼がほとんど出土しないことがナゾだったが、この安濃津の壊滅のせいだったことも分かった。影響は関東など各地にも及んだのである。
 この地震ではそのほか、内陸にあった浜名湖の南岸が切れて、海とつながった今の姿になった。
 ところで明応地震での四国や紀伊半島での津波の高さや被害は知られていない。
 この時期は応仁の乱以来、ずっと戦乱が続いた時代だった。地震についての詳細な記録を残すどころではなかったのだ。このため震源の拡がりは分かっていない。
○ この明応の大津波から学んで、その後500年間もの間、被害をほとんど出していない町がある。
 それは津から60キロメートルほど南東にある志摩半島の国崎町だ。いまの三重県鳥羽市にある。ここでは津波は15メートルもの高さで襲ってきて大被害を生んだ。
 この大津波のあと、国崎の住民は高台に集団で移転した。その後現在に至るまで500年の間、低地には戻っていない。
 もちろん高台から浜に通わけなければならない漁師は大変だ。しかしこのために、その後の宝永地震や安政東海地震(1854年)の津波では溺死者はほとんど出なかった。
○ 安濃津はいまの三重県津市だ。東日本大震災のあと津波の怖さを思い出したのだろう、海際の土地の値段が下がり、高台の価格が上がったという。いまでも市街地を少し掘ると水が出てくるようなところもある。
 かつて地震で壊滅したところにある県庁所在地は、日本でもここだけだろう。
    (2月13日『夕刊フジ』より)


.. 2015年02月23日 09:18   No.859004
++ 島村英紀 (大学院生)…102回       
大分で初「地震の遺跡」発見 地震による液状化でできた噴砂が見つかった
 |  昔の地震を調べる「古地震学」は、こうして少しずつ昔の地震を
 |  解明していって将来への教訓を得ようとしている
| 「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」コラムその90
 └────  (地震学者)

○さる12月、大分県では初めて「地震の遺跡」が発見された。
 大分市長浜町で行われていた遺跡の発掘調査の現場で、地震による液状化でできた噴砂が見つかったのだ。
 中世の大友氏の城下町として栄えた町家の跡。都市計画道路の工事のために昨年5月から遺跡調査を始めていた。
 噴砂は地下にある砂が地震の揺れによって地下水とともに地上に噴き出す現象である。
 噴砂は約1.5メートル下にあった当時の地下水位付近の砂層から噴き出していて、南北方向に数十本見つかった。それぞれ幅数センチ、長さ十数メートルあった。
 発掘現場は戦国時代の町人の住居やごみ穴や井戸の跡が点在しているところだ。噴砂はこの遺跡を分断するように地下から噴き出していた。一方、その後の江戸時代にできた地層では噴砂の影響を受けていないこともわかった。
 つまり地震は戦国時代の16世紀中頃より後で江戸時代の18世紀より前に起きたことになる。
 すると、該当しそうな地震は慶長豊後(ぶんご)地震(1596年)か宝永地震(1707年)だ。
 このうち慶長豊後地震は別府湾の活断層を震源とした地震で、マグニチュード(M)7と推定されている。村が一つ消えたり、別府湾にあった島が沈んでしまったという歴史が残されている。
 この地震は旧暦では文禄5年に起きた。文禄時代には2−3ヶ月の間に慶長豊後地震、慶長伊予地震、慶長伏見地震と被害地震がたて続きに起きたので、年の途中で「文禄」から「慶長」へ改元された。それほど地震が多い年だった。
 宝永地震は、恐れられている南海トラフ地震の「先祖」で東日本大震災(2011年)が起きるまでは日本最大の地震だったと思われていた地震だ。大分県佐伯市で11メートルを超える津波が襲ってきたことが記録されている。
 このどちらの地震による噴砂かは分かっていない。だが今後の発掘でさらに詳しい年代が分かる可能性はある。
 ところで北海道では先住民族は文字を持たず、古い歴史文書がない。19世紀になっても「遺跡」に頼らないと昔の地震が調べられないことがある。
 札幌市が行っていた遺跡調査で札幌市内北部の北海道大学農場で石狩地震(1834年)での液状化の跡が見つかった。解析によればここで震度6だった可能性が強い。
 震源から20キロも離れた札幌市内でこれだけの震度だったことから、M6.4と思われていた地震はもっと大きかったことが分かったのだ。
 ちなみに当時はいま札幌市が拡がっている場所にはまだ人は住んでいなかった。日本海に面した海岸沿いだけにわずかな人が住んでいただけだった。
 地震計のなかった時代の昔の地震を調べる「古地震学」は、こうして少しずつ昔の地震を解明していって将来への教訓を得ようとしているのである。
                (2月20日『夕刊フジ』より)


.. 2015年02月26日 11:40   No.859005
++ 島村英紀 (大学院生)…103回       
都会襲う「火災旋風」の恐怖 超高層ビルが助長も…
 |  1923年に首都圏を襲った関東地震(マグニチュード(M)7.9)
 |  地震後に起きた火災旋風で10万人以上の命を失った
 |  「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」コラムその91
 └──── (地震学者)

○ 3月10日は70年前に東京大空襲があった日だ。この空襲は米軍による市民への無差別爆撃で、一日だけで10万人以上が殺された。被災者は100万人にも達した。
 この爆撃(いまでいう空爆)では焼夷弾(しょういだん)という燃えやすい液体を詰めた爆弾を大量に落とした。このため東京の広い範囲で大火が燃えさかった。
 火事の規模がある程度以上になると「火災旋風」というものが起きる。火で暖められた空気が上空に上昇し、それを埋め合わせるためにまわりから風が吹き込んで火災をさらに大きくする現象だ。
 第二次世界大戦では日本各地だけではなく、ドイツにも米英軍によって大規模な無差別爆撃が行われた。ドイツのハンブルグやドレスデンなどの大都会で火災旋風が起きて、石造りの建物が多いのにそれぞれ何万人もの犠牲者を生んだ。
○ じつはこの火災旋風は1945年の東京大空襲だけではなくて、地震でも起きたことがある。地震後に起きた火災旋風で10万人以上の命を失ったことがあるのだ。
 それは1923年に首都圏を襲った関東地震(マグニチュード(M)7.9)。当時の東京の人口は現在の東京都の6分の1しかなかったが、これだけの被害になってしまったのである。
 関東地震による死者の9割は火災による焼死だった。住宅地をなめつくした火事が日本最大の地震被害を生んだ。
 地震のあと、水道も電気も電話も止まっていた。消防車が走るべき道も崩れた瓦礫がふさいでいた。水道が止まったから、当時かなり普及していた消火栓も使えなかった。このため火は次々に燃え広がった。地震の翌日には、東京の中心部の多くは燃え尽きて、火はさらに周囲に拡がっていったのだった。
 とくに悲惨だったのは、逃げ場になる空き地が少なかった東京の下町の人たちだった。いまの東京都墨田区にあった被服廠(ひふくしょう)の跡地では火に追われて4万人もの人たちが集まってきたが、猛火はここも襲って、このうち33000人もの人たちが焼け死ぬ惨事になってしまった。
 いまここには横網(よこあみ)公園があり、東京都の震災祈念堂(右の写真)が建てられていて、慰霊堂があるほか、構内にある復興記念館には震災の遺品が展示されている。
 このときの火災旋風は自転車をはるか木の上まで巻き上げるほどの強さだったことが展示してある絵に描かれている。火災旋風の風速は秒速100メートルを超えるといわれている。
○ 関東地震は、近代的な都市がいかに地震に弱いかということを露呈してしまった地震であった。地震の揺れによる直接の被害よりも、地震によって起こされた火事などの二次的な災害のほうがずっと大きい被害を生むこともあることが、日本ではじめて分かったのだ。
 近年、また心配が増えた。都会に増えてきた超高層ビルは、ふだんからビル風を起こしたり、夜の海風をさえぎって熱帯夜を増やすなど人々を悩ませているが、火災旋風を助長する恐れもあるからだ。 (2月27日『夕刊フジ』より)


.. 2015年03月09日 09:15   No.859006
++ 夕刊フジ (幼稚園生)…4回       
1700年の日本の津波被害から判明 米巨大地震 50年以内の発生確率75%以上
 |  米国人が知らなかった米国の大地震が日本の古文書から初めて分かった
| 「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」コラムその92
 └──── 島村英紀(地震学者)

○米国人が知らなかった米国の大地震が日本の古文書から初めて分かったことがある。
 日本では江戸時代の1700年1月26日に、地震も感じなかったのにいきなり津波が襲ってきて大きな被害を生んだ。ナゾの津波だった。日本各地に残る古文書にはこの津波が書き残されている。
 21世紀になってからの研究でようやくナゾがとけた。米国西岸で大地震が起きて、その地震からの津波が14時間かかって太平洋を渡って日本にまで達したものだったのである。
 米大陸の西岸で海水につかって枯死した木が多いことも発見された。枯れた時期は幹に刻まれた最後の年輪から分かる。年輪からの推定は1699年8月から1700年1月の間。この地震と一致した。
 アメリカ合衆国が独立宣言を出したのが1776年だったから、まだ米国という国ができる前だ。
 地震は2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)なみの巨大な地震だった。マグニチュード(M)は9くらいと考えられている。
○米国の50ある州のなかで地震が起きる州はカリフォルニア州とアラスカ州だけだと一般には思われている。
 たとえばカリフォルニア州のサンフランシスコでは1906年にサンフランシスコ大地震が起きた。米国の大都市で最大の被害を生んだ自然災害だった。約3000人が死に、火は3日間も燃え続け、多くの建物が崩壊するなど大きな被害を引きおこした。
 サンフランシスコ大地震はM7.8。サンアンドレアス断層という活断層が起こした直下型地震で、大都会サンフランシスコのすぐ下で起きたために甚大な被害を生んでしまった。
○ところが1700年のこの地震は数十倍も大きな地震だった。ファンデフカプレートというプレートが北米大陸の下に潜り込んでいくところで起きた海溝型地震だったのだ。
 震源はカリフォルニア州北部だけではなく、その北にあるオレゴン州もワシントン州も、そしてカナダのブリティッシュコロンビア州南部までの長さ1000キロメートルにも達していた。
 こんな大きな海溝型地震が米国で起きることは21世紀まで知られていなかったのである。
 海溝型の大地震ゆえ、同種の地震がこれからも米国からカナダにかけての西岸を繰り返し襲う可能性がある。
○次にいつこの種の地震が起きるかは分かっていない。だが学説では、この種の大地震は500年ごとに繰り返すとも、今後50年以内に再び襲って来る確率は75%以上ともいわれている。
 もし起きれば、米国のポートランド、シアトル、さらにカナダのバンクーバーといった西海岸の大都会にある建物はこのような大地震を想定しないで作られているだけに、甚大な被害を生じる可能性が強い。
 巨大地震や津波は日本やインドネシアだけのものではないのだ。
           (3月6日より)


.. 2015年03月12日 08:16   No.859007
++ 夕刊フジ (小学校低学年)…5回       
警察署長がウソついた「諏訪大地震」資料も焼却
 |  新聞やラジオでは軍部の意向でほとんど報道されなかった戦争中だった
 |  この「諏訪大地震」がじつは東南海地震だった
 |  「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」コラムその93
 └──── 島村英紀(地震学者)

○ 第二次世界大戦が終わりかけていたころのことだ。1944年12月7日に大地震が長野県諏訪(すわ)地方を襲って大きな被害を生んだ。
 地震後2時間あまりで諏訪警察署長の布告が出た。「本日午後1時40分ごろ、諏訪市を震源とする地震発生。市内に大きな損害が出たが郡民は流言に惑わされず、復旧と生産に励め」とあった。
 諏訪地方では建物の損壊が300棟を超え、多くの死者も出るなど大被害を生んでいた。
 なかでも諏訪湖の南に集中していた多くの軍需工場が大被害をこうむった。学徒動員や工員に多数の死傷者が出た。
 軍需工場が数多く倒壊したのは昔の田圃など地盤が悪いところに建てられていただけではなくて、建物の木材も細く、筋交い(すじかい)のような補強材も不足していたからだ。つまり、戦争末期になってからあわてて作られた工場だった。
 大昔の諏訪湖はいまより倍くらいも大きかった。その南側が川が運んできた堆積物で埋まり、人々は田圃を作った。それゆえ湖の南側は地盤が軟弱で、地震の被害が大きくなりやすい。
○ しかし警察署長の布告はウソだった。震源は諏訪ではなく、200キロメートル以上も南で起きた東南海地震(マグニチュード(M)7.9)だったのだ。この地震は愛知県から三重県の沖にかけての海底で起きた海溝型地震で、いま恐れられている南海トラフ地震の「先祖」のひとつだ。
 愛知県とその周辺では被害は甚大だった。とくに名古屋市を中心とした中京地域は航空機産業の中心だったため、軍用機を生産する工場が壊滅的な被害を受けて「逆神風」と言われたほどだった。
 この東南海地震は新聞やラジオでは軍部の意向で、ほとんど報道されなかった。戦争中だったために厳重な報道管制が敷かれていたからだ。軍需工場の被害を伏せるためと国民の戦意を低下させたくないないという軍部や日本政府の思惑があったのである。
 なお、このころ太平洋やアジア各地で日本軍の敗退や玉砕が続いており、これらの情報も同じ理由から報道されていなかった。
 東南海地震では死者行方不明者数は1200名余、住宅の全半壊は54000軒とされている。だが被害は報道されなかった。
 また、被害を受けた各地の住民も「被害について話さないように、話すことはスパイ行為に等しい」と指示された。
 諏訪警察署長は、東南海地震について知っていたに違いない。戦後調べたところでは、諏訪市役所にあった地震関係の資料も戦時中の資料とともに、軍部の命令ですべて焼かれていた。
○ 長野県民は長らくこの地震の真相を知らないままだった。
 この「諏訪大地震」がじつは東南海地震だったということが地元の研究家によって地震学会で発表されたのは1987年になってからだ。地震後40年も後だった。
 諏訪は長野県内では唯一の被災地だった。地盤のせいで震源に近い飯田市や伊那市よりはずっと大きな被害が出てしまったのだ。
  (3月13日より)


.. 2015年03月19日 12:49   No.859008
++ 島村英紀 (大学院生)…104回       
江戸時代は桶の水で震度を判断 それゆえ悲喜劇も
 |  「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」コラムその94
 └──── (地震学者)

◯ 気象庁が震度計を導入したのは1996年からだ。いまは全国4200地点に震度計がある。このうち気象庁のものは670、あとは地方自治体などで観測して気象庁へデータを送ってくるものだ。
 気象庁が震度を観測して発表するようになったのは1884(明治17)年のことだ。
 地震が起きたときに、それぞれの地域でただちに対応しなければならない自治体関係者や防災担当者にとっては、分かりやすい明解な基準が必要なのである。震度はこれにぴったりのものだった。
◯ じつは震度を知る必要性は明治以前からあった。
 江戸時代には、首都圏の地震は、いまよりずっと多かった。とくに江戸時代の前期、将軍徳川家光から家綱に至る寛永、慶安、正保期は大地震がたびたび江戸を襲った。
 このころ武家では、地震など大きな災害のときには目上への「御機嫌伺い」を迅速、適切に行わなければならなかった。
 御機嫌伺いとは火事羽織を来て、刀を持参、夜は提灯(ちょうちん)を持って幕府の門に馳せ参じることだ。また将軍や若君のほか女中衆にも見舞い状や使者を送ることも含まれる。なかなか気をつかう行事なのである。
 幕藩体制の厳しい身分制度のもとでは、地震などの災害が起きたときの組織や個人の身の処し方は、もし失敗したら身が危うくなるほどの試練であった。
 そのころには老中から申し渡しがあって、非常の際に登城すべき要人や、御門での対応の手順まできちんと決まっていたほどだ。
◯ 地震はほかの災害と違って、いきなり来る。このため気象庁の震度計がなかった当時、いちばんの問題は、どのくらいの震度ならば馳せ参じるか、という基準だった。大きな震度があったときに行かなければ、もちろんとがめられる。しかし小さな地震で馳せ参じれば、それはぞれで滑稽で迷惑なことになるからだ。
 こうした中で「天水桶(おけ)の水こぼるれば御機嫌伺い」とされていた。つまり、桶に水をためておいて、それがこぼれるほどの地震ならば馳せ参じるというわけだ。桶が簡易震度計になっていたのである。
 しかし、これは地震の揺れの周波数や桶の大きさで違ってしまうものだったし、あるいは地盤の善し悪しで違うかもしれないし、桶の水量による違いかもしれない。
◯ つまり所詮、これは簡易震度計。それゆえの悲喜劇もあった。
 たとえば1696(元禄10)年の地震では、下谷(現東京都台東区)の対馬藩邸は天水がこぼれるほどの揺れではなかったので御機嫌伺いしなかった。だが本所(同墨田区)の津軽藩邸や青山(同港区)の肥前鹿島藩邸は天水がこぼれたので使者を派遣した。
 江戸に集められた大名や幕臣たちは幕府の一挙一動にピリピリしていた。地震の揺れの客観的な基準が必要だったという点では現代の防災担当者と変わらなかったのである。 (3月20日『夕刊フジ』より)

.. 2015年03月31日 08:13   No.859009
++ 島村英紀 (大学院生)…105回       
乳頭温泉死亡事故 迫る危険に気づかなかった?
 |  マグマには恩恵(鉱物資源や温泉)とマイナス(有毒ガスや噴火災害)の両方あり
 |  「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」コラムその95
 └──── (地震学者)

◯ 先日、十和田八幡平国立公園内にある乳頭(にゅうとう)温泉で3人がなくなった。これは火山ガスによる事故だ。
 太平洋プレートが東から本州の下に潜り込んでいるために、プレートが深さ90から130キロメートルに達したところでマグマが出来る。
 そのマグマが上がってくるところが「火山前線」で、本州の東部を南北に串刺しにしている。乳頭温泉も、5キロメートルほど南にある活火山、秋田駒ヶ岳も、このマグマが作っているものだ。本州中部ではこの火山前線は那須岳、浅間山、富士山、箱根、伊豆大島といった火山を通っている。
 マグマが地下から運んでくる有毒な火山ガスでいちばん一般的なものは硫化水素だ。今回もこの硫化水素が原因だった。硫化水素は青酸カリと同じように細胞が酸素を取り込めなくしてしまう。
 硫化水素は無色だが卵が腐ったような臭いがある。温泉でよく「硫黄の臭い」がするのは、じつはこの硫化水素の臭いだ。硫黄には臭いはない。
 問題は硫化水素の濃度が高くなると人間の嗅覚をまひさせてしまうことだ。このため危険に気づかない場合も多い。今回もそうだった可能性が高い。
 そのうえ硫化水素は空気よりも1.2倍ほど重いガスだ。このため窪地に溜まる。3人も仕事を終えて帰るときに深い雪を掘った窪地に置いてあった荷物を取ろうとして犠牲になってしまった。
 乳頭温泉は「カラ吹源泉」と言われるもので、硫化水素を含む熱い水蒸気が噴き出し、水蒸気に水を加えて温泉水として供給している。もともと硫化水素が大量に出ているところなのである。
◯ 火山とその周辺で有毒な火山ガスの犠牲になった事故は多い。
 青森県八甲田山では1997年に窪地から噴出して滞留していた火山ガスで訓練中の自衛隊員3名が窒息死した。2004年には長野県安曇(あずみ)村(現松本市)の温泉でマンホールに溜まっていた硫化水素を吸った4人が病院に搬送された。
 2005年にも秋田県湯沢市の泥湯温泉で、雪の窪地に溜まった硫化水素を吸って家族4人が死亡する事故もあった。また2010年には青森県酸ヶ湯(すかゆ)温泉の近くの沢で、山菜採りに訪れていた女子中学生1名が現場に滞留していた火山ガスで中毒死した。
 有毒な火山ガスは硫化水素だけではない。亜硫酸ガス、二酸化炭素、メタン、ヒ素や水銀の蒸気といったものが火山とその近くでは大量に出てきている。
◯ 米国ハワイにある火山観測所に勤務する研究者には厳しい雇用契約が待っている。それは、2年を越えて研究を続けようと思ったら「健康を損ねても雇用者である米国政府は責任を負わない」という契約にサインしなければならないことだ。これは火山から出てきている水銀の蒸気のせいだ。
◯ マグマが地球深くから持ってくる「恩恵」はある。金銀銅などの鉱物資源や地熱や温泉といったものだ。他方、有毒な火山ガスや噴火災害もあることは忘れてはいけない。 (3月27日『夕刊フジ』より)


.. 2015年04月01日 08:02   No.859010


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