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■--満州事変前史
++ 伝六 (高校生)…58回          

資料を紹介します。
昭和三年一月、満鉄社員の大羽時男が、奉天近郊の農村の村長の家に立ち寄った時のこと、
「正面の机の上に祭壇があって、・・・よく見ると、祭壇に貼ってあるのは乃木大将の肖像画である。大羽は不思議に思って、
「御主人、これは乃木大将ではありませんか」
「そうです。乃木大将は、今は神様です。(中略)初めは、村々に軍医を派遣し、病人を救ってくれました。軍医もまた、非常に親切でした。(中略)それから、道路と排水路をつくることを教えてくれました。今、その辺にある水田は、その時に出来ました。それよりも農民が一番喜んだのは、日本軍の軍紀が厳粛であったことです。兵隊は卵一つ鶏一つ、無料で奪る者がありません。元より婦女子に手を出す者なんか、ありません。神兵だと村人は崇めました。日本軍のお蔭で匪賊は寄り付きません。盗人も出ません。官吏も悪いことは出来ません。(中略)全く平和で安全な王道楽土でありました。私は、今でも神様だと信じております。ですから、こうして朝夕拝んでいるのです。」(山口重次「満洲建国と民族協和思想の原点」を勝岡寛次「抹殺された大東亜戦争」より孫引き)
.. 2007年06月10日 11:20   No.85001

++ タク (平社員)…134回       
石原莞爾が若かった頃、日露戦争の話を聞く為に乃木将軍の屋敷を訪ねました。その時、石原莞爾は誰の紹介状も持っていかなかった。時間があれば間違いなく会ってくれるという確信が、あったのです。門をくぐり、玄関で案内を乞うと、乃木大将本人が現れて気軽に屋敷に上げてくれました。その時の石原莞爾のエピソードとして、乃木大将に父親の年齢を尋ねられ思い出せないので咄嗟に「約60歳です」と答えて、叱られたと言います。

日露戦争での補給戦について質問すると、乃木将軍は地図を出して丁寧に教えてくれた。「乃木の戦下手」は、陸軍の内部では有名でした。何しろ西南戦争では軍旗を奪われています。その後の旅順攻略から、失敗ばかり続きましたから。

だが、乃木大将は多くの方から崇拝されていました。前線の砲火をくぐった下士官たちが、口汚く幕僚たちの判断ミスをなじる一方で、乃木大将に対しては、尊敬を向けていたのです。しかもその畏敬の念は、軍事的才能によるものではないのは確かでした。

.. 2007年06月11日 19:20   No.85002
++ 伝六 (高校生)…59回       
石原莞爾は乃木大将に会ったのですか。すると、二十二歳以前ですね。紹介なしで会いにいくのもすごいけど、紹介なしで会う乃木大将もえらいと思いますね。石原莞爾も若い時には親の年齢を答えられなかったのですかね。後年の彼からは想像できないですが、我々?なみですね。引用をつづけます。
「大羽が思索にふけっているのを気にして王老人が、「(中略)私は日本を信じておりますから、日本のために尽くします。ところが、私が親日だ漢奸だと言って、張作リン政府は私を二年間監獄に入れました。(中略)税は五倍に増した上に紙幣を濫発して大豆を農民からとりあげる。ロシア人よりもまだ性質が悪い。日本人がロシア人を追い払ったように、張作リンや胡子(フーズ)どもを追い払って、あの時のような王道楽土にしてくれないかと、乃木の神様にお祈りしています。」」
日露戦争以後は多くの心無い日本人が満洲に行ったようで、それが排日運動の一因となったようですが、日本が再び起って張を追い出し、満洲の地に王道楽土を建設してくれることを待望している人々があった。王道楽土建設の歴史的な流れが満洲の地にもあったのです。そして石原莞爾等は道をつくったけれど、後任は道に迷ってしまった。先人の努力と先人の失敗を鑑みて、王道楽土の建設に着手する時はいつになるか。

.. 2007年06月11日 21:30   No.85003
++ タク (平社員)…135回       
日本の国家が乃木大将を必要としていました。乃木大将の戦のような犠牲ナシに、近代日本が成立し得ないということを、幼年学校時代の石原莞爾は必要である、と理解していました。軍事的才能の欠如によるために、旅順要塞攻略では、無意味に大量の兵士を殺した、と云われているのです。

大事なことは、当時の日本人が乃木大将を許しただけでなく、尊敬して信仰し、このような指揮官が存在してくれたことを慶び、涙を流した、というのです。そして、その涙のために乃木大将は夫婦で殉死せざるをえなかったと思うのです。

乃木希典は、長州藩の革命グループの吉田松陰をめぐるサークルに生まれました。そのために乃木大将が、新政府で重要な役割を果たすことははじめから約束されていたのです。その役割が軍事であったことが必然であったのかも知れません。だが、決して才能に恵まれたとはいえない分野に生涯を捧げる事になった乃木大将は、自らもひたすらに精神的な存在へと育つしかなかったのですね。

対外的な影響を鑑みると、日露戦争は日本人のイメージを決定したところがあります。アメリカ人の従軍記者ウォシュバーンが、「乃木」という乃木希典の本を書いたり、農学者の新渡戸稲造が英文で「武士道」がイギリスでベストセラーになったり、このとき流布したサムライとしての日本人のイメージはかなり大きいと思います。

.. 2007年06月12日 06:19   No.85004


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