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■--日本の軍閥
++ 伝六 (高校生)…51回          

石原莞爾は、軍人にして政治にかかわるものを軍閥と定義した。薩摩閥とか長州閥とかはいいことではないがありがちなことである。軍人が政治を左右するのは、国に害を及ぼす。昭和期には軍の総意というようなことを言っていたという。漠然とした軍の意思が政治を動かした。武藤軍務局長などは、陸軍大臣にも次官にも無断で「陸軍は安部内閣を支持せず」と新聞記者に発表して阿部内閣を倒したという。こんなことができるのはたしかに軍閥があったのであろう。それは武藤章の意志であったとしてもそれを軍の意志として許容する軍閥があったということである。石原莞爾は何ら具体的なことを言っていないようであるが。石原莞爾は、「敗戦の最大原因は国民道義の驚くべき低下にある。軍閥が悪いの官僚がどうのといってもこれ均しく国民であって、何といっても国民の道義・知性・勇気が足りなかったため、諸々の敗因が戦局の逼迫につれて大きくなったのである」と言ったという。
.. 2007年04月25日 21:48   No.69001

++ タク (大学院生)…104回       
石原莞爾は軍法会議で、「軍閥」の定義をはっきりつけましたね。「石原は軍を常に軍閥とよんで誹謗している」という点に対して、石原莞爾は、「軍閥とは、軍人に賜わりたる勅諭に反し、政治に干与する軍人のことである。」と答えています。

今では、誰もが「軍閥」と言って1つの流行語になっていますが、東條英機の憲兵政治の最中に、公然と「東條軍閥」といっていたのは、石原莞爾ぐらいなものだと言います。東條英機の石原莞爾に対する怨恨は、私情でした。石原莞爾は、個人的に東條英機を何とも思っていなかったのですが、石原莞爾は、この軍法会議に意見書を提出していますが、その中で
「日本は、このままで行けば、太平洋戦争に敗けるだろう。アメリカは、日本に対して苛酷な要求はしないだろう。」という意味のことを述べています。当時は、日本が敗けたら、男はみな殺しになると言われていた時なのです。

.. 2007年04月26日 06:33   No.69002
++ 伝 (中学生)…37回       
昭和十三年「対支政策の転換のため、参謀本部の石原莞爾中将の不拡大方針を実行しうる者を陸相にする必要があった。それゆえとくに余自身陸軍に対し、石原と思想的に連絡ある板垣征四郎大将(当時中将)を陸相として入閣せしむることを強硬に申しいれた。」(近衛手記)梅津中将は近衛総理大臣に注文をつけた。「自分は次官をやめるが、そのかわり次官の更迭には、板垣が陸相就任前に東条英機中将を後任次官として決定するから承知してもらいたい」と言って強引に拡大派の東条を次官につけた。石原莞爾の「なにゆえに君は東条を陸相にしたのか」という問いに対して板垣陸相は「実は私も全然知らないのだ。私が陸軍省に来たときには東条が次官になっていたんだ。陸相が就任前に次官がすでに決定しているなどという馬鹿気たことは今までには全くなかった。その上自分の周囲は副官はじめみな統制派の隠密だよ。陸相が次官を決めることが本当だ。」
.. 2007年04月28日 20:30   No.69003
++ 伝 (中学生)…38回       
訂正します。「東条を陸相に」ではなく、「東条を次官に」のあやまりです。歴史になってみると、そのときの動きがよくわかります。口で国家のためと言ったとしても、軍閥には軍閥あって国家がなかったと言わざるを得ない。自らの行動はよく考えて、汚点をのこさないようにしなければと思います。たとえ誰からも知られなくても、事実は事実として歴史の中に残るのです。
.. 2007年04月28日 20:40   No.69004
++ タク (大学院生)…106回       
石原莞爾らの目論みは、思わぬところから崩れていくのですよね。梅津次官が、石原莞爾の先手を打って、陸相人事を妨害したのです。梅津、武藤らの幕僚派は、宇垣内閣阻止の時点までは石原莞爾らと利害をともにしていました。だが、彼らは同時に、石原莞爾の独走を許さなかったのです。石原莞爾の計画は、日本を国防国家に変身させるだろう。しかしその独特の指導力、構想力は、幕僚派の存在基盤で官僚的な統治システムまでをも、掘り崩してしまう可能性が高かったのです。

軍のエリートと深い交際がなく、位階や立場も考えずに誰とでも付き合う石原莞爾は、彼らの目から見て、到底信用できないように思われたのです。梅津らが満州派への中傷として、「宮崎はアカだ」と言いふらした、と云った話は、その辺をよく伝えているように思われます。梅津は寺内陸相らと語って、石原莞爾の機先を制し、陸軍大臣を中村孝太郎教育総監部本部長とすることに三長官会談で決定し、同時に海軍にも、艦隊派の巨頭末次ではなく、条約派の穏健な人物を推挙することを打診した。海軍は、条約派のホープ米内光政を海軍大臣として推挙したのです。

.. 2007年04月29日 07:23   No.69005
++ タク (大学院生)…107回       
河野先生の様態がかなり悪く、千葉西病院に入院したそうです。

.. 2007年04月29日 14:22   No.69006
++ 六 (小学校高学年)…22回       
石原莞爾が仙台で連隊長の時、真崎甚三郎大将が来た。第二師団の将校団が仙台駅にでむかえにいくと、満座の将校団にむかって、「石原君、今夜は会食をしたいから私(真崎)の宿まで、来てくれたまえ」と言った。石原は「会食は公務ですか」と聞き返した。「イヤ公務ではない」との返事に「公務でなければ、お断りします」ときっぱりとことわったということが伝えられている。石原莞爾は派閥にも属さなかった。派閥は一転すれば、軍閥である。人事面では相性というものがあるだろうが、自分の派閥だから、落ち度は大目にみる、能力はないが、派閥に属するからひきたてるなどということになったら、国家に害になる。出世のことしか考えない連中が派閥をつくったら、やっぱり世の中のためにはならない。
.. 2007年05月07日 21:13   No.69007
++ タク (大学院生)…115回       
石原莞爾は、戦争の嫌いな軍人だという言葉が。「私は、戦争は嫌いだ。頭の禿げた自分が死ぬのは何とも思っていないが、若い人たちを沢山殺し、妻子のある兵士たちを殺すのは忍び難い。」これが石原莞爾の心情でした。この言葉は石原莞爾が連隊長をしていた仙台で言った言葉です。

.. 2007年05月09日 06:02   No.69008


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