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■--歴史認識
++ 伝六 (高校生)…56回          

2002年のブッシュドクトリンの序文は「20世紀の自由(リバティ)と全体主義(トータリタリアニズム)の大きな戦いは自由(フリーダム)の諸勢力にとっての決定的勝利でおわった・・・」という文ではじまっている。これはどちらかというと連合国にとっての美辞麗句である。第一、カイロ宣言では三大同盟国(米英支)は日本の侵略を罰するために戦争をしているのだと言っている。そして太平洋戦争に人種戦争の要素があったことは、なくなったイギリスの歴史家ソーンも言っている。歴史認識は事実をもとにしなければならない。事実を無視したり、捏造したりしてイデオロギー的に歪曲するのは罪悪である。
.. 2007年05月30日 21:30   No.82001

++ タク (大学院生)…128回       
昔は真のエリートと言う人が大勢いたと言います。文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、教養を身につけてその教養を背景として、圧倒的な大局観や、総合判断力を持っていたのです。旧制中学や、志を同じにした思想団体は、こうした意味でのエリート養成機関でした。戦後日本国を統治したGHQの最大の課題は、真っ先に旧制中学や危ない石原莞爾率いる東亜連盟などを潰してしまったのです。

この措置は、ハーグ条約に違反するものです。大がかりな検閲によって言論の自由さえ封殺されました。洗脳のための教育を密かに実施していたアメリカにとって、これくらいは朝飯前だったのです。憲法や教育基本法の洗脳は同様に違反です。現在は旧制中学および思想団体を潰したアメリカの思惑通り、60年後の現在、基本教育では真の歴史認識を禁じられている中では真のエリートが日本からいなくなり、国家は弱体化しています。戦後の萎縮した歩みを打開し未来の子ども達が誇りを持てるような教育基本法改正は民意が反映される事を望みます。

.. 2007年05月31日 06:04   No.82002
++ 伝 (中学生)…47回       
私は教育基本法の改正にはあまり期待していません。高校の教師をやったことがありますが、現場のどこが教育基本法の精神かと思いましたね。あの条文は頭の中で考えた理想としか、その時は、思えなかった。理念としては「個人の価値をたっとび」というところが、戦前あまりに個人的なことが無視されていたらしいので、いいところかなと思うけれど、これが今度はあまりに公的なものを無視することになってきたから、愛郷心をいれようとかで、現場に、たいして影響はないと思われます。国家論が必要ですね。アメリカなどは、普通の国家でないという人があります。アメリカは、どこから、誰が入り込んで、何をしてもいい冒険家の天国という一面があり、一方、ベトナム戦争の時は、外国人の留学生にも突然召集令状がまいこんだそうです。一年アメリカに住めば召集されてしまうのだとか。「何をしてもいい権利を持つかわりに、とんだ義務を不意に背負わされるかもしれない」という感想をいう人がありますが、アメリカのある断面をあらわす言葉でしょう。こういう国家は人間の巣です。巣国です。悪い意味で言っているのでありません。日本のような国が国家であった。国の体(法)があるのです。とくに若いころには人はアメリカ的なものにあこがれる人も多いけれど、そのうち、アメリカ人がさびしくなって、巣国でなく、国家にしようということになるかもしれません。そのときの手本が日本であるようにしたいけれど、さてどうなることか。
.. 2007年06月02日 09:46   No.82003
++ タク (平社員)…130回       
苛めよる自殺や教育現場の混乱に教育実態の荒廃など教育制度の機能不全の多くの問題を抱えて、教育基本法の改正が現実問題の要求である事は国民の一致するところです。教育基本法改正には、苛めによる自殺や必修科目の単位不足と言う事件の連鎖が後押ししている事もあります。

教育基本法は「国家の将来を決する教育の憲法」という概念だという点を認識しておかなければなりません。この権威は主権者である国民の真実の歴史認識により成立させ、政府に権威を、曲げさせない為にも根源的な様々な原因究明を行う事を忘れてはいけません。

「やらせ」などの不正事件の解明と本質的な追求は、再発させないものです。実行犯と影で操っている黒幕の犯人に責任をとらせる事が権威の回復を図る上で大切な事だと思います。少なくとも、「やらせ」の問題は国民が納得する公正な処理を示す事があって始めて、教育基本法改正の権威の回復が図られ、その正当性を付す事が出来るのだと思うのです。

.. 2007年06月02日 19:13   No.82004
++ 伝 (中学生)…48回       
まとまりのないことをかきちらすと誤解されるだけかもしれないし、益がないかもしれないけれど、断片を引用しておきます。内村鑑三の「代表的日本人」に、「しかし、組織は徳の代用を為し得ないものだるといふことを、我々は一人残らず、而も断乎として、信じようではないか。然りそれ許りではない、徳の存在する(著者圏点をするの二字に付す)時には、組織は妨げにこそなれ、助けにはならないのである。「進歩した機構」は、盗人を縛る役にこそ立て、聖人の助けにはならない。」というようなことを書いています。私の言わんとすることと文脈がちがうし、また全部賛成するわけではありませんが、教育は人格的感化なくしてありえない。教育は人類の教師というべき人にまかせることができたら申し分なし。そういう人は常にはいない。話がそれたけれど、憲法というのは政治の話でよくつかわれるから、憲法に従属する教育基本法ならそれは政治教育の面でしょう。わたしのかんがえている教育はそうではありません。「僕が或る種の人間とその能力とを救いたいと思ったら、またその人間を形成する原理を救わなければならない。」(サンテグジュペリ「戦う操縦士」)。私自身にも形がつかめていなものの話をしているのだから、読む人はよけいわかりませんね。
.. 2007年06月02日 21:08   No.82005
++ タク (平社員)…133回       
日本人の道徳の高さについては、戦国の終わりから安土桃山時代にかけて我が国を訪れた宣教師をはじめとする人々が、異口同音に驚きの声を上げていたと言います。これは明治になっても同じで、明治初年に来日し、貝塚を発見したアメリカの生物学者モースは、日本人の優雅と温厚に感銘し、「なぜ日本人が我々を南蛮人と呼んだかが、段々判って来る」と書きました。モースはさらにこう書きます。「日本に数ヶ月も滞在していると、どんな外国人でも、自分の国では道徳的教訓として重荷となっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っているということに気づく。最も貧しい人々でさえ持っている」と。

昭和の初め頃までに日本に長期滞在した外国人の多くは、同様のことを記しています。逆に、日本からアメリカへ行ったキリスト教の内村鑑三や新渡戸稲造は、故国の道徳の高さに打たれました。道徳の高さを測る尺度はありませんが、過去千年間の各国を何らかの方法で比較することができたら、おそらく日本人がダントツで一番だと思われます。この、日本人のDNAに染みついている道徳心が、戦後マインドコントロールされ、最近では市場経済によりはびこった金銭至上主義に、徹底的に痛めつけられています。諸外国に合わせず、高い道徳心という国柄を保つこと、そのために美しい情緒を取り戻し真の独立国になることが大事な事だと思うのです。

.. 2007年06月06日 08:06   No.82006


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