返信


■--凛美ニッポン
++ 島田守康 (大学院生)…121回          

昨日の米「スミソニアン博物館」には特攻機、「桜花(おうか)」も陳列されていることが記述されていました。戦争末期、零戦も紫電改も、そして戦艦大和も悲しき片道切符の特攻作戦を強いられたのでした。

乗員となった方々のご冥福をお祈りすると同時に、遺書は、どれも涙なくしては読めません。それこそ「大敗北の悲痛な体験は、もう二度とあってはならない」と強く感じます。

7月には京都府の比叡山の山頂付近(800m)に「桜花」の秘密基地があった写真やスケッチが、古書店で見つかったとのニュースがありました。「桜花」は、まさしく有人のジェット特攻機で、別名「人間爆弾」として知られています。昭和20年(1945年)から実戦配備され、終戦までに755機が生産され、55名が特攻戦死した、と言われます。

当初、航空母機に搭載され、切り離し後はパイロットの誘導で艦船に突っ込む特殊特攻機として生産されましたが、航空母機が不足する状況から一転、本土決戦に向けて陸上基地からの発進が計画され、全国の山地に配備が予定されていた、と言います。この比叡山山頂のものも、そのうちの一つであったわけで、米軍接収前の写真やスケッチが発見されたことは大変貴重なことだ、と言います。

「桜花」はドイツのミサイル無人兵器「V1」からヒントを得て開発されたそうで、あの垂直型でロンドン爆撃を行なった垂直発射ミサイルは「V2」のほうです(V1も安価なので多数発射されたとのこと)。日本ではどうして無人ではなく有人になったのか、それは命中率の観点からの採用ということですが、軽装の零戦などと同様、それは当時の日本の人命軽視を如実に示す実例です。

ともあれ、われわれはこうした歴史の事実に目をそむけることなく、ちゃんと記録して行くべきと思います。8月には、特攻艇「震洋」の模型や写真を集めた資料館が、訓練所のあった長崎県川棚町に開館したニュースもありました。

「桜花」はアメリカの博物館だけでなく、日本の博物館にも実物展示し、脳裏にしっかり刻み込むべきと思います。

(^-^)M・S
.. 2013年10月01日 13:28   No.618001

++ 島田守康 (大学院生)…122回       
「国慶節 滑稽チャイナ 赤裸々に」――、毎年、この日に私は中国批判を繰り広げているので、今回はせめてもの罪滅ぼしにと、中国の芸術面の画像を論評抜きでお送りします。

下記写真は、サンケイフォトから。撮影時期は上位ほど新しいものです。添付写真のほうは、ネットから。

(^-^)M・S

.. 2013年10月01日 13:49   No.618002
++ 島田守康 (大学院生)…123回       
中国の話題の続き……。日本財団の笹川陽平会長は、自身のブログに、たまに「中国の小話」として当地で揶揄(やゆ)されている面白話を紹介してくれていますが、今回はその中から厳選した一部をご紹介します。

この小話には、中国の実態の一端が浮かび上がっているように思います。中でも、「その4」に出てくる人物は、以前触れたように、訪日時に知人が直接関わっただけに、感慨深いものがあります。

(^-^)M・S

.. 2013年10月03日 10:11   No.618003
++ 島田守康 (大学院生)…124回       
お笑いの続き……。このところの発信メールで反響の多かったのが、川柳でした。ので、以下に新たな川柳を掲載します。

以下の五句は、今年の第13回シルバー川柳から……。

  「耳遠く  オレオレ詐欺も 困り果て」

  「お迎へと 言うなよケアの 送迎車」

  「骨が減り 知人も減るが 口減らず」

  「白内障 術後びっくり シミとシワ」

  「期限切れ 犬にやらずに オレに出す」

  「老い支度 自虐の一句で 笑いの輪」

次の二句は、さいたま市の社会福祉協議会の機関誌『ぽけっと』から……。

  「紙とペン 探してる間に 句を忘れ」

  「改札を 通れずよく見りゃ 診察券」

次は、私めの駄作……。

 @ 「還暦や 耳にこたえる ジィジィ音」

 A 「墓地墓地と 急がせるなよ ボチボチと」

 B 「加齢臭 カレーのせいと 言い訳し」

 C 「おもてなし ろくでなしには 無縁だね」

 D 「安倍総理 8パーセント エイトマン」

 E 「ノウ天気 ボケッとしては いられない」

 F 「ガクンから ガタンとなって バタンなり」

 G 「今日から ピンピンコロリ 頑張るぞ」

どうぞ、みなさんの秀作をお寄せ下さい。

(^-^)M・S
画像

.. 2013年10月04日 12:08   No.618004
++ 島田守康 (大学院生)…125回       
本日、日本財団の笹川陽平会長から「中国の小話」の最新版が送られてきましたので、下記にご紹介します。

笹川会長の指摘によれば、中国の現政府の歴史認識の起点が170年前の「アヘン戦争」から始まっているとのことですが、それが本当なら、この欧米日列強(ことに英国)との敗北の劣等感から外交姿勢が出来ているとすれば、あの、いつも顔が引きつって会見する報道官の顔も、笑って見ていることが出来るわけです。

香港返還を記念して作られた国威発揚映画『阿片戦争』が16年前(1997年)に出来上がった時、実は、私は中国大使館から招待された共同通信記者(総理官邸詰めキャップ)と共に大使館内で観賞したことがあります。清朝の欽差大臣(皇帝の勅命を受けた全権特使)、林則徐(65歳)を主人公としたこの映画は、中国全土で放映され、中国のインテリで知らない人はいないと思います。

言うまでもなく、この林則徐は清廉潔癖な「正義の味方」の英雄として描かれているわけですが、これとは真逆の現中国政府の傲慢な外交姿勢は、経済力がアメリカを抜いて世界一になったことによるものです。しかし、その「徳抜きの成り上がり」ぶりは頂けません。そこで、私は歴代指導者と現中国を次のような川柳で揶揄してみました。

  「猛卓頭 から頭小兵 小人族」

  「秀恩来 国交開き 親日で」

  「親日を 途絶させたよ 国禁頭」

  「恩下放 家宝忘れて アダ返し」

  「集金平 利権特権 金まみれ」

  「中華族 横柄極め 大禍賊」

  「尖閣の 威嚇野心の ブーメラン」

  「成り上がり 雲散霧消の 中国夢」

  「世界から 徳なしチャイナ 見放され」  

(^-^)M・S

.. 2013年10月05日 06:23   No.618005
++ 島田守康 (大学院生)…126回       
前回メールで、最も大事な川柳を掲載するのを忘れてしまいました。余りに頭に残っているもの(怒りゆえ)で、それは次のようなものです。

「紅託民 最悪政治 お前だよ」――、「紅託民」とは言うまでもなく「江沢民」のことですが、この人物は現在87歳、天安門事件(=六四事件、1989年)後の1993年から10年間、国家主席に就いた人物です。彼は天安門事件をめぐり、その直後からライバルだった民主派の趙紫陽・総書記らを自ら蹴落とし、国家中央軍事委員会主席から国家主席に昇りつめた人物です。

ご承知のように、天安門事件は未だに死傷者数が公表されず、事件そのものの報道も一切なされておらず、まさしく「見ざる、聞かざる、言わざる」の三ザル状態が続いており、ゆえに若者でこの事件を知る者は殆んどおらず、当時の民主化を推し進めた活動家の多くが海外に逃避したわけです。国家安全省は「外国の空気を吸った者は危険」として、特に現在、朱建栄・東洋学園大教授(56歳)を血祭りに上げて、在日留学生や知識人に圧力を加えていることは、ご承知のとおりです。

その起点は、まさしく江沢民が国家主席に就任した翌年1994年から始まった「愛国主義教育実施要綱」にあります。「抗日戦争勝利50周年」に当たったその翌年からは、徹底した反日教育の「愛国無罪」を推進、同年9月3日に北京で開催された「抗日・世界反ファシスト戦争勝利50周年大会」では、「日中戦争の死傷者数は3500万だった」と演説しています。これは10年前の抗日勝利40周年の中国共産党が発表した2100万より1400万人も上乗せした数字です。

天安門事件も文化大革命も犠牲者の人数、氏名を何ら把握できていない者が、一体何の根拠に基づいて算出できたというのか? 笑止千万も甚だしい。南京事件にしても、私は中国のある学者が住民台帳を基にして弾き出した「総殉難者」数最大約8万人が妥当と見ていますが、20万人(東京裁判時)、現在30万人などという数字は全く取り上げるに値しない、ダテラメ数字です。ましておや、上記の架空超水増し数字など……。日中歴史共同研究の日本側の論文「最大20万人、4万や2万人の推計もある」との、何とも自信の無さの表記には呆れるほかありません。

江沢民は、1998年からは「日本に対しては、台湾問題をとことん言い続けるとともに、歴史問題を終始強調し、しかも永遠に言い続けなくてはならない」と外交当局者、海外在留大使に指示を出しています。また靖国神社参拝にも断固反対の立場をとり、靖国神社を毎年参拝した小泉純一郎首相とは極力首脳会談を行なわず、靖国の問題化をも強力に推進して来ました。

.. 2013年10月07日 09:30   No.618006
++ 島田守康 (大学院生)…127回       
江沢民時代に創られた抗日博物館は210箇所以上とされ、TVでは「“鬼子”日本兵殺害」オンパレードの抗日ドラマを毎晩放映、かくて昨年は大規模な反日デモに発展したわけですが、では何故に江沢民は強力な反日政策を推し進めて来たのか? いや、推し進めざるを得なかったのか? それは父親が日本兵に殺されたという個人的理由があるにせよ、一方で「●小平の改革開放路線を継いで中国を経済大国に導いた」反面、大量に作り出された格差社会の”下層階級” 、つまり人民大衆の自国政府への不満を緩和、反らすために強力な外敵をデッチ上げることが、一番都合が良かったからです。

すなわち、天安門事件で流された大量の自国民の血塗られた購(あがな)いの責任が自己に振りかかるのを恐れ、その不満のハケ口を日本民族にすり替え、隠ぺいしたわけです。その厚顔無恥ぶりに「平気の平左」でいられるのが中国人気質なわけですが、その罪は後世、きっと明かされて罰せられるはずです。彼らの顔の引きつった言動は、それこそウソを必死に糊塗する者に特徴的な現象で、あの人相の悪さは敗北の予兆を示しています。

1998年の11月に、江沢民は中国の国家元首として初めて来日しました。その時、「日本政府による歴史教育が不十分だから、(国民の)不幸な歴史に対する知識が極めて乏しい」と発言し、かつ今上陛下と当時の小渕恵三首相に対して過去の歴史への謝罪要求をし、その執拗さから日本国民の反発を買ったことは、まだ記憶に新しいところです。
また、この訪日の際に講演を行なった早稲田大学からの名誉博士号の授与を拒否しています。理由は、同校の創立者・大隈重信が首相時代に対華21か条要求を出したことだとし、江沢民はここでも歴史問題にこだわる姿勢を示しました。当日、私は聴講するため会場に行って申し込んだのですが、「事前申請だった」と聞かされ、「選ばれた者だけの内輪講演会」だったことを初めて知りました。当日の講演会写真が今日でもネットに出ていないのは、そのためですが、この時、大学当局から参加者名簿が事前に警察に提出された「早稲田事件」が発生しています。

ところで、中国には対話の出来る人物が居ないのかと疑問に感じますが そんなことはありません。ノーベル平和賞を受賞した天安門事件の民主化運動の元リーダー、劉暁波氏(58歳)をはじめ「〇八憲章」を起草し、賛同した303人の知識人などがいます。残念ながら当局の強力な言論弾圧によって彼らの活動は封じ込められていますが、解放されて彼らと交流ができれば真の日中友好は果たせると思います。

日中友好の破壊の元凶――、江沢民をわれわれ日本人は、それこそ「子々孫々」まで忘れてはなりません。

「日中の 戦犯一号 江沢民」

(^-^)M・S

.. 2013年10月07日 10:03   No.618007
++ 島田守康 (大学院生)…128回       
5日土曜日に発信した前回メールの「南京虐殺30万人」「犠牲者総数3500万人」を伝えるニュースが、産経新聞6日の日曜日版に載っていました。

米カリフォルニア州にあるソノマ州立大学構内に上記の文字を刻んだ石板が記念碑として設けられ、記念式典が開かれたというものです。主催したのは同州に本部を置く「世界抗日戦争史実維護連合会(通称「抗日連合会」、会長は同校の中国人教授)で、石板には「日本軍によって強制的に性奴隷となった女性たちと3500万人の犠牲者を追悼して」と記されていると言います。

まさしく韓国の反日運動とも一体化した動きで、この連合会は海外に約50の支部を持ち、2007年には米下院で慰安婦決議を実現させるなど、中国側の世界的反日運動の主導的役割を担う存在、と言います。

こうした事態が続くと、まさしく「虚偽」が「真実」にすり替わり、歴史認識の錯誤が起きてしまうわけですが、彼らがかくまで動き出す背景には何があるのか? 言うまでもなく「非人道行為→謝罪→賠償」と結局、お金目的なわけですが、さらに彼らの言動を覗きこむと、その心底が垣間見えます。

それは、彼らの 「第二次大戦後の秩序は維持されなければならない。それを覆そうとするいかなる試みにも反対する」という発言です。これは、謂わば戦後の国連常任理事国である地位が揺らいでいる証拠であり、その「戦勝特権」を失うようなことがあれば、中国は過去の実績一切が「元も子も無くなる」わけで、「存在感ゼロ」を恐れる余り、なりふり構わず「日本叩き」に邁進する姿が浮かび上がっています。

中国は米国を表面では敵視していますが、決定的な対立となると常任理事国の分裂となり、それを避けるため一方で「日本叩き」を示して米国のご機嫌を窺うという、小賢しい態度に出ているわけです(大人不在の証拠)。

海外のこうした中華人は、本国政府の超デッチ上げ情報も知らず、後世に誤った歴史認識を撒き散らしている馬鹿者=「豚頭」どもですが、それは悲しいかな、まるで下記「中国の小話」に出てくる豚の前世と同じに見えて来ます。

「豚足は 美味だが頭(トン)は 喰えないや」

(^-^)M・S

.. 2013年10月09日 10:46   No.618008
++ 島田守康 (大学院生)…129回       
前回は中国に「大人(たいじん)不在」を語りましたが、私にとって対中観の原点になった人が居ます。それは、毛沢東主席の主治医を22年間務めた李志綏(リ・ズィスイ)博士です。



昭和62年(1987年)、当時私が勤めていた国際自然医学会編集部の仕事で、森下敬一会長(お茶ノ水クリニック院長、現在85歳)との対談の場に於いてでした。森下会長は新疆ウイグルなどの「外国人立ち入り禁止」長寿地帯の調査に、中国医学会のトップである李博士による特段の配慮があって可能となったため、その返礼を込めた訪日招請でした。



この対談の前に、魯迅の記念碑がある仙台に行って来られたという李博士との対面場所は、新宿のセンチュリーハイアットホテルの懐石料理店でした。通常なら私はカメラマンのお役目なのですが、どういうわけか、この日ばかりは森下会長は私に横に座るように命じ、編集長がカメラマンの役を演じました。この時、森下会長59歳、李博士68歳、私34歳。



初対面で私が「主任」の名刺を差し出すと、李博士の初語は「(出迎えの)成田空港でもお目にかかりませんでしたし、昨日のイベントでも……」と語りました。私は「ええ、私はイベントの準備の裏方をやっている者ですから」と言いましたが、中国では「主任」の肩書きは日本と違って相当高いようで、「次代のホープか」と受け取けとられたのかも知れません。



対談では中国の衛生問題、日本の近代化の歩み、そして「一品を食べ終わって次が出てくる日本の料理と、一度に満艦飾に並べ立てる中国料理との違い」などに華が咲き、酒の酔いと共に満面笑顔の宴となりました。そしてお二人の話がピークに達した頃合いを見計らって、私が「李先生、単刀直入にお伺いしますが、文化大革命って、一言でいって何だったんですか?」と聞きました。すると、今まで満面の笑顔だった李博士の表情が瞬時に凍りつき、時間が止まったのです。箸を持ったまま、本当にみなの「時間が一瞬止まった」のです。これは本当です。この気まずい空気を察した、同時通訳で当時ナンバーワンと言われた慶大の佐藤先生が、自ら話題を変えたのです。


その機転により、みなフッと肩の荷が下りたように緊張感が解けて、別の話に戻ったのですが、「まずいことを聞いてしまったな」との思いは私の心にずっと残り、生涯忘れられないシーンとなりました。別れ際も、印象的でした。李博士はホテルにそのまま泊ったのですが、私たちがタクシーに乗り込む際、握手をしました。この時の温かくて深みのある手から、私は中国と日本は歴史的にも風土的にも10倍以上の差があるな、と思ったものです。そしてあの温かい手のぬくもりは慈愛に満ちたぬくもりであり、一代で出来上がるものでもない、と思いました(のちに李博士は代々の御典医の家系であることを知りました)。



李博士は私に「今後とも、しっかり仕事に励んで下さい」と語り、私は「またお会いできる日を楽しみにしています」と応え、長い長い握手をしました。そして笑えば「百万ドルの笑顔」――、こんなに教養があって美しい人間は今まで見たことがない、と心底思ったものです。李博士は私たちの姿が消えるまで、満面の笑顔で大きく、大きく最後まで手を振り、送り出してくれました。「大人(たいじん)」――、とはこういう人のことを言うのだと実感した出会いでした。




.. 2013年10月10日 12:10   No.618009
++ 島田守康 (平社員)…130回       
翌年は、奥様をご招待し、同じような接待を行ないました。李博士の肩書は、中華医学会の副会長(現役を退かれたからでしょう)、中国老人学会会長、奥様は中国社会科学院西アジア・アフリカ研究所教授でした。奥様は一般家庭の主婦のイメージでした。


そして、その翌年(1989年)の6月4日、天安門事件が起きました。この時、ご夫妻は息子がいるアメリカに即日亡命したのです。ウィキペディアの説明では「1980年代に移住」となっていますが、全くの誤りです。亡命4年後、暴露本の「暗殺されてもこの本は生き続ける」と語って『毛沢東の私生活』と題する本を書いて、日本では文藝春秋社から平成6年(1994年)に翻訳本が発行されました。まさしく神格化された毛沢東の私生活を暴露した内容で、身近に居たものでなければ書けない代物です。この本は、今の中国では発禁されており、この本が日本で出版された翌年に、「新たな毛沢東伝を出す」と公言してから一週間後に息子宅の浴槽で亡くなった(享年76歳、死因は心臓病)ことから、一時は「江沢民による刺客説」も流れました。

ところで、何とこの本には、私が質問して李博士が応えられなかった文化大革命の真相が語られていたのです。「人命に対する尊厳が微塵もない」毛沢東や政治権力者に対する激しい嫌悪感と抗議に、それは満ちていました。李博士は来日当時、中国を代表する黒の中山服を身にまとって、私に聞かれた文化大革命については本音で語りたかったに違いありません。しかし、一たび口に出すと、それは政府非難につながり、中華医学会の代表として来日した自分の立場を崩すことにもなるので、どう対応したらよいのか瞬間苦悶したのだと思います。


その中国の真相を、亡命してから世界に明らかにしたわけですが、「流血の第二の文化大革命」を招来させた政権の末裔がまともであろうはずはなく、チベット騒乱における弾圧や日本に対する傲慢無礼の態度は、李博士の願いと同様、この地上から唾棄、抹殺しなければならない宿痾、と強く思います。


私は中国問題を考える原点に、いつも、この李志綏博士の顔が浮かんできます。残念ながら、私が撮った李博士の写真や名刺は「公的仕事の賜物」としてすべて職場に置いてきたので、今私の手許に何の持ち合わせもないのですが、この小さな顔写真だけが唯一の証拠物件です(段ボール箱を探し出せば、この時の対談記事や写真をお見せできるのですが……)。



さて、今回で本シリーズも100回を迎えました。次回から新シリーズをスタートさせたいと思いますが、命名は「礼華ニッポン」とすることに決めました。何しろ、オリンピック招致で決め手となった言葉「オ・モ・テ・ナ・シ(hospitality)」にちなんで、それを二字表記すると、こうなるのではないかと思ってのことです。

このシリーズは一昨年の3・11東日本大震災をキッカケに、これまで「津波の脅威」「新生・ニッポン」「創生・ニッポン」「燦然・ニッポン」「凛美ニッポン」と計500回続けて来ました。読者は石研の4名からスタートして、現在fは56名の方々が読者になって下さっていますが、今後とも皆さまから見放されないよう精進して参るつもりですのです。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。なお、不要の方は遠慮なくお知らせ下さい。

これまでの閲覧、誠に有り難うございました。

m(__)mM・S

.. 2013年10月10日 12:23   No.618010


▼返信フォームです▼
Name
Email
ホームページ    
メッセージ
( タグの使用不可 )
Forecolor
アイコン   ICON list   Password 修正・削除に使用