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■--礼華ニッポン
++ 島田守康 (課長)…174回          

100年に一度、今年最大の宇宙ショーと言われたアイソン大彗星ですが、昨日の報道では「消滅か」(添付写真最後の赤い画面)と伝えられたのが、本日は一転、「健在か」(本文写真の青い画面)と伝えられました。

この劇的な「消健」劇は、今年5月に大手術を受け一度は死にかけた我が身に重なるようで、全く関わりのなかったアイソン彗星に、何か急に親近感を覚えるようになりました。今後、復活して以前より大きな尾を引いて美しく輝き続けるのか、それとも途中で失速してしまうのか、見逃しようのない事態となりました。

今回は、プロのカメラマンが撮影した美しい写真を添付しますので、下記の動画と併せて自称「愛存すい星」をご覧下さい。

    ▼動画(1分) こちら

(^-^)M・S
.. 2013年12月01日 15:43   No.659001

++ 島田守康 (課長)…175回       
本シリーズ(24)でご紹介した石原莞爾将軍の縁戚、石原重高氏(享年40歳前後)ですが、阿部博行著『石原莞爾 ――生涯とその時代』(法政大学出版局、上下巻、定価7560円)の文中に3箇所出ていました。その3箇所の記述から浮かび上がって来るものは……。

@昭和4年(1929年)7月、満洲の関東軍に赴任した石原莞爾・作戦参謀(中佐)が、対ソ戦を睨んで北満西北部に偵察・演習に出掛けた際、その最南端の吉林省・洮南(とうなん)駅から、重高氏が一行を見送ったこと。

A同年10月、黒龍省の馬賊=馬占山軍が洮昴(とうこう)鉄道の江橋鉄橋を爆破した際、重高氏は早期の復旧・復興のために、石原莞爾・作戦参謀に援助を要請した。

B昭和7年(1932年)1月、「満洲国」の屋台骨となるべき満鉄経済調査会の設立が、石原莞爾・片倉 衷・松木 侠・宮崎正義・石原重高の5名が、奉天ヤマトホテルに集まって最終案を協議した(以後、敬称略)。

以上の記述によって、「満洲国」の建国前後に二人は顔を合わせ、関東軍と満鉄とは親密不離の関係にあったことが、ハッキリと判ります。

ところで、Bでの出席者である石原と片倉の2名は関東軍、松木・宮崎・石原重高の3名は満鉄の代表者であり、この中の松木 侠(たもつ)は同年3月の建国後、法制局長・審計局長、大同学院院長を歴任、戦後は故郷に帰って第8代目の鶴岡市の市長を務めています(1898年〜1962年、享年64歳)。どうやら、この松木と石原重高は東京帝大法科卒の同年同期生らしく、年長者の石原莞爾・中佐(43歳)が他のメンバー全員をリードしたようです(片倉も松木、石原重高と同年齢、当時34歳)。

3人よりは少し年長の宮崎正義(当時39歳)は言うまでもなく、満鉄調査部きってのロシア通で、「日満財政経済研究会」のトップとして日本国と満洲国の精緻な五カ年経済計画を策定しました。しかしながら、盧溝橋事件(1937年7月)によって石原莞爾・参謀本部作戦部長(少将、48歳)が解任されることに及んで、一体となってやってきた偉業が活かされなかったことが、日満両国にとって“大痛恨事”となってしまいました(1893年〜1954年、享年61歳)。

以上のように、「満洲」建国前後の陰には、山形県鶴岡市出身の若者3名の活躍があったわけですが、作戦部長を解任された石原少将はその後、自ら希望して再び満洲国に関東軍参謀副長として赴任、しかし上司である東條英機・参謀総長と悉く意見が合わず、自らの意思によって1年未満で帰国してしまいます。その直後に発売された大衆雑誌『キング』(昭和13年、1938年)10月号の記事を、現代史研究家の田中秀雄氏(61歳)が、そのコピーを送ってくれました。

記事の執筆者は、会津若松の歩兵第65連隊に石原少尉が初赴任してきた時の中隊長・綿貫日國氏で、「陸軍の明星(みょうじょう) 石原莞爾少将」というタイトルで紹介しています。上官である綿貫氏は、石原少尉の初見時、荘厳な紹介儀式が終わった直後、会津盆地から四囲の山岳を見渡した毅然たる姿を見て、「これは平凡な軍人ではないぞ」と直感したそうです。

そして、その後の足跡を見ても、「無私無欲、清浄無垢、名将、知将の資で、すでに彼は人間として、将帥として最高峰に達してした」と絶賛しています。


.. 2013年12月04日 09:33   No.659002
++ 島田守康 (課長)…176回       
冒頭の阿部博行氏(65歳、鶴岡市在住)の著書には、その一端を示すような記述があります。「石原は(満洲)事変後、芸者の出る酒席には絶対出席せず、部下に対しては、もし料亭に出入りするならば、軍服ではなく背広を着て赴くようにと諭している。また、前線から奉天駅に着く列車ごとに、必ず出迎えに出た。戦死者の遺骨・負傷者が乗っていたからである」と。

この記述で私が思い出すのは、藤本治毅著『石原莞爾』(時事通信社、初版1964年、新装版1995年、定価2000円)の満洲事変時における強姦事件についての次の箇所(P101〜102)です。著者の藤本氏は、仙台の第四連隊時の部下で元陸軍憲兵大佐です。

 「昭和七年(1932年)九月十五日、日本は満州国の独立を正式に承認し『日満議定書』の調印をも了した。事変当初、軍司令官以下が奉天に乗り込んできたときである。奉天駐屯の歩兵第二十九連隊の一上等兵が、中国婦人を姦した一件が軍司令部に聞こえてきた。

 連隊幹部はもとより、軍司令部内においてさえも、兵馬倥偬(こうそう、慌ただしい様)の間の出来事であるから、大目に見ようという意見があった。だが烈火の怒りを示したのは石原莞爾で、

『聖戦の前途を汚す悪鬼である』

とて、最も厳重な処分を要求して譲らなかった。平田連隊長もその正論に屈し、これを最大限の“降等処分”に付した。ために全軍将兵粛として声をのんだのである。

 ところがこのことがはしなくも敵側に伝わり、後日、馬占山がチチハルを捨てて退却するに際しては、

 『日本軍がきたら、城門を開いておけ、そして各自平常の業務に服しておってよろしい。張海鵬の軍(関東軍の友軍)が来たら、城門を固く閉ざして各々自衛の処置をとり、強姦、略奪に対処せよ』

と、住民に布告して立ち去ったという」

「またここに靖安遊撃隊(当時、寄せ集めの満洲人で組織した部隊)の問題がある。この隊の生みの親、和田 勁は、これより先、かかる俄かづくりの軍隊をつくるべきか否かにつき、板垣征四郎参謀に語ったところ、『そうしたものを、かような混乱期につくって成功したためしがない』という。実際、満洲人に兵器弾薬を与えるようなもの、これを危ぶむのも無理はない。

 しかるに、石原莞爾は『つくれ、つくれ』である。同じくは積極説に従えとて、万端の後にこれをつくりあげ、さて莞爾に報告すれば、『姦さず、焼かず、盗らずをもって進むべし』という。

 以来これを信条として鍛え上げたところ、ついには軍秩の正しい優秀兵団(親衛隊)が出来上がった。実に、このことが例証となって後の満洲国軍が創設されたのであった」

最近でも、私は「教養や品格に欠けた下劣な石原莞爾を持ち上げるさもしい奴」との批判を浴びていますが、こう酷評する輩(ヤカラ)こそ、「坊主、見てきたようなウソを言い」のエピゴーネン(偽者の言説をコピーした偽善者)に過ぎません。

実相を何も知らず、「日本の誇るべき軍人・石原莞爾」を盲目的に断罪してきた戦後の悪しき風潮は、この際、一擲(いってき)、除去しなければなりません。

(^-^)M・S

.. 2013年12月04日 09:42   No.659003
++ 島田守康 (課長)…177回       
昨日、旧満洲国時代に北朝鮮と国境を接する安東市(現丹東市)で育った同窓生の団体「安東会」から、機関誌が送られて来ました。誌名の『ありなれ』(年刊)とは「鴨緑江(おうりょくこう)」を指す朝鮮語だそうで、百済の王様が朝鮮半島と日本との平和を詠んだ歌から採ったものだそうです。

「安東会」は、会の結成から57年目、発足当時は3000名いた会員も今では450名に減り、毎年30名ほどが亡くなって実際に会費を支払っている人は約半数ほど、寄付金で事業費をどうにか賄っている現状とのこと。会員の平均年齢は80歳を超えており、「満鉄会」と同じような運命を抱えているわけで、これは
石研とて例外ではなく、とにかく歴史的証言を後世に残す作業が、時間の問題となっています。

そのわが会で、安東市出身者は以前にもお伝えした伊達宗義先生(92歳)がおられます。伊達正宗の長兄が継いだ伊予宇和島藩の直系子孫で、父親の順之助氏(満洲国陸軍中将、1892年〜1948年、享年56歳))は戦後、銃殺刑当日に、家族と石原将軍に遺書をしたためています(「凛美ニッポン(75)」で詳述)。

「安東会には石原将軍に詳しい人が一人居る」ということで、その方の連絡先をご紹介頂きました。最年少クラスの岡田和裕氏(76歳)で、『満鉄と満洲事変意外史』(光文社、2009年刊)などたくさんの現代史の著書があり、近日、接触を図らせて頂く予定です。

せっかくの機会なので、機関誌に載っている戦前の安東市の様子や、安東の位置が判る満洲国全図を添付します(手の矢印のところ)。

なお、前号でお伝えしたAの馬占山軍の鉄橋爆破事件の年月ですが、昭和4年の10月ではなく昭和6年(1931年)の10月で、満洲事変後のことでした。訂正してお詫び申し上げます。

(^-^)M・S

.. 2013年12月08日 10:29   No.659004
++ 島田守康 (課長)…178回       
先日、久々に書店に行ったところ、『怪物たちの満洲帝国』(洋泉社、定価980円)というムック本が、発行されていました(11月10日)。表紙の中心部には石原莞爾将軍が配され、これによっても彼が「満洲国」建国に関わった大きさが判ろうというものです。

その証拠に、ウィキペディアには、昭和15年(1940年、康徳7年)4月、当時、満洲国総理大臣・張景恵氏から送られた勲一位柱国章の写真が載っています。この勲章は、日本国の勲一等瑞宝章に相当するものだそうで、賞状での石原将軍の勲位は「大日本帝国勲二位」となっているのに、同ウィキペディア解説での日本国の勲位は「正五位・勲三等・功三級(金鵄勲章)」となっています。その齟齬の違いは判りませんが、一位から八位までの正・従併せて16階のうち、日本の総理大臣経験者は通常、正二位からと言われます。

さて、「満洲国」の数あるムック本の中で、石原将軍が表紙の中心に位置し、しかもトップ記事になったのは、私の記憶では今回が初めてではないか、と思います。それだけ近年、存在感が増してきた感じですが、そのタイトルは未だに「怪物」とか「暗躍」などと暗いイメージを演出しています。歴史の興亡は、草創の活況期と絶頂の激闘期、それに最後は滅亡の悲惨期に分けられるわけですが、こと満洲国に限ると悲惨な目に遭った引揚者の証言が多いため、「黒一色」の様相を呈しています。今、その人達が最高齢者になったことでもあり、致し方ないことではありますが……。

この編纂メンバーには、かつて私が会ったことがある「引揚の編集者」も居て、その性格が今度の本にも如実に反映されているわけですが、歴史には草創期から絶頂期までの「光」の部分と絶頂期から滅亡期の「陰」の部分があるのであって、「陰」のみを描き出すのは、その半面でしかありません。

前回、「安東会」の機関誌『ありなれ』に掲載された写真をお伝えしたついでに、今回も戦前の同地の写真をご紹介します。それは、まぎれもなく、「南満」の一端を示していると同時に、満洲国の一端も表わしていると思うからです。前回、私は「満洲八景公選」の第一位がサクラの名所=鎮江山にあったことを初めて知ったのですが、今回は「鴨緑江大鉄橋」についての存在を知りました。

.. 2013年12月10日 06:44   No.659005
++ 島田守康 (課長)…179回       
鴨緑江(おうりょくこう)は、中国大陸と朝鮮半島を隔てる川幅約900mの大河ですが、ここに初めて「軍事架橋」を設置したのは、明治27年(1897年)清国軍を平壌で破った山縣有朋(元総理、第一軍司令官)率いる日本軍でした。そして韓国統監府(のちの朝鮮総督府鉄道局)が本格的な陸橋建設を開始したのは日露戦争(明治37〜38年)後の明治42年(1909年)からで2年後に完成、列車(単線、両側車歩行)による大量輸送が可能となりました。まさしく「鴨緑江大鉄橋」は日本の大陸進出の「橋頭保」となったわけです(施工者は間組)。

この大鉄橋(12連のトラス橋)は、驚くべきことに、大きな帆船が通る時には90度回転する可動式陸橋となっています。また、鉄道敷設のこうした縁の下の力持ちがあってこそ、のちに最もモダンな特急列車「あじあ号」も走れたわけで、当時、日本には、かなり高い鉄道技術力のあったことが、この安東の光景からも窺い知れます。

大変な人材と経費を掛けて出来上がった立派なこの大鉄橋ですが、しかし昭和25年(1950年)から始まった朝鮮戦争では米軍空爆の真っ先の目標となり、破壊された橋梁は、「鴨緑江断橋」という名で残されているとのことです。一方で、中朝両国政府はこれを「中朝勝利の記念碑」にしているそうで、最初に日本人が作ったことは全く忘れ去られているとのこと。現在は、その横に中国が全額負担して建設した「中朝友誼橋」が並列していて、第三の橋も建設中とのこと。

「安東会」の一員、藤原作弥氏(76歳、時事通信特派員、元日銀副総裁)は、『東北への眼差し』(愛育社、2012年、定価2415円)という本の中で、「福島第一原発の事故という人災も含めて歴史上、最大の厄災が東北地方で起こったことは“東北の悲劇性”を改めて強く思い知らされた。……しかし、私は東北の復興を信じている。終戦後、私たち一家が満洲から引き揚げてきた時の仙台市街のほとんどは焼け野原、仙台駅はバラック建ての仮の駅舎。その駅前から青葉城に通ずる街路は砂塵の吹きまくる“仙台沙漠”、雨が降れば“仙台田圃”と言われる荒廃ぶりだった。しかし、その道路は今、杜の都を象徴する美しいケヤキ並木に生まれ変わっている」……、それは「終戦直前、ソ連戦車軍団の追撃を受けて脱出したあとの国境の町(安東)における難民体験」からと言います。

.. 2013年12月10日 07:01   No.659006
++ 島田守康 (部長)…180回       
「焼け野原からの復興」「水害避難からの復興」――、そのドン底からの精神は、新たな建国づくりの精神にも通底するのがあると思います。

読者のお一人、永堀 徹氏(75歳)からは前回の『ありなれ』に関連して、下記の文面が送られてきましたので、ご紹介します。それにしても、「白頭山節」はテンポの良い、覚えやすい歌ですね。

(^-^)M・S

.. 2013年12月10日 07:07   No.659007
++ 島田守康 (部長)…181回       
今年12月8日のNHK恒例のスペシャル番組は、「真珠湾攻撃の謎 ――知られざる国際情報戦」でした。日本はなぜアメリカと戦った? 新史料は語る 日米英ソのスパイ戦という内容でした。今回は、これに対して特にコメントしません。

ご覧になれなかった方は、今週12日(木)午前0時40分から再放送があります。

ところで、日米開戦が日本の軍中央部で決意された時、石原莞爾将軍は次のように語って反対しました。これは当時、京都第十六師団の通信隊長だった犬飼總一郎氏(享年87歳)の証言に基づくものです(『栄光と悲運 わが第十六師団通信隊』私家版、平成9年刊)。

「それは昭和16年2月半ば、京都在勤の現役青年将校は師団司令部敷地内にあった偕行社の講堂に召集され、師団長の講話を拝聴した。師団長は開口一番、右手を挙げ、
『この5本の指のうちで4本まで大陸に出兵させて置き、残りの1本でアメリカと戦うなど、貴官らはそんな戦術を習ったことがあるか』
と仰せられた。
私はビックリした。まさかということが既に軍中央部で論議されていた、いや着々と準備されつつあったとは驚きであった。
対ソ戦備こそ最優先すべきわが陸軍は、大兵を大陸に投じて足を取られつつあるというのに、何事かと思った。北満永久駐屯を熱望し、その夢の実現に専念なさっておられた将軍は、われわれに対し敢えて実情をぶちまけ、遺言とも言うべき警告をなさった。
この警告は中央にも向け発せられていた。案の定、将軍は東條英機陸軍大臣によって排斥された(翌3月)。」

結局、第十六師団は昭和16年12月8日、開戦と同時にフィリピンに出撃し、初めの快進撃から、3年後の19年10月からのレイテ決戦においては全滅する悲運に見舞われるわけですが、その激戦の途次、犬飼氏の後継通信隊長だった渡辺竹司氏も戦死します(享年26歳)。

その弟さんの光治氏(現在90歳)は早稲田大学の学徒出陣でフィリピンのマニラに出撃したのですが、何も出来ぬまま台湾に戻り、再編成でシンガポールへ出航直前、乗船予定船の故障のために出航できず生き残ったわけですが、今、その方の本づくりを私がしているのは何かの縁を感じます。

.. 2013年12月15日 07:24   No.659008
++ 島田守康 (部長)…182回       
さて、先週の土曜7日、三浦大介氏(76歳)のご案内で、個展を東京・浅草橋の画廊で観賞させて頂いたのですが、その三浦氏から家系図を頂いたのでご紹介させて頂きます(三浦氏は記念写真の右から二人目、赤いシャツを着た黒メガネの人物)。

以前にもご紹介したように父親は三郎と言い、東條英機氏を継いだ満洲国の関東軍憲兵司令官でした。のち、支那派遣軍第114師団の師団長(中将)を務めました。親子とも東京生まれですが、本家は山口県の萩市で、本家の土地は広く、三浦一族は地元では有名だそうです。東條氏とは勝子夫人の妹と父親のお兄さんが、また母親の妹は「陸軍の小畑三兄弟(秀良、忠良、信良)」の三男と結婚したとのことです。「厳格な父だったが、私には何の職業に就いてもよいと自由にさせてくれた」とのこと。

そのため、「父親周辺や親戚筋とは付き合いをして来ず、石原将軍についても耳にしたことはあったものの、何も知らない」ということでした。最近は私の「入れ知恵」で、だいぶ認識が改まって来ていますが……。

個展を開いたSUIKAさん(53歳)ですが、点描画の作品と概略は下記をご覧下さい。三浦氏は、彼を2020年東京オリンピックまでにメジャーにさせたいとプロデュースしています(SUIKAさんは左から3人目の坊主頭の人物)。

    ▼ こちら

*SUIKA**プロフィール*
1960年沖縄生まれ、点描画家。人生は波乱万丈。借金自己破産を経て、もがき苦しむ中、瞬間!神秘体験を経験。「おまえも描いてみろ!」・・・
という内なる声を聴き点描画を描き始める。2012年より約1年間で70点以上の点描画を生み出している。


(^-^)M・S

.. 2013年12月15日 07:35   No.659009
++ 島田守康 (部長)…183回       
本日午後2時半より、銀座6丁目の山形新聞社東京支社の応接室にて取材を受けました。

取材の経緯は、私がお預かりしている相沢三郎・陸軍中佐の「遺書(掛け軸の墨書)」を山形県の鶴岡市にある郷土資料館に寄贈したいと申し出たことにあります。

ご承知のように、相沢三郎・中佐(46歳)は昭和10年(1936年)の8月2日に、当時、陸軍省軍務局長だった永田鉄山・少将(51歳)を日本刀で刺殺した人物です。そして翌年の7月3日に銃殺刑に処せられるわけですが、その前日に特別弁護人を申し立てていた1年先輩の石原莞爾・大佐に遺書3通を手渡していたのでした。

この刺殺当日は、石原大佐が仙台の第四連隊長から永田軍務局長の抜擢によって初めての登庁日だったので、石原大佐にとっては、心中何とも複雑な事件となってしまったのでした。

さて、処刑前日の7月2日に手渡されたのは漢詩1通と和歌2篇の計3点でしたが、4年前に漢詩は鶴岡の郷土資料館に保管されていることが判り、もう一つの和歌は石原将軍の側近だった高木清寿氏(享年93歳)の娘さん、野崎寿子(ひさこ)さん(76歳)がお持ちであることも判り、今回の寄贈に当たっては「同時寄贈」に快諾してくれたものです。

私がお預かりしている相沢中佐の和歌は、同じく石原将軍の側近だった満洲国軍中将・和田 勁氏(享年62歳)の息子さん、獅郎氏(83歳)がお持ちだったものを「年寄りゆえ、いつ天国に行くやも知れず」ということで私に託されたものでした。

よって今回は、野崎寿子さんにもお越し頂き、立会人として石研の山崎八九生・事務長も同席させて頂きました。

取材記者は報道部副部長の小関博之氏(50歳前後?)で本日、山形市の本社から急遽新幹線で来て頂き、応接室にはたまたま同社の社長と東京支社長がおり、今回の取材は事前に知らされていたようで、親しく名刺交換をさせて頂きました。

今回の遺書の詳しい内容については、「相沢三郎中佐の三つの遺書」というタイトルで私は原稿を作成してありますので、もし詳しくお知りになりたい方があればワード文書をお送り致します。

.. 2013年12月15日 08:37   No.659010
++ 島田守康 (部長)…184回       
今回の取材では、この原稿を元に概略を申し上げ、小関記者の疑問に応える形でお話したわけですが、石原将軍像について聞かれた野崎寿子さんは幼少時、昭和20年(1945年)3月、母親に連れられて栃木県宇都宮市の郊外で石原将軍に初めてお目にかかった時、「父親より賛同者だった母親には温かい接触をしたのに、私には冷たい視線を浴びせられてゾッとした」という懐古談を語りました。また「昭和30年(1950年)にお会いした銻子夫人からも冷たい視線を受け、お子さんの居なかった寂しいご両人の一面をかいま見た感じ」とも言いました。余り語られることの少ないエピソードなので、あえてお伝えします。

なお、記事掲載と贈呈に至る手順としては、小関記者が鶴岡の郷土資料館で漢詩を確認し、「三つのそろい踏み」の意義を確認したあと、当方からの寄贈意向を伝え、了承を得られれば送る手筈となりました。

また、私がお預かりしている満洲国軍配置図や参謀本部作成の「ナチス」「イタリア」研究資料、満洲国政府作成文献、これらはいずれも極秘文書ですが、こちらはまず国会図書館にあるかどうかを打診して、無ければ国会図書館に、あれば郷土資料館に贈る手筈となりました。

ともかく、相沢中佐の遺書3通が、長年バラバラに保管されていたものが、もし今月実現するとなると76年ぶりに一同に会することになるわけで、たぶん相沢中佐も石原将軍も喜んで下さると思います。

(^-^)M・S

.. 2013年12月15日 08:42   No.659011


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