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■--礼華ニッポン
++ 島田守康 (部長)…185回          

本日、先日11日(水)に取材を受けた内容が、山形新聞の朝刊に出ました。FAXして頂いた紙面を添付します。

今回の寄贈申し出には、新聞社が素早く反応してくれて、すぐに記事にしてくれたことは嬉しい限りです。小関裕之・報道副部長には深く感謝です。

またコメントには、仁科悟朗・元ハンブルク大学客員教授と郷土資料館の板垣 茂館長も迅速に協力してくれました。おふた方にも深謝です。

ところで今回、ハプニングが起きました。相沢三郎・中佐から石原莞爾・大佐に手渡されたのは、和歌2通と漢詩の1通の計3通と思われていたのですが、実は、郷土資料館で確認したところ、和歌がもう一点あったというものです(その和歌と漢詩は資料館所蔵)。

石原将軍から和歌一点を受け取った側近の高木清寿(きよひさ、享年93歳)氏は、著書『東亜の父 石原莞爾』(たまいらぼ、昭和60年刊)で、漢詩を含めて3点と記録しているのですが、資料館の和歌も同じ日付だったことから、新たな謎を呼ぶことになりました。資料館の和歌と漢詩は弟の石原六郎氏が亡くなったのち寄贈されたとのことで、この二点も添付します。

なお、もう一人の和歌(掛け軸)贈呈者の和田獅郎氏(83歳)からお預かりしている参謀本部のマル秘文書ですが、国会図書館と防衛省防衛研究所に有無を同時に確認したところ、国会図書館ではイタリアのファシスト党の二巻目とソビエトの三巻目はあるが、第一巻目のナチスドイツ篇だけが無いとのことで、「第一巻目はぜひ当館に」と乞われましたが、それを実行すると今度は防衛研究所の方が「歯抜け」になるため、私は残りの極秘文書も含め、軍関係資料はすべて防衛研究所に寄贈することを決めました。

防衛研究所への寄贈日はまだ未定ですが、一方、野崎寿子(ひさこ、74歳)さんは、父・高木清寿氏から預っていた愛新覚羅溥傑氏らの書5点も寄贈したいと申し出たので、こちらは父親の蔵書約450点が国会図書館に収蔵されている関係上、「追加寄贈」することに決めました。納品日は来週の木曜19日です。

ともかく、「歴史的貴重品」の数々が、元所蔵者がご存命のうちに「すべて収まるべきところに収まるようになった」ことは嬉しいことです。これで大役の荷の半分が下りた感じです。

(^-^)M・S
.. 2013年12月15日 18:28   No.668001

++ 島田守康 (部長)…186回       
前回、添付しました山形新聞の掲載誌が本日、手に入りましたので、改めてご紹介します。

14日(土)の1面と27面のトップに載っており、思っていたより大きく取り上げてくれて、予想以上の成果が現われました。相沢三郎・中佐の「遺墨書(掛け軸)」の現物は、昨日と本日、それぞれ鶴岡の郷土資料館に無事、収められました。

明日は、国会図書館へ参りますが、朝日新聞の国際報道部中国担当記者とカメラマンも同席する予定です。寄贈先については、現物を見ながら、国会図書館の担当者ら全員の意見を伺ってからの決定となります。

明日も、ご報告します。

(^-^)M・S

.. 2013年12月19日 12:23   No.668002
++ 島田守康 (部長)…187回       
本日午後、国会図書館に寄贈予定の「墨書」5点の供覧に行って参りました。

出席者は、この所持者の野崎寿子(ひさこ)さん(74歳)を始め、私と石研の山崎八九生事務長、図書館側からは憲政資料係長、課長、司書監の3名、朝日新聞社から国際報道部中国担当記者とカメラマンの計8名でした。

「墨書」5点の作者の内訳は、@愛新覚羅溥傑(皇帝溥儀の弟)、A潤 麒(皇帝溥儀の妃・婉容の弟)、B沈振鉄、C挂 一、D藤田東湖の各氏です。

各氏の「墨書」はご覧のとおり、どれも流麗なタッチの一級品です。しかし、BとCの作者は解読不明のため、お名前自身も「?」のままです。文面についても一部を除いては解読不明で、専門家の鑑定に委ねないと判らないものばかりでした。残念ながら、Dの藤田東湖書はコピーであることが判明しましたが、それでも価値はありそうな代物です。

国会図書館側としての見解は、「こうした立派な書でも、一旦図書館に収蔵されると一般人の閲覧に供する機会は殆んど無くなるので、むしろ由縁のところに寄贈されたら如何」というものでした。

私は、朝日新聞が連載で載せた記事中に、瀋陽にある愛新覚羅家が記念館を作ったようなので、そちらの可能性を語ると、朝日の記者が「溥傑さんは遺言によって日中双方に分骨されている。分骨先は山口県下関市の中山神社境内の愛新覚羅社」との話がありました。そして「中国側の保存状態は日本より悪いので、日本で保管するのが良いのでは」とも語りました。

これには、野崎寿子さん始め同席者も賛同され、その方向性で朝日の記者が動いてくれることになりました。溥傑氏署名の上には、乃木希典・陸軍大将の名も刻まれているので、東京の「乃木神社」という次善の策も考えられます。また、この書の伝達経路は、溥傑氏から石原莞爾将軍、それから石原将軍の側近・高木清寿(寿子さんの父親)というのが、自然の流れのようです。

なお、溥傑氏(1907年〜1994年、享年87歳)の分骨先は、溥傑氏の妃・浩(ひろ)婦人の曾祖父・中山忠光の故郷で、娘の慧生(えいせい、19歳没)の遺骨とともに納められていると言います。そして中国側の遺骨は3人共に中国妙峰山上空より散骨されて、全く残されていないとのことです。

.. 2013年12月20日 15:23   No.668003
++ 島田守康 (部長)…188回       
ということで、私が一時的にお預かりしていた5点の「墨書」は本日、野崎寿子さんの手許に再び舞い戻り、@〜Cまで一括して愛新覚羅社へが最有力となりました。

また、図書館係長の特別の計らいで、私達3人には憲政資料閲覧室(約40万冊所蔵)を見学する機会を与えてくれました。また、私の方では国会図書館にも無い参謀本部作成のナチス資料をお持ちし、閲覧に供したのですが、朝日の記者は「今回の墨書の件は記事にならないが、参謀本部の資料は報道の価値あり」として、これも写真に収めました。

難解な字の解読に、図書館側も文字資料を取り出し、解読に一役買ってくれたことは業務の一環とはいえ、協力的で有り難いことでした。また大勢の方々のお知恵も拝借できて、本日はとても楽しい一日でした。

(^-^)M・S

.. 2013年12月20日 15:31   No.668004
++ 島田守康 (部長)…189回       
昨日の国会図書館憲政資料室の続きです。

石原将軍の側近だった高木清寿氏(享年93歳、野崎寿子さんの父親)の蔵書寄贈に当たっては、8年ほど前、「野村乙二朗先生(83歳)が目録作成など尽力された」と館員が知らせてくれました。その点数は、計493点。

なお、石原莞爾将軍は計254点、武田邦太郎先生(享年99歳)は計244点が収蔵されています。高木氏の蔵書が群を抜いているのが、これでよく判りますが、昨日の墨書5点の寄贈先は、いろいろな方々の声を聞いて、野崎さんが最終的に判断されるものと思います。

なお、昨日は、私と事前打ち合わせをした朝日新聞の記者が、小澤征爾氏(78歳)の記事を持って来てくれました。それは、私が「わが会の機関誌では石原将軍を知る年配の方々のインタビューを試みているが、私にとって小澤氏だけは名前の由来を聞き出す目的のインタビューでは、どうも心が重いので、朝日新聞が私の代わりに聞いてくれないか」と持ちかけたのです。

すると、その記者は、「それらしきことを内の記者が今年、小澤氏に聞いている。その記事を探してみる」と言って昨日、探し当てて現物を持って来てくれたものです。残念ながら、このインタビューでも板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐の名前から、父親・開作氏(享年72歳)が一字ずつ採った「征爾」については触れていません。まして、二人の人物評価においておや……。

母親のさくらさん(享年94歳)には生前、私は繆斌(ミョウヒン)慰霊祭でお目にかかったことがあり、そのぽっちゃりとおしとやかな人柄が印象深いだけに、小澤征爾氏にインタビューを試みたい気持ちはあるものの、何分にも音楽音痴なので、この人だけはパスしかありません……。

(^-^)M・S

.. 2013年12月22日 08:34   No.668005
++ 島田守康 (部長)…190回       
久々に川柳です。川柳の世界にも、ご当地キャラクター、フナッシーのように「非公式川柳」なるものもあるんですね。

これは、同好者のブログだけに掲載されているもので、一般に公表されていないものですが、下記のものは、その一部が漏れ伝わったものです。「公式」よりも面白く、この際、皆さんにご紹介します。

なお、下記ゴシックの三点は自作のものですが、Aは賞金付きネット川柳に応募したものです(発表は新年1月下旬)。

@ 「やるやると 言葉ばかりの 忘年会」

A 「年賀状 金が信念 ご挨拶」

B 「いつ逝くの 聞いた人こそ 今でしょ」


下記の「非公式川柳」では、A、D、G、I、Jが、私には切実感があって笑えますが、皆さんはどうでしょう? 

@ 「3時間 待って病名 加齢です」

A 「日帰りで 行ってみたいな 天国へ」

B 「LED 使い切るまで ない寿命」

C 「このごろは 話も入れ歯も かみあわず」

D 「誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ」

E 「何回も 聞いたはずだが 初耳だ」

F 「手をつなぐ 昔はデート 今介護」

G 「なあお前 履いてるパンツ 俺のもの」

H 「恋かなと 思っていたら 不整脈」

I 「景色より トイレが気になる 観光地」

J 「ご無沙汰を 故人が繋ぐ 葬儀場」

K 「万歩計 半分以上 探し物」


番外……「熟年夫婦とかけて インフルエンザととく その心は 熱はさめたが 咳(籍)がぬけない」

お後がよろしいようで……。

最後に、イラスト川柳もどうぞ。

(^-^)M・S

.. 2013年12月22日 14:59   No.668006
++ 島田守康 (部長)…191回       
陸軍参謀本部の極秘資料に関して、昨日は産経新聞『正論』編集長、小島新一氏(49歳)とお会いしました。

目玉となるのは、以前にもお伝えしたように国会図書館にもない本邦初公開の第一巻目の「ナチス研究資料(和紙325頁)」です。これは作戦課長だった石原莞爾大佐が昭和12年(1937年)1月6日に参謀本部で「天野」という人物に手渡したものです。

この極秘文書が何部作成されたのか、日付も不明ですが、これをどう扱うのか、結局のところ、「三国同盟の研究者に当たってみる」ことになりました。本日は、当人に連絡がついたとの知らせは入っていませんが、ニュートラルな立場から評価してもらうことが肝心かと思います。

第二巻目の「伊太利ファシズム研究資料」のほうも、石原大佐から手渡されたものですが、こちらは表紙が剥がれ落ちて来ているだけに、なるべく早く然るべき場所に保存することが急務となっています。

もう一つの目玉は、これも本邦初公開で、建国間もない大同二年(昭和8年)作成の「満洲国軍配置図」です。これら一連の一級資料を、さて予定どおり防衛研究所に収めたらよいのか、それとも鶴岡の郷土資料館に収めたほうがよいのか、思い直し始めたところです。

なお、小島編集長は、私の書いた相沢三郎中佐の遺書や山本五十六・連合艦隊司令長官の原稿にも興味を示してくれました。相沢中佐の原稿は、月刊『丸』(潮書房光人社)が、近く見開き2頁で取り扱ってくれることになりました。

上記の件については、朝日新聞の記者も関心を寄せているので、「平成元号出典の謎」や「天武・持統天皇陵の建国の謎」のテーマも含めて、いずれ来年は取り扱ってくれるものと思います。

小島編集長からはお土産に、本日発売の月刊『正論』(新春増大号)と『別冊正論』の最新号を頂きました。有り難うございます。

なお、石研の松田勝承(かつよし)氏(69歳)からは季刊『沖縄世論』(閣文社)の最新号が送られてきました。今回の氏の連載記事のテーマは「『護郷隊』沖縄北部の白虎隊」で、文中の末尾は、「独ソ戦に関する石原莞爾の予測は見事だ。「最初はヒトラーが勝つ。終わりはスターリンが勝つ。最後の決戦はスターリングラードあたりだろう。兵站線が陸上輸送でヒトラーは不利だ。ボルガ河を使うスターリンのほうが有利だ。結局、ソ連が勝つだろう」で結ばれています。これは『永久平和』125号より抜粋したもので、出典もちゃんと明示されていました。

沖縄のマスコミ界は、とかく「反米軍」「反本土」で「反日キャンペーン」を展開して、中国の「沖縄独立論」に加担して搦め捕られて

いますが、この『沖縄世論』は大勢の地元偏向報道や圧力に屈せず、正論を堂々と吐いています。しかも、松田氏が石原莞爾将軍を事あるごとに記事で紹介して下さっていることは、誠に嬉しい限りです。

今や、お付き合いするマスコミ人も、私より年下が大半となったので、これからは少しでも彼らを「馴化・訓育」していこうかと思っています。

(^-^)M・S

.. 2013年12月26日 12:09   No.668007
++ 島田守康 (部長)…192回       
一昨日、都知事だった猪瀬直樹氏(67歳)が、たった一年の最短記録で都庁を後にしました。

この猪瀬氏については昨年、都知事に立候補を表明した際、11月23日付の「燦然・ニッポン(80)」でご紹介しました。理由は、当時、立候補した9人の中で石原莞爾将軍について論評したことのある唯一の人物だったからです(添付写真は『別冊歴史読本 未公開写真で見る満州事変』新人物往来社、1988年特別増刊号より)。

彼の石原評は、この小見出しにあるように「ホームランすれすれの大ファウルだった」というものです。しかし、この評は、そっくりそのまま猪瀬氏にお返ししなければなりません。オリンピック招致で大打球を放ったものの、その後、打球はどんどん反れて行き、最後は平々凡々打になったからです。この石原評は、まるで自身の行く末を暗示していたかのようです。

猪瀬氏が石原中佐に対して、「その満洲事変の立役者にしても事変から一年もたたないうちにジュネーブ軍縮会議随員という閑職に追いやられますね」と皮肉るように、彼は「民族共和」という建国の理念を打ち立てたものの、建国の実務には一切関わっていません。

そのため、この時に、「私は石原将軍は野球で言えば、一回裏先頭打者ホームランを放ったものの、彼の欠場後、五回には5点を取られ(ノモンハン事件の敗北、南進へのキッカケ)、そして九回の表には相手側打者二巡の大量15点、裏の味方攻撃は三者連続三振で試合終了(ソ連軍の侵攻により満洲国の崩壊)と思います。思い出したくない「20対1の悪夢の凡試合」、すなわち「坊主(偽満洲)憎けりゃ袈裟(建国立役者)まで憎い」――すべてが批判の対象に……」と表現したのです。

今日、「悪しき左遷人事」を行なったのは、真崎甚三郎・参謀次長だったことが判明しています。彼は建国の理念も意義も全く理解できず、その頭で満洲事変の立役者をことごとく左遷したのです。石原将軍の側近だった高木清寿氏(享年93歳)が、「建国の父 石原莞爾」ではなく、『東亜の父 石原莞爾』と書名にしたのは、民族共和という一国を超えた民間レベルの「東亜連盟」の理念から採ったもので、至当と言えます。

批判が仕事だった猪瀬氏が一転、行政マンに転じ、その経験から今、石原将軍や満洲国のことをどう評価するのか改めて聞いてみたい気がしますが、満洲国が当時のアジアの中で「一瞬ながらも最先端の光芒を放った」ことは間違いありません。満洲国の建国当時の人口は約3000万でしたが、崩壊時の13年間に東京都の人口の2倍にも匹敵する2000万もの人口が増えて5000万人になったことだけでも、この国にいかに魅力的な吸引力があったか容易に想像できます。失敗も含めて、この中に活力あふれる国づくの教訓は沢山あるはずです。

.. 2013年12月27日 07:56   No.668008
++ 島田守康 (部長)…193回       
石原将軍は、公金に関して潔癖であったことが知られています。下記は、関東軍の機密費の国防婦人会への流用に関する田中隆吉・兵務局長(少将)の証言です。

「石原氏は東條氏(参謀長)のかかる独断を憤って、東條夫人の交際費には断じて捺印しなかったので、東條氏は軍司令官(植田謙吉大将)に対して決算報告書を出すことができない。そこで腹心の富永恭次大佐(当時、関東軍第一課長)を東京に派遣し、陸軍省を動かして石原参謀副長の即時罷免を請わしめた。陸軍省はこれを承認しなかったが、事情を知った石原氏は憤然として休暇を願い出て東京に帰り、久しからずして舞鶴要塞司令官に左遷させられた。昭和13年12月の出来事である。氏は着任1年3ヶ月ならずしてその職を去ったわけである。これは満州における統制派の策謀の一端であり、また作戦の奇才・石原莞爾氏との衝突の発端を物語る挿話である。この衝突は後に至って、陸軍部内の一大癌となった」(『日本軍閥暗闘史』昭和22年10月年刊より)

この件は、昭和19年(1944年)10月、東條英機首相暗殺未遂事件や「怪文書」事件で軍法会議に石原将軍が参考人として召喚された際、島田朋三郎・法務部長(中将)も裁判官として上記の件を指摘した上で、なおかつ「東條は日本政権乗っ取りの政治工作資金入取のため、関東軍参謀長の時、満洲たばこ会社から三十万円(当時)の収賄をした噂がある」と指摘しています(高木清寿著『東亜の父 石原莞爾』たまいらぼ、昭和60年刊)。

終戦時、この島田法務部長は、拳銃自決しています。それに引き換え、猪瀬氏のあの見苦しい弁解続きは、“醜い”の一言でした。

(^-^)M・S

.. 2013年12月27日 08:06   No.668009
++ 島田守康 (部長)…194回       
カメラの名機“ライカ”の誕生100年を記念して、日本カメラ博物館が特別展を来年の3月2日まで開催しています。

“ライカ”の由来は、1913年、ドイツの「エルンストライツ社」に勤めていた技術者のバルナックという人が、超小型カメラを作り出し、社長の名前「ライツ(Leitz)」とカメラ(Camera)の頭を採って「LEICA」と名づけたのが、ライカ誕生の瞬間と言われます。

そして市販の一号機「ライカI型(日本名はA型)」は、1925年(大正14年)4月に販売され、この時に付けられた製造番号はNO130からと言われます。

ところで驚くべきことは、当時、2年間のドイツに留学を終えて帰国間際の同年8月に、石原莞爾少佐がその内の1台を購入し、帰国して持ち帰ったのが「日本でのライカ第1号」だったことです。買い求める時には、「お求めになるのは見合わせた方がいいですよ。このカメラは距離計を売るために作られたもので、大したものではありません」と言われたにも拘らず……。製造番号は500番台ということで、かなり早い購入だったことが判ります。

そうした史実を、16年前に酒田短大の東海林恒昭・講師(当時66歳)が明らかにしています。これは今日、カメラ専門誌にも「歴史的事項」として記載されています。

さらに驚くべきことは、下記の証言にあるように、「新任の本庄(繁)関東軍司令官の巡視旅行に随行していた将軍は、昭和6年(1931年)9月18日に帰宅し、その晩、旅行中に新しいライカで写してきたフィルムを素っ裸になって現像していたところに司令部から電話があり、満州事変の勃発を知らされた」という事実です。

満州事変時には、石原莞爾中佐は「秘密の謀略の報告を待ちに待って、参謀が集まった時にはただ一人、軍正装していて私服の他人を出し抜いた」という説が大勢を占めていますが、個人的な趣味に没頭していてのフイの出来事(突発事件)に、むしろ慌てて、事が一旦あったら重責を負わねばならない作戦参謀としての立場から、超特急の身支度をさせたのではないかと私には思えます。

.. 2013年12月29日 08:08   No.668010
++ 島田守康 (部長)…195回       
緊急事態が発生すれば、「適当な処置」を取ることは、現地の関東軍には司令部条例第三条により規定されており、それこそ戦略拠点を押さえる占領範図は石原中佐の頭の中にはあったわけですが、当初、9月28日に予定されていた決行日が諸般の事情で急がなければならなくなり、16日の奉天での参謀会議でも、実は決まっていなかったと言います。

今日、18日に決定したのは、花谷 正少佐と今田新太郎大尉の二人だけの話し合いとされ、すなわち石原中佐には決行日は知らされていなかったわけです。ならば、これで奉天から旅順に帰ったばかりの石原中佐の慌てぶりが符合し、しかも合点もいきます。

石原中佐の満洲事変前の5月31日の日記には、「軍主導の解決のためには、満鉄攻撃の謀略は軍部以外の者にて行うべきもの也」という記述があります。これによって鉄道爆破計画がだいぶ以前から浮上していたことが判ると同時に、彼にとっては謀略は極力軍人が手を染めることに反対だったことが読み取れます。よって、細かい爆破計画が部下によって伝えられなかったとしても不思議ではなく、しかし一旦起きた事件には弁解は一切せず、自らの責任として「我を戦犯として引き出せ」と大声したことも、これでよく頷けます。

ピント外れが多い石原評に、ご本人はきっと苦笑と同時に諦観もしているに違いありません。

(^-^)M・S

.. 2013年12月29日 08:30   No.668011


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