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本シリーズ(24)でご紹介した石原莞爾将軍の縁戚、石原重高氏(享年40歳前後)ですが、阿部博行著『石原莞爾 ――生涯とその時代』(法政大学出版局、上下巻、定価7560円)の文中に3箇所出ていました。その3箇所の記述から浮かび上がって来るものは……。 @昭和4年(1929年)7月、満洲の関東軍に赴任した石原莞爾・作戦参謀(中佐)が、対ソ戦を睨んで北満西北部に偵察・演習に出掛けた際、その最南端の吉林省・洮南(とうなん)駅から、重高氏が一行を見送ったこと。 A同年10月、黒龍省の馬賊=馬占山軍が洮昴(とうこう)鉄道の江橋鉄橋を爆破した際、重高氏は早期の復旧・復興のために、石原莞爾・作戦参謀に援助を要請した。 B昭和7年(1932年)1月、「満洲国」の屋台骨となるべき満鉄経済調査会の設立が、石原莞爾・片倉 衷・松木 侠・宮崎正義・石原重高の5名が、奉天ヤマトホテルに集まって最終案を協議した(以後、敬称略)。 以上の記述によって、「満洲国」の建国前後に二人は顔を合わせ、関東軍と満鉄とは親密不離の関係にあったことが、ハッキリと判ります。 ところで、Bでの出席者である石原と片倉の2名は関東軍、松木・宮崎・石原重高の3名は満鉄の代表者であり、この中の松木 侠(たもつ)は同年3月の建国後、法制局長・審計局長、大同学院院長を歴任、戦後は故郷に帰って第8代目の鶴岡市の市長を務めています(1898年〜1962年、享年64歳)。どうやら、この松木と石原重高は東京帝大法科卒の同年同期生らしく、年長者の石原莞爾・中佐(43歳)が他のメンバー全員をリードしたようです(片倉も松木、石原重高と同年齢、当時34歳)。 3人よりは少し年長の宮崎正義(当時39歳)は言うまでもなく、満鉄調査部きってのロシア通で、「日満財政経済研究会」のトップとして日本国と満洲国の精緻な五カ年経済計画を策定しました。しかしながら、盧溝橋事件(1937年7月)によって石原莞爾・参謀本部作戦部長(少将、48歳)が解任されることに及んで、一体となってやってきた偉業が活かされなかったことが、日満両国にとって“大痛恨事”となってしまいました(1893年〜1954年、享年61歳)。 以上のように、「満洲」建国前後の陰には、山形県鶴岡市出身の若者3名の活躍があったわけですが、作戦部長を解任された石原少将はその後、自ら希望して再び満洲国に関東軍参謀副長として赴任、しかし上司である東條英機・参謀総長と悉く意見が合わず、自らの意思によって1年未満で帰国してしまいます。その直後に発売された大衆雑誌『キング』(昭和13年、1938年)10月号の記事を、現代史研究家の田中秀雄氏(61歳)が、そのコピーを送ってくれました。 記事の執筆者は、会津若松の歩兵第65連隊に石原少尉が初赴任してきた時の中隊長・綿貫日國氏で、「陸軍の明星(みょうじょう) 石原莞爾少将」というタイトルで紹介しています。上官である綿貫氏は、石原少尉の初見時、荘厳な紹介儀式が終わった直後、会津盆地から四囲の山岳を見渡した毅然たる姿を見て、「これは平凡な軍人ではないぞ」と直感したそうです。 そして、その後の足跡を見ても、「無私無欲、清浄無垢、名将、知将の資で、すでに彼は人間として、将帥として最高峰に達してした」と絶賛しています。
.. 2013年12月04日 09:33 No.659002
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