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メール年賀状以来の今年初の配信となります。ご無沙汰の原因は「闘病生活」にあるのですが、これについては改めてご報告するとして、今回、都知事選の候補者が出そろったので、このうち、直接お目にかかったことのある人物について、若干コメントしたくなりました。 まず、細川護煕・元首相ですが、20年前の日本新党の大勝利で、側近に石研の武田邦太郎・参議院議員(当時81歳、享年99歳)が居られたこともあり、そのパーティーでお目にかかりました。池袋で開かれた「祝勝会」の席上、細川党首は「誰に頼まれようと首相などなりたくない」と語っていましたが、翌日から4〜5日の雲隠れの後、突如「天命が下った」として首相職を引き受けました。 私はその身代わりの余りの早さに驚いたものですが、政治の世界はそのようなものかと独り合点したものの、その細川政権はわずか8ヵ月余で退陣しました。表向きは佐川急便からの献金問題とされますが、実際は裏で操っていた小沢一郎に対する嫌気が原因でした。 その根気の無さの原因は、すでに石原莞爾将軍が指摘していました。「皇族方を信じ過ぎてはいかん。皇族方は、大事を命がけでやるような教育は受けていない。当てにすると、とんだ思い違いになるぞ。心しておくことだ」と。この言葉は、昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事変時、その停戦協定に蒋介石との直談判の提案をしたにも拘わらず、腰砕けとなった近衛文麿・首相と、昭和20年(1945年)4月6日、小磯国昭内閣の倒壊後の危急存亡時、首相職を引き受けるよう懇請した東久邇宮稔彦王(本土防衛司令官、陸軍大将)が拒絶したことを語っています。 近衛文麿公の孫の細川護煕氏(76歳)が、「優柔不断」「粘りの無さ」のDNAを引き継いでいることは、上記の一件で証明済みで、今回は「祖父の失敗を学んでの一大決心」とのことですが、国政レベルの原発問題を都政に持ち込むとはピント外れも甚だしいものがあります。小泉純一郎・元首相の「一点突破」に担がれ、「野党再編の突破口」との目論みもあるようですが、一時的な浮動票のかき集めで、何ら持続的な力には成り得ないと私は思っています。 静岡県の湯河原に隠棲していた細川氏にある日、私は電話を入れたことがあります。細川氏は首相経験者としては初めて民間会社のコマーシャルに新聞、TVに出たからです。それはファンケルの「発芽玄米」の宣伝で、自分が陶芸をする姿を映し出していました。その直前まで、私は読売・日本テレビ文化センターの特別講師をしており、その講義内容は同じ「発芽玄米」でした。国民体力向上の観点からも、コメ自給率の向上の観点からも共通点が多いと思ってのことで、しかも私は『米は真実という名のシンボルマーク』という本を出したばかりで、それも手渡したく、しかし秘書を通じての返事は「政界から一切身を引いた者として一切の取材を受けるつもりはない」というものでした。
.. 2014年01月16日 11:18 No.679001
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