返信


■--礼華ニッポン(1)
++ 島田守康 (平社員)…141回          

今回は、八角墳の意味合いについて考えたいと思います。
本シリーズ第五回目で述べた「八角五段」の天武・持統天皇陵(野口王墓)ですが、初発の報道は昨年5月18日午前6時54分頃、NHKの近畿地方局で放映されたものです。その内容は先述したように「半世紀以上前に調査 公表せず」と宮内庁の隠ぺい体質を批判するものでした。宮内庁は「詳細な図面がないところがあり、中途半端な公表は混乱を招く恐れがあるので公表を控えて来た」と釈明してきたのですが、約1年の検討期間を設けて今年5月24日、この陵墓は「八角五段」であることを認める調査記録を公表しました。調査初年の昭和34年(1959年)から数えて、実に54年ぶりの出来事です。

ただ、私が今年の報道で気になることは、単に特異な形を伝えるだけで、天武天皇のクーデターや日本国の建国についての考察には何ら及んでいないことです。「武」を忌避した戦後の“濁った目”からは、この天武・持統天皇陵の真の建造理由は見えてきません。

また、その形の解釈において、これを「ストゥーパ(仏塔)のような観を呈していた」(宮内庁調査報告書)とありますが、大化の改新(646年)における崇仏派の蘇我氏の滅亡などを考えると適正な解釈とは、とうてい考えられません。なぜなら、壬申の乱(672年)は、この大化の改新や白村江の戦い(663年)の延長線上に起きた事件であり、新政権は外来唐風の思想やそれを肯定する史料を一掃・刷新して新たな国づくりを目指したものだからです。両事件を通じて多量の古文書が失われたことは『古事記』『日本書紀』編纂のキッカケになったのであり、それに先だって『帝紀』や『墓記』などの編纂があったものの、これらも現存していないことは、いかに混迷を極めた戦乱時代であったかの証左であるわけです。

とにかく、天武・持統天皇陵は今までにない全く斬新で奇抜な「新生日本」の発展を後世に伝えるビッグ・モニュメント(大記念碑)であり、シンボルだったのです。

歴史学者の倉西裕子氏(50歳)が下記のネット文章「政治権力と八角形(八角形の古墳の意味は何?)」で、この「八角形」には「世を救う“救世”の意味が込められている」と指摘していますが、重要な指摘で、「神=救世」という概念が理解できない限り、八角墳の理解は一歩も進まないことになります。
.. 2013年10月27日 08:40   No.634001

++ 島田守康 (平社員)…142回       
また、この中で彼女は「アルシノエというクレオパトラ7世の妹で、一時プトレマイオス13世とエジプトを共同統治した女性の墓も八角形である」と述べていますが、この「八=米」の墳墓形体は、日本特有とかアジア特有といったものではなく、「神権威」の王権を示す世界共通のメルクマール(指標)なのです。

このアルシノエについては、4年前の平成21年(2009年)8月2日にNHKのスペシャル番組で紹介されました。タイトルは「エジプト発掘 第3集 クレオパトラ 妹の墓が語る悲劇」です。当日の映像は現在、中国人のブログで見ることができます。八角墳の映像はスタート間もなくと20分後に出てきます。

   ▼NHKスペシャル番組の動画(50分) こちら

姉クレオパトラ(BC69年〜30年、享年39歳)と年違いの妹アルシノエ(BC未詳〜41年 享年16〜27歳?)の確執・抗争のドラマについては番組を見て頂くことにして、概要はローマ帝国と同盟を考えた姉クレオパトラに対して妹アルシノエはエジプト一国の独立を目指し、一時はアルシノエが女王位に就いたものの、クレオパトラの逆襲、意向を受けて毒殺されたというものです。

ところで、「八角五段」の天武・持統天皇陵の大きさは東西約58m、南北45m、高さ9m、一方のアルシノエの墓は「八角三段」に円柱を建てた高さ15mと、かなり大きいものであったことが判りました。また、この墓は当時アレキサンドリアのリラにあった、地球上で二番目に高い建物「ファロスの搭」(高さ134m、一番はエジプトのピラミッド146m)の三層構造のうち中層にあった八角形に倣ったものと言い、これは文化都市アレキサンドリアの「高貴な出自」を示すものと言います。また塔は「灯台」で、その頂点には鏡が置かれ、日中はこれに陽光を反射させ、夜間は炎を燃やして反射させていたと言います。

.. 2013年10月27日 08:45   No.634002
++ 島田守康 (平社員)…143回       
つまり、灯台に象徴されるように「高みの明りから人々を安全に導く」→「希望の光」であり、要するに「八角(=米印)」は「神権威による救世の希望の光」が正統な解釈なのです。残念ながら、「ファロスの搭」は1303年と1323年の地震で完全に崩壊したとのことですが、その片鱗がクレオパトラの妹の墓という形でトルコ西部の古代都市エフェソスに2000年間も残っていたわけです。

わが国の1300年前の天武・持統天皇陵と言い、吉野ケ里遺跡の「変形八角墳」と同時期の紀元前後2000年のエジプト女王だった妹アルシノエの墓と言い、ともに長い眠りから「八=米」の真実が目覚め始めた感じです。持論を根拠づける歴史的発掘が相次ぎ、私にとってこんな嬉しいことはありません。

女王クレオパトラの墓と骨は、まだ未発見とのこと。これから、どんなディスカバリーがあるか楽しみです。

※コインは当時流通していたクレオパトラ像とのこと。アルシノエの八角墳の写真はネット上に現在のところ見当たらず。

(^-^)M・S

.. 2013年10月27日 08:53   No.634003
++ 島田守康 (平社員)…144回       
今回は徳川家の八角墳墓について述べたいと思います。

ご承知のように、朝廷の権力、権威は鎌倉時代の元寇襲来以後、武士に転化し、南北朝、室町戦乱から、ホップ(天下布武)=信長、ステップ(朝鮮出兵)=秀吉を経て、ジャンプ(天下統一)=家康に於いて戦乱に終止符が打たれて、平和の時代を迎えることになりました。

徳川家康(1542〜1616年、享年74歳)は臨終に当たり、次のような遺書を残したと言われます。
「遺体は駿河の久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺にて行ない、位牌は三河の大樹寺(先祖代々の菩提寺)に立て、一周忌を過ぎて以後、日光山に小さき堂を建て、勧請せよ。神に祀られることで関八州の鎮守になろう……」と。

日光山は栃木県の日光市にある輪王寺の山号で、関東最大の宗教的霊場です。そして、ここ日光東照宮の「東照」とは「東の天照大神」という意味で、朝廷の守り神である天照大神に倣い、家康を東国の天照として神格化した命名です。陰陽道では、紫微宮(北極星)には天帝が住み、そこから生命を司る力が流れ込むと言いますが、天照=天帝となった家康は、江戸の北方にあって、江戸とその幕府の鎮守神になろうとしたのです。

日光東照宮は、最初に遺体が埋葬された久能山からは、「不死の山」と称された富士山越しに結ぶライン上にあります。さらに久能山から方角を西方にたどると、出身地の三河(愛知県岡崎市など)の大樹寺(家康の位牌建立)にぶち当たり、さらに西方に線を引っ張ると、そこには何と京都にまで一直線で繋がっているのです。

この京都までの線は、朝廷の御所の本意に繋がっているとも、あるいは前敵・秀吉を祭る豊国神社からの「邪気」をガードする配置になっているとも言われます。

その真偽はともかく、日光東照宮⇔久能山⇔京都という三角関係の壮大な構想は、今日の上空から俯瞰するコスモロジー(宇宙学)によってしか確認できないのですが、埋葬地の遺言所が400年も前に、かくも意識的に正確に特定されていたとは誠に驚くべき事柄です。“知恵袋”と称された天海僧正(1536年?〜1643年、享年107歳?)の深謀さに脱帽するほかありません。

.. 2013年10月29日 09:53   No.634004
++ 島田守康 (平社員)…145回       
さて、徳川家康の墓地ですが、東照宮内に「八角九段墓(高さ5m)」があります。この「八角」は、まさしく天照大神の御神体「八咫鏡(やたのかがみ)」の「八葉連弧文」そのものを体現したもので、朝廷の「天照」に為り切っていたことが、これで窺えます。

二代目秀忠以降の将軍は15代の殆んどが「神君・家康」に倣い、菩提寺の増上寺(東京・港区芝公園)に葬られたのですが、例外として二人の人物がいます。一人は東照宮の建設に尽力した三代目の家光で、墓は日光の輪王寺(八角墳)に、そして最後の慶喜(よしのぶ)は上野の寛永寺に葬られています。

印象的なのは、増上寺内の将軍墓はどれも三段から八段の「八角基壇」になっているのに、15代慶喜の墓は一般人と同じ墓域内に円墳がひっそりとたたずんでいるだけです。理由は、「華族の最高位である『公爵』を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表わすために、葬儀を仏式でなく神式で行なうよう遺言を残したため」と言われますが、果たしてどうでしょうか? 私が40年ほど前に見た印象では、門も記念碑もなく「打ち捨てられた」感じでした。敗軍の将の憐みを感じたものです。

浄土宗大本山・増上寺は昭和20年(1945年)の米軍の東京大空襲で全焼し、墓稜も失われたとのことです。しかし今日、増上寺の裏側の「徳川将軍家霊廟」内に2代、6代、7代、9代、12代、14代家茂の6人の将軍のほか、正室5人、側室5人、その他将軍の子女など計38人が祭られています。午後4時までに行くと、将軍墓の痕跡を見学できます(拝観料500円)。



ここで王権のことを考えてみると、王権は400年前からは武門の頭領・徳川家康に切り替わったのであり、その後の子孫が日本の歴史上、最も長い平穏の時期を現出させました。「泣くまで待とう ホトトギス」「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず」などの格言は、幼少時から人質になって人一倍の苦労をしてきた家康ならではの言葉だけに、実に味わい深いものがあります。「神君・家康公」の再評価が、必要かと思います。



※東照宮は、平成11年(1999年)に世界遺産に登録されています。



(^-^)M・S

.. 2013年10月29日 10:05   No.634005
++ 島田守康 (平社員)…146回       
昨日、石研の『永久平和』誌の最新号(第126号)が、発行されました。今号のアウトラインは、添付の巻頭言と編集後記のPDFをご覧下さい。今号の特集も、前号に引き続き武田邦太郎・最高顧問(元参議院議員、99歳)への生前インタビューです。

今回の「忘れ得ぬ人々」の登場人物は、シベリアに11年余年も抑留された伊東六十次郎(むそじろう)・満洲国大同学院教授(89歳)、蔣介石側と石原将軍の書状の仲介者だった稲葉正三氏(生没年不詳)、石原将軍のボディガード役でもあった●寧柱氏(87歳)、柔道の達人・牛島辰熊氏(81歳)、極真空手の創始者・大山倍達氏(71歳)、東亜連盟同志会の会長だった和田 勁氏(62歳)、満洲国建国大学教授だった中山 優氏(78歳)、参謀本部作戦課班長だった辻 政信氏(57歳)の計8名です。

本号からは、岩崎章次・副会長(68歳)の「昭和天皇の御製 ――その時、石原莞爾は」という昭和天皇の御製と石原将軍の時代的動きがどう関連するのか、の新連載も始まりました。また宮城県石巻市の眞山文子さん(95歳)からの投稿原稿を、今月も掲載させて頂きました。

なお、東亜連盟協会時代に活躍された青森県の原子昭三氏が先月9月3日、逝去されたことを現代史研究家の田中秀雄氏(61歳)がお知らせしてくれました。私は原子氏(享年86歳)の最後の著作となった一昨年発行の『義に生きた北の先人達』(自費出版)が送られてきた際、御礼の電話を入れて話をしたのが「最初で最後」となりました。ともて張りのあるお声で、とてもお元気そうだったのに「早すぎる死」に驚いています。

以下に、原子氏の略歴を載せて、ご冥福をお祈りしたいと存じます(ウィキペディアより)。

昨日、ドイツのハンブルク大学客員教授の仁科悟朗先生(79歳)から、原発問題の原稿が届きました。とても良い内容なので、次々号より連載の予定です。

(^-^)M・S

.. 2013年10月29日 11:28   No.634006
++ 島田守康 (平社員)…147回       
昨日、石研の臨時幹部会&忘年会が10名の出席を得て、東京・市ヶ谷の私学会館で午後2時から開かれました。

今回の会合は、新年度の活動方針に向けての各自の意見を集約して、大体の方向性を決めようというものでした。当日、決まったことは以下のような事柄です。

@新活動方針を策定するに当たっては、8年前に私どもが武田邦太郎先生(元参議院議員、享年99歳)に生前インタビューしていた「平成革新論への一考察」があるので、熟読して各自「私案」の参考に供してもらうこと。

A武田先生の「忘れ得ぬ人々」の原稿3回目は『永久平和』誌に来年の1月に載せてシリーズが終了すること。

Bそれ以降の特集は、ドイツから帰国されたハンブルグ大学客員教授の仁科悟朗先生(79歳)の原稿「日本とドイツから『永久平和』を考える ――災害と今日の我々」を載せること。

C4月発行の『永久平和』誌に仁科先生の第一回目の原稿が載った翌月5月の総会当日に、仁科先生の記念講演会を行なうこと(日時、場所は来年に決定)。

D『永久平和』誌には幅広く、会員の活動や意見を載せること。そのための広報活動を行なうこと。

以上のほか、細かい意見も出されましたが、省略させて頂きます。

当日は、近現代史研究家の野村乙二朗先生(83歳)から、現在、研究されている東亜連盟協会の有力な活動家だった渕上辰雄氏(享年72歳)の内容紹介と「史料紹介 渕上辰雄の宣撫班『派遣日記』」の提供(第四回から六回分)がありました。「満洲事変は日中戦争ではない」との時代考証のお話は、「全くその通り!」と共感できるものでした。

また、日本ヨーガ学会の会長・田原豊道氏(87歳)からは、ご自分が訳された著書『道』(2006年刊)の紹介と著書の贈呈がありました。著者のナルチゾ・カバッツォラ氏は、北海道の中標津(なかしべつ)カトリック教会の神父で、イタリア人です。推薦の言葉に、昭和11年(1936年)の2・26事件で暗殺された渡辺錠太郎・教育総監(大将、享年61歳)の娘・和子さんの言葉も載っています。目次だけ添付します。田原先生の宗派を超えた取り組みには、脱帽です。

前回ご紹介した青森県の原子昭三氏(享年86歳)ですが、私が「沢山の著書を出されている先生のことですから、石原将軍の文章も是非お願いします」と言ったところ、「とてもじゃないが、畏れ多くて書けないよ」とおっしゃっていました。

前回のメールに『永久平和』の巻頭言と編集後記のPDF添付を忘れましたので、今回お送りします。

なお、ワシントン在住の繆斌(ミョウヒン)のお孫さん、繆亮(ミョウリョウ)氏(46歳)から本日、PDF全頁を送った返礼として下記のような文面が送られてきました。

島田守康様,

Thank you very much for sending me this latest edition of 『永久平和』
magazine in PDF format.

I have been enjoying your daily e-mails, I really appreciate that my
Japanese friends remember my grandfather’s effort to end war in 1945.

I am doing well, just very busy with the work and kids, I have been
considering writing about my family from my own point of view, just feel
difficult to get it started.

Sincerely

Leon

(^-^)M・S

.. 2013年10月30日 10:06   No.634007
++ 島田守康 (平社員)…148回       
今回は、徳川家最後の将軍=15代・慶喜(よしのぶ)についてご紹介します。

徳川宗家からは「当家を滅ぼした“敗軍の将”」として、墓跡に見るように菩提寺である増上寺の外に放り出され、伝統である「八角墳」ではなく唯一の「円墳」になったわけですが、これは「王政復古」、即ち明治から王権は、確かに朝廷に復帰したことになります。

しかし、復権した王朝=皇室も、明治天皇の京都市伏見区の墓(伏見桃山陵)からは上円下方の「円墳」となり、本来の王権のシンボルである「八角墳」は忘れ去られたままです。江戸時代の朝廷の墳墓形式は、歴代ずっと仏教が影響した「石造九重塔」でした。

徳川慶喜(1837年〜1913年)は、ご承知のようにペリー来航をキッカケに始まった幕末動乱の渦中に、14代家茂(いえもち、20歳)が急死して、引き受けざるを得ない立場に置かれ(30歳時)、しかも御三家の中でも「ざいご(田舎者)」水戸出身ということで、そのかじ取りは大変難しかったものと思われます。戊辰戦争(1868年)の敗北後、江戸に逃げ帰って恭順、謹慎して将軍職を解かれることになります。在職期間は、ちょうど1年間でした。

薩長から「首を斬るべし」との声があった中、開国に理解があり、朝廷と縁が深かったこと、それに政治的野心の無かったことが助命につながり、明治維新後は「駿府」から「静岡」に変更となった「初代・家康公」のお膝元に居住し、写真・狩猟・囲碁・謡曲などの趣味に没頭する余生を送りました。享年76歳の生涯は、歴代将軍の中での在職期間は最短、しかし寿命は最長命であったと言われます。

私が同人誌『まほろ』(1999年刊)に掲載した記事は、この隠居生活に垣間見れた食の一場面のことで、タイトルは「『最後の将軍』徳川慶喜は、玄米パンの愛好者だった!」というものです。記事の内容(P8分)は、下記の小見出しで想像して頂ければ、と存じます。

 ・将軍から市民へ降った「悲劇の将軍」
 ・侍女たちの懐古談で私生活が明るみに
 ・後半生は、人目を避けた隠居生活
 ・「将軍御愛用」の玄米パン
 ・パンの歴史から漏れている玄米パン
 ・徳川慶喜年譜

この記事を書く際、隠居中の慶喜公(明治35年の1902年に公爵に叙位)の趣味の一つである写真を拝見しましたが、その腕前はなかなかのものであると感心した次第です。書や絵画などの腕前も一流で、その才能は父親が水戸藩の熱血藩主・斉昭(なりあき)、母親は朝廷から降嫁した有栖川宮吉子から来ていると思います。妻は朝廷の一条家から、ここで父・斉昭の「文武両道」の書と慶喜公6歳時の書、隠居中に描いた油彩画、死の2ヵ月前の生前最後の写真も添付します。

.. 2013年10月31日 11:37   No.634008
++ 島田守康 (平社員)…149回       
ところで、「日本」建国の父である大海人皇子(のちの天武天皇)は、壬申の乱(672年年)の際に、神武陵に使者を送って挙兵を報告したと言います。『日本書紀』には天武天皇元年(672年)7月に、大海人皇子陣営内にいた高市県主・許梅(コメ)に、出雲の事代主が憑依して「神日本磐余彦天皇の陵に馬及び種種の兵器を奉れ」と書かれていると言います。

神武天皇は『古事記』には137歳で亡くなり、御陵は「在畝火(うねび)山之北方白檮(かし)尾上也」、『日本書紀』には127歳で亡くなり、「葬畝傍山東北陵」と記載されています。平安時代の『延喜式』(927年)には「畝傍山東北陵 在大和高市郡、兆域東西一町、南北二町、守戸五烟」とあり、しかし中世以後にはその所在が全く判らなくなってしまったと言います。

そして長い空白期間ののち、徳川時代になって、「天下の副将軍」水戸光圀が『大日本史』の編纂を始めたのち(1657年)、幕府は元禄時代に陵墓の調査を始め、その時に神武天皇陵に治定したのが、畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳だったとのこと。しかし、神武田(じぶでん)というところにある小さな塚が有力という説に従って、幕末の文久3年(1863年)にはミサンザイに変更したとのこと。そのため当初の福塚は現在、第2代綏靖天皇陵に治定され、現在地は神武天皇稜も、綏靖天皇稜も、ともに奈良県橿原市大久保町に。

現在、宮内庁は神武天皇陵の陵形は「円丘」と公表していますが、「現陵は現地にあった二ヶ所の小丘を繋ぎ合わせた八角墳で、径約33m、高さ約6mの規模で,東西約126m、南北約116mの濠で囲まれている」と表記するネット上の指摘もあり、その真偽は定かではありませんが、天武・持統天皇陵が「八角五段」のビラミッドであったのは、私はまさしく神武天皇陵に倣ってのことと思います。何しろ、第40代・天武天皇は家臣の憑依霊に従って戦勝を祈願し、そのとおり勝利して、それを祝福し後世のために、わざわざビッグ・モニュメントを造成したわけですから……。

ともかく、久しく途絶えた王権を復活させたのは、初代・徳川家康です。家康こそ「王権の中興の祖」と言うべきで、「神君」と称されたほどの人物と徳川家の足跡を、私たちは忘れてはならないと思います。

(^-^)M・S

.. 2013年10月31日 11:46   No.634009
++ 島田守康 (課長)…150回       
王権が復権した徳川時代ですが、それ以前から兆候が無かったのかと言えば、ありました。ホップ役の信長で、人物やお墓にというより、それは建物にありました。

ご承知のように、織田信長(1534年〜1582年)は、日本で最初に天守閣を備えた幻の名城「安土城」を築城したことで知られています。琵琶湖東岸の安土山(標高200m、住所は滋賀県近江八幡市安土町)の山城で、地下1階地上6階建て、天主の高さ約32m、「天下布武」を象徴する独創的な意匠で絢爛豪華な城であった、と推測されています。

現在と違い、当時は湖が近くに迫り、港からはその威容が、すぐ望めたようです。総普請奉行に丹羽長秀を据え、天正7年(1579年)に完成した天主閣には信長が起居し、家族も本丸付近で生活し、家臣も山腹や城下の屋敷に居住していた、と言われます。
完成から3年後に起きた天正10年(1582年)6月、家臣・明智光秀による信長への謀反=本能寺の変によって安土城は焼失し(諸説あり原因不明)、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみとなっています。謀反の原因は、5月15日に明智光秀(推定55歳)が徳川家康(41歳)を饗応した際、俗説では光秀の接待内容に不満を覚えた信長(49歳)が、小姓の森蘭丸(17歳)に命じて光秀の頭をはたかせた、とされます。

その真因は、私は朝廷をもないがしろにした信長の冷酷無比な「魔王ぶり」にあったと思っていますが、それは連歌会での歌に暗示されていると思います。5月28日、信長の命令で安土城に次ぐ豪壮さの自陣・坂本城を出陣した光秀は愛宕神社に参詣、翌日、神社で一流どころを呼んで連歌会を開きました。光秀は発句を、こう詠みました。
「時は今 雨が下(した)しる 五月哉(かな)」
“時”は明智の本家“土岐”氏。“雨”は天(あめ)。つまり「土岐氏が今こそ天下を取る五月なり」。

.. 2013年11月02日 07:17   No.634010
++ 島田守康 (課長)…151回       
これに出席者の歌が続きます。
「水上まさる、庭の松山」西ノ坊行祐(僧侶最高位)
“みなかみ”=“皆の神(朝廷)”が活躍を松(待つ)
「花落つる、流れの末をせきとめて」里村紹巴(連歌界の第一人者)
“花”は栄華を誇る信長、花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい
「風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮」大善院宥源(光秀の旧知)
信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ)

明智光秀には、「あえて謀反者となり“魔王”を討つ」覚悟が出来ていたのだ、と思います。

ところで、安土城には、それまでの城には全くない5階目に「八角円堂」のあったことが知られています。しかし、これに反対する意見もあります。その理由は、加賀藩の大工であった池上家に伝わってきた「天守指図」は、「江戸時代中期に作られた推定復元図にほかならず、ゆえに全く価値の無い物」「当時の城郭は中国の高楼に倣って“十字形八角平面”が圧倒的な主流を占めていた」というものです。

しかしながら、信長が伴天連(キリスト教の俗称)の影響を受けて、当時、最先端の鉄砲の受容から服装の革命まで、今までの日本の制度・習慣をすべて刷新して天下を狙おうと、自らを「第六天魔王」と呼んでいた「わが国歴史上最大の破天荒な革命児」という認識に立つなら、従来の常識的な通説など吹き飛んでしまうでしょう。

私は、「八角円堂」と安土城に関する解釈は、「大聖堂のドームだった」という説を最有力視しています。その説を下記(茶色で表示)に紹介しますが、ここで、それを補足する持論を展開しておきます。

英語で「Dome(ドーム)」は半円形をした形を表わしますが、これは「∩」形をした「Arch(アーチ)」と同義で、持論の「八」の頭が繋がった変形体です。一般的に言う教会の「Church(チャーチ)」は、この「Arch(アーチ)」と語尾で繋がっています。「Arch(アーチ)」とは、建築の「Architecture(アーキテクチャー)」の語幹になっており、芸術の「Art(アート)」や地球の「Earth(アース)」も同義の語彙を形成しています。

.. 2013年11月02日 07:27   No.634011
++ 島田守康 (課長)…152回       
つまり、語幹の「Arch(アーチ)」は、「首位の、第一級の、最古の大切なもの」「永遠不滅の柔軟かつ硬構造」という最上級の意味を持っており、それは「失われし聖櫃(せいひつ)」の「the Lost Ark(アーク)」とも直結しています。

要するに、バチカンの大聖堂を真似た「八角円堂」付き安土城は、欧州の教会様式を日本風にアレンジした初の「宗教城郭」だった、と言えるのです。

なお、信長の遺骸ですが、以前にお伝えしたように、今年になってデスマスクの存在することが子孫から初めて公表されました。家来の黒人「弥助」が本能寺外に信長の首を持ち出したとのことで、一方、「信長のお墓」と称するものは全国に20箇所もあると言われます。中でも、阿弥陀寺(京都市上京区寺町通)が最も有力視されています。

その理由として、次のような逸話が伝わっています。織田家と深い親交があった阿弥陀寺の清玉上人が本能寺の変の際に、襲撃をいち早く察知して本能寺に駆けつけて、すでに遺骸となった信長の遺骨を本能寺裏の藪で荼毘に伏して、僧衣に隠して脱出し、当寺に埋葬したと言うのです。光秀が捜しても信長の遺骸を発見できなかったのは、そのためと伝えられます。

また秀吉が、信長の一周忌を執り行なおうと、清玉上人に遺骨の引き渡しを懇願したところ、秀吉の信長亡き後の織田家乗っ取りの振る舞いに「人の道に在らず」と承服せず、断られた秀吉は怒って、新たに大徳寺に総見院を造営して、追善供養には遺骨の代わりに信長の木像を作って棺に納めたと言います。

阿弥陀寺の墓所には、信長・信忠(25歳)父子の墓のほかに、本能寺の変で討ち死にした家臣・森蘭丸ら12名の家臣の墓があると伝えられています。一方、羽柴秀吉(推定47歳)、即ち天下人となった豊臣秀吉は、寺領の大半を没収する処分や現在地に場所を強制的に移転させるなど、阿弥陀寺に対しては生涯、牙を剥き続けた、と言います。


なお、安土城は現在、三重県伊勢市の「伊勢・安土桃山文化村」に復元されています。なぜ滋賀県ではなく三重県なのかとの理由は、安土城跡が国の特別史跡に指定されたため当地に建てられず、民間企業が今から20年前の平成5年(1993年)に、総工費300億円をかけて開業したとのこと。

.. 2013年11月02日 07:47   No.634012
++ 島田守康 (課長)…153回       
うち安土城本体に70億円をかけたそうで、本格的な造りでなかなか立派なものです。交通は近鉄線・鳥羽駅から無料送迎バスで約20分(1日1本のみ) 。年中無休。入場料3900円。住所は、三重県伊勢市二見町三津1201-1 。

また、滋賀県近江八幡市にある「 滋賀県立安土城考古博物館」(茶色4階建)と「安土城天主 信長の館」(水色2階建)の建物は、ともに上部に八角堂を設置したモダン建築です。安土城の特徴をよく活かした至当な造り、と思います。

(^-^)M・S

.. 2013年11月02日 08:21   No.634013
++ つちかべ (幼稚園生)…1回       
安土桃山末期、江戸初めの1604年に、ポルトガル人のジョアン・ロドリゲスが、日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きます、秀吉の知遇、さらに家康の外交顧問もしていました。当時、スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝えられてきた古代史で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され、続いて慶雲以後の大倭年号が続きます。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません、「日本大文典」の実物を手にとって見てください、感動すること間違いありません。    宜しくお願いします。

.. 2014年01月05日 08:25   No.634014


▼返信フォームです▼
Name
Email
ホームページ    
メッセージ
( タグの使用不可 )
Forecolor
アイコン   ICON list   Password 修正・削除に使用