ホップの織田信長に続くステップ役が、ご承知のように豊臣秀吉です。今回は、秀吉についてご紹介します。 豊臣秀吉(1536/37〜1598年)は、尾張国愛知郡中村郷(現在の名古屋市中村区)で信長の足軽とも下層民出身とも言われます。 本能寺の変(1582年)による信長の死によって、突然手に入れた「天下」ですが、信長がすでに築いていた各藩の軍勢をよく束ね、その勢いを駆って「明国平定」の大陸侵攻作戦を敢行したことは、余りにも有名です。しかし、戦後、日本では文禄・慶長の役(1592〜98年)を「朝鮮出兵」という枠組みに限定した狭小化した捉え方が主流を占めています。 しかし、「大唐(明国)」「天竺(インド)」を平定してイスパニア(スペイン、ポルトガル)にまで至る世界戦略は、すでに信長が描いていたことで、そのため秀吉には「筑前守(佐賀県)」、光秀には「日向守(宮崎県)」という称号が与えられていました。これは単に九州に土地を与えることでなく、大陸侵攻作戦を睨んでの前布陣だったのです。 信長の死後、秀吉は、それを10年後実行に移します。天正20年(1592年)の毛利輝元宛書状には、「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するがごとくあるべきものなり。ただに大明のみにあらず、いわんやまた天竺・南蛮かくのごとくあるべし」と語り、また同年の関白・豊臣秀次(秀吉の姉の子、養子24歳、のち秀吉の命により自害)宛の書状では、「高麗(李王朝)の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与え、またわれ自身は北京に入ったあと、天竺や南蛮までを射程に入れて、征服のために寧波(杭州湾の現寧波市、モンゴル襲来時の江南軍10万人の出撃地)に移る」と言明しています。 さらに、唐入り成就後の構想では、「天皇には新たに良仁親王か智仁親王を、関白には豊臣秀保か宇喜多秀家を。高麗は織田秀信(信長の孫、12歳)か宇喜多秀家に。九州は木下秀俊(小早川秀秋)に任せる」とも。さらに「明の次はわれの指示を待つことなく天竺を攻めよ」とも。かくて約16万人を動員する軍事行動が発令されたのです。
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.. 2013年11月05日 09:00 No.641001