返信


■--島田守康
++ 凛美ニッポン (幼稚園生)…1回          

前回メールに、岐阜県の県議会議長・駒田 誠氏(68歳)より、次のような応援俳句が寄せられました。

   「還暦は お腹に戻る 返り点」
 
    「還暦で よくぞ生きたと ほめてやれ」

    「還暦は 80までの 一里塚」

    「これからが 長寿の道の 本骨頂」

私は秀作川柳に触発されて、次のような自虐川柳がまた出来ました。

@ 「還暦で リウリウチンポ なつかしい」

A 「カンレキの カンゲキなしの カンソーかな」

B 「あの世から 病に勝って また地獄」

C 「欲しいのは 年金よりも 現金さ」

D 「障害者 生きていけると ハゲまされ」

E 「ご褒美と ヤケ酒重ね 泥酔魔」

F 「兄貴から 墓は今すぐ 用意しろ」

G 「処分する 本の重みは メガトン級」

H 「情けなか アベノミクスに 戦力外」

I 「無理利かず 頑張るぞとは 禁句かな」

わが高校の母校は50周年、大学は131周年を迎えました。高校の30周年時は東京で祝賀会(約80名参加)があり、後半、私が前に出て行き、「何だお前ら、元気がないじゃないか。オイ、元応援団のヤツ、景気づけに応援歌でもやれ!」と活を入れたのですが、その夜、どうやって帰ったのか記憶にないことだけはよく覚えています……。

(^-^)M・S
.. 2013年09月22日 07:46   No.615001

++ 島田守康 (大学院生)…112回       
NHKスペシャル番組を見ての感想は、「構成がまずかった」に尽きます。皆さんにご案内した建前上、「こんなはずではなかった。すいません」とお詫び申し上げるほかありませんm(__)m。

問題は、なぜ番組は二本建てなのか、まずそれを視聴者に判らせなければならなかったはず。二本のタイトルは一つが「この世は何からできているのか ―天才たちの100年の苦闘―」、もう一つが「宇宙はどこから来たのか ―最後の難問に挑む天才たち―」でした。副題は「天才」と「苦闘」「難問」が重複しているので、本来ならタイトルは「神の数式 ―天才たちの100年の難問への苦闘」、第一回目は「超ミクロ(素粒子)からのアプローチ」、二回目は「超マクロ(宇宙)からのアプローチと統合」とすべきでした。

なぜなら、超ミクロの世界と超マクロの世界は違った原理で動いていると長年考えられてきたので、その統合、統一性、つまり「万物の共通項(数式)」が本当に存在するのかに数学者や物理学者が頭を悩ませてきたからです。第一回目に、ただ漫然とスイスにあるヨーロッパ合同原子核研究所の石碑に刻印された数式の由来を説明しただけでは、研究者全体の苦闘の本意が伝わりませんでした。こんな「退屈な番組」だったら、今人気の上司とのガチンコバトル『半沢直樹』(TBS、日曜夜9時〜)に第二回目の日曜番組は負けるな、と思った次第です。

さて第一回目の具体的なテーマは「なぜモノには重さがあるのか」でした。その説明として、超ミクロの世界に存在する@素粒子、A電磁気力、B強い力、C弱い力、の4つが紹介されたわけですが、その解として、「もともと完璧で美しい対称性を持った世界が、対称でなくなることで重さが生まれる」という仮説を提出した南部陽一郎博士(91歳、2008年ノーベル物理学賞受賞)の「自発的対称性の破れ」や、それに伴って必然的に出現する「ヒッグス粒子(質量を与える粒子)」が紹介されたのでした。@〜Cまでの総合理論を「標準理論」と言うそうです(Aと仮称)。

第二回目のテーマは「重力とブラックホール」がテーマで、第一回目の「標準理論(A)」とアインシュタインが編み出した重力理論の「一般相対性理論(Bと仮称)」を統合して「神の数式(Theory of Everything)」を表わすことにジョン・シュワルツ博士(71歳、カリフォルニア工科大学名誉教授)が成功した、というものです。つまり、空間の歪みの極致であるブラックホールの底はAそのものの世界であるが、素粒子は「粒」ではなく、質量ゼロの輪ゴムのような「弦(ひも)」のエネルギーである、と。

しかし、それはホーキング博士(71歳)が指摘した欠陥(なぜそこで熱発生するのかの疑問)が見つかり、それをジョセフ・ポルチンスキー博士(カリフォルニア大学名誉教授)が「弦の複数の集合による膜発生」の考え方で解決した、というものです。ブラックホールの底(A=超ミクロの究極点・=無限大∞=計算不能域、「特異点」とも別称)は=ビッグバン(→B)の起点でもあり、即ちこれは新たな次元の発生を想起させ、それは現在11次元あるとされるものの、しかし「弦(ひも)」や「次元」もよく説明されないまま、結局、番組は最後のナレーターの言葉「宇宙の謎が垣間見えた」で終わっています。これでは視聴者の期待を見事に裏切ってもおかしくない内容だったわけです。

.. 2013年09月25日 13:57   No.615002
++ 島田守康 (大学院生)…113回       
要するに、番組制作スタッフの努力は買うにしても、「100年間の超難問を紹介するにはTV2回シリーズでは時間が足りな過ぎた」わけです。まさしく、典型的な「消化不良番組」で、私が期待したアインシュタイン方程式(宇宙項)の出番は、「はるか先」のことだったのです。



判りにくさのもう一つの原因は、「特異点」を境に、「我々の宇宙」と「未知の世界」が相似象で繋がっていることを示さなかったこと、つまり物事の半分しか語っておらず、全体像が見えなかったことにもあると思います。

ところで、私がこの番組で実際に見たことのある人は、第一回目の映像に出て来た朝永振一郎博士(1965年、ノーベル物理学賞受賞)です。早稲田に入学した初年度(昭和47年、1972年)の夏に、たまたま山手線の池袋駅から乗ったところ、私の真ん前に座っていた人が朝永博士でした。手に風呂敷包みを抱えて、小柄でにこやかな笑顔と気品ある姿であったことが強く印象に残っています。私はずっとその場に居たかったのですが、迷惑をかけてはいけないと潔く高田馬場駅で降りて、この間、わずか3駅の5分ほどのことでしたが、一瞬でもご尊顔を拝見できたことはラッキーなことでした。今調べてみると、朝永博士(1906年〜79年)66歳の時のことでした。

(^-^)M・S

.. 2013年09月25日 14:16   No.615003
++ 原田裕史 (小学校高学年)…23回       
現在、日本で動いている原発はありません!
 |  (壊れて収束作業中の原発はあります)
 └──── (たんぽぽ舎)

事故の危険性

 日本列島は世界でも最も地震の多い地域です。そこに50基もの原子力発電所がひしめいています。狭い日本、一度事故が起きれば、避難も困難であることは福島第一原発事故で経験した通りです。
 原発から30km圏内は避難計画は「未策定」6割超となっています。
 (東京新聞 7/9)
 福島第一原発事故でさえ、最悪の事態は避けられたというのが多くの専門家の意見です。もしも事故が起きたら避難できるのでしょうか。住民の健康と財産を守ることができるでしょうか。

そもそも福島第一原発事故はまだ収束していない

 貯水タンクからの汚染水漏れが連日報道されています。クレーンが倒れたり作業によっては周辺地域の放射線量が増えたりもしています。
 放射線作業は5年平均で年20mSvの制限があります。制限を超えると働きたくても働けなくなります。再稼働しようとすると、検査等で人が必要です。その分福島第一原発収束作業に携わる方の負担が増えることになります。再稼働より福島第一原発事故の収束が優先でなければ困ります。

「トイレの無いマンション」

 原発で使用した核燃料はその後の始末に困ります。地層処分を検討中ですが、地震も多く地下水も豊富な日本列島に適地があるかすら怪しいものです。50年も研究して具体的な処分方法が決まりません。そのような状態で使用済み燃料を増やしてはいけません。

規制庁になって新しい基準で審査しているんじゃないの?

 原子炉圧力が高くなった時に中の蒸気を外に出す(ベントと呼ばれます)時にフィルターを付けて放射能を減らす予定になっていますが、実際にはまだ出来てません。作る「予定」で審査をしているのです。他にも重要な安全設備が出来ていなくても「予定があれば」動かしても良いというのです。「事故は起きない」という安全神話がまた蔓延しています。これで動かしていいはずがありません。福島第一原発事故で現在問題になっている汚染水の対策なども盛り込まれていません。事故が起きたら同じ事が繰り返されるのではないでしょうか。

 福島第一原発事故で、誰も責任を取らず、賠償も除染も進まず。帰りたい人は帰れず、逃げたい人は逃げられず。そんななか原発を動かすのは言語道断ではないでしょうか。

世界有数の地震国
原発を動かすべきではありません


.. 2013年09月25日 14:26   No.615004
++ 島田守康 (大学院生)…114回       
昨日、私がお世話になった松本英聖(えいせい)先生の葬儀が埼玉県・越谷市千間台で、しめやかに挙行されました。21日の午後1時に亡くなられたそうで、享年84歳でした。

松本先生は、私が(社)生命科学協会に入社した36年前の編集部員の初仕事でお目にかかって以来のお付き合いです。初対面の日の座談会では森下敬一・国際自然医学会会長、二宮信親・現代文化協会会長、松本英聖・医事評論家が出席したのですが、座談会終了後、みな酔っぱらって帰れなくなり、私は当時、松本先生が借りていた飯田橋の下駄ばきマンションに「飲み直し」で泊めさせて頂いたことがスタートとなりました。

松本先生はその後、国際保健技療学会を立ち上げ、私はそこの講師や機関誌、テキスト発行の仕事をさせて頂きました。先生はその途次、『松本英聖・医事論集』(全五巻、技術出版、1994年刊、定価3059円)を出されたり、記念イベントなど多彩な活動をされました。

松本先生の郷里は山口県萩市で、幼少時は父親が満洲国の首都・新京で官吏をしていたため、東條英機・憲兵隊司令官(のち参謀長)の官舎の隣りに住み、勝子夫人とは母親が親しくお付き合いをしていたとのことです。終戦直前に広島・呉の海軍兵学校に入校、戦後、慶応大学の医学部に入学したものの学制改革に激怒して退校、のち日本大学歯学部に進んで歯学博士、保健学博士を取得しています。

なお、出席者のもう一人、二宮信親(のぶちか)・現代文化協会会長ですが、この方は読売新聞社の元出版局長で、この方の斡旋で青江舜二郎著『石原莞爾』(読売新聞社、1973年刊、現在は中公文庫)が発行されていたのでした。当時、私がこのことを知ったのは二宮先生亡き後だったので、とても残念な思いがしました。また後年、私が読売・日本テレビ・カルチャーセンターの特別講師にさせて頂いたのも、その遠因を辿れば、この二宮先生の存在あってこその出来事でした。

つまり、私にとって、この座談会の上記お二人が、その後の私の人生の「最も楽しかった講師時代」を作り上げてくれたわけです。また、森下敬一先生(現在85歳、お茶ノ水クリニック院長現役)には月刊『自然医学』を15年間、単行本を1冊、ゴーストライター本1冊を発行させて頂き、今日までの私の編集業の基(もとい)を築いてくれました。この先生の文筆力(現在まで単行本80余冊を発行)がなければ、今日の私は無かったと思います。よって、このお三方は私にとって生涯の「恩人」です。

松本先生は、ご本人が出された同じ出版社から私の著書『米は真実という名のシンボルマーク』(1999年刊、定価2415円)を出してくれて、その出版記念会の発起人も務め、推薦文まで書いて下さいました。

この2年間は寝たきり状態になっていたとのことですが、その生涯はきっと満足のいくものだったと思います。心からのご冥福をお祈りして、追悼の辞とさせて頂きます。

※国際自然医学会からは森下敬一先生の妹さん(グループ会社社長)ほか、編集部から2名が出席されました。旧知の松本先生の友人からは、1969年の「日大闘争」の裏面史などの話も伺いました。

(-_-)M・S

.. 2013年09月26日 12:07   No.615005
++ 島田守康 (大学院生)…115回       
稀代の彫刻家、流 政之氏(90歳)の出自が、立命館大学の総長だった中川小十郎の子息であることが判明しました。

この流氏については、昨年の6月、石研の中村麗子さん(86歳)から、「朝日新聞に載った人物が今から24年前に山形県鶴岡市で開かれた“石原莞爾将軍生誕百年祭”に出席していた人だ」と新聞の切り抜きが送られてきたので、私は「燦然・ニッポン(15)」で皆さんにお知らせしたのですが、その際、素性が明らかでなかったことと作風が似ていることから、私は故イサム・ノグチ(1988年没、享年84歳)の「隠し子」ではないかと勝手な邪推をしてしまったのです。

ところが、それは全くの間違いであることを近現代史研究家の田中秀雄氏(61歳)が知らせてくれました。中川小十郎・総長の子息であるならば、石原将軍の良き理解者で将軍を同校の国防学研究所長として招いた父の死後(昭和19年、1944年、享年78歳)、その遺志を汲んで石原将軍の記念祭に出席したことは、全く以って自然なことだったわけです。

さて、流 政之氏(89歳)の御影石の彫像は、何と同時多発テロ事件が起きたニューヨークのツインタワー公園の中心に飾られていた、と言います。

氏の略歴をウィキペディアで調べてみると、
「1923年長崎県に生まれ、1942年立命館大学法文学部へ進学。その後中退し、海軍予備学生出身の零戦搭乗員として終戦を迎える。その後、世界各地を放浪、独学で彫刻を学び現在に至る。1975年には、ニューヨーク世界貿易センターのシンボルとして約250トンの巨大彫刻『雲の砦』をつくり国際的評価を得る。また、作品『受』はニューヨーク近代美術館の永久保存作品(パーマネントコレクション)として収蔵されており、彼の国際的評価の高さを裏付けている。1967年には、TIMEが選ぶ日本を代表する文化人の一人に選ばれた」とあります。

流氏の詳しいプロフィールと作品は、下記のHPよりご覧になれます。芸術家だけあって、HPもハイセンスな作りになっています。

  ▼流氏のHP こちら

.. 2013年09月28日 18:05   No.615006
++ 島田守康 (大学院生)…116回       
ともあれ、石原将軍の縁戚者の作品が、ニューヨークのツインタワー公園で「永久平和」を願って作られたものであったことは、石原将軍の意思に叶うものであったし、今後もし作品の再陳列の機会があれば、またそうあって欲しいと心より願います。

流氏は零戦パイロットであったわけですが、今年は自宅から直筆の多数の資料が発見された設計者の堀越二郎(1982年逝去、享年79歳)が注目されました。高い人気を受けて、この零戦は埼玉県の所沢市にある「航空発祥記念館」で実際に飛行できる唯一の機体をアメリカから借り受けて長期展示されたわけですが、昨年、石研の事務長・山崎八九生(やくお)氏(59歳)が写真を撮って来てくれたので、ご紹介します。機体は 零戦52型(「ゴウニイガタ」)です。

(^-^)M・S

.. 2013年09月28日 18:28   No.615007
++ 島田守康 (大学院生)…117回       
今年4月、零戦の設計者・堀越二郎氏(1903〜82年)が作成していた零戦の後継機「烈風改」の設計図17枚が公開されました。これは宮崎 駿・監督の映画『風立ちぬ』が7月に封切られるのに合わせて、氏の出身地である群馬県藤岡市の藤岡歴史館が公表したもので、遺族が8年前に寄贈した遺品約千点の中から今年初めて見出したというものです。

設計図の製作時期は昭和19年(1944年)6月〜翌年7月にかけてのもので、今回完全な設計図が公表されたことで、今まで「幻の戦闘機」と言われてきた「烈風改」の存在が、初めて確認されたわけです。この図面がGHQ(連合国軍総司令部)からの没収・破棄の難を逃れた背景には、堀越氏の「研究開発の成果を後世に伝えようとした国益重視の真摯で熱い情熱」が、よく伺えます。戦後、防衛大の教授を務めたことからも、それは明らかです。

「烈風改」は零戦よりも一回りも大きく、米軍のB29爆撃機を撃墜すべく飛行高度は1万メートル以上を想定、「高高度戦闘機」として開発されましたが、前機種の「烈風」は8機が試作されたのに対し、残念ながら、この最新「烈風改」は単なる「設計図」止まりで終わってしまいました。   

ところで、昨日のTV番組「やりすぎ都市伝説」(テレビ東京、夜9時〜)で、堀越氏はUFOについての記述も書き残していることが紹介されました。その主旨は下記のようなものでした。
1947年、アメリカでセスナに乗ったケネス・アーノルドが9機の未確認飛行物体を目撃した“アーノルド事件”に関連して、「円盤型では人が乗る飛行機としては操作性に問題が生じるため、この事件を調査したアメリカ空軍の報告“心理学上(錯覚)の物体”と結論づけた12項目のち11項目までの報告に異論はないが、無人の飛行爆弾のようなものであれば円盤型でも可能である」というものです。

またこれに関連して、堀越氏は航空力学上、最も理想的な形は三角形の握り飯型であるとし、もしかしたらこの形の無人航空機の実験が既に行なわれているかも知れないと示唆していた、と言います。三角形の無人爆撃機の空母への離発着は今年7月、アメリカ海軍が成功しましたが、人類は「無人ロボットVS人間」という新たな戦争局面の時代を迎えたわけです。

.. 2013年09月29日 21:29   No.615008
++ 島田守康 (大学院生)…118回       
ともあれ、堀越氏は戦前・戦後を通じて、名実ともに日本の航空技術界の「第一人者」だったことは間違いありません。彼の遺志を継いで、これから、わが国航空・宇宙産業界に「第二、第三の堀越二郎」が誕生することを心より願ってやみません。

(^-^)M・S

.. 2013年09月29日 21:34   No.615009
++ 島田守康 (大学院生)…119回       
本日の産経新聞の記事に米「スミソニアン航空宇宙博物館」と「ニュージアム」の見学記事が載っていました。興味を惹かれたことが2点あるので記してみます。

まず一点は、例の原爆投下機のエノラ・ゲイ号の下に日本海軍の零戦の後継機、紫電改が展示されていて、「米国が日本を制圧したという印象を受けて屈辱的だった」という感想です。確かに、各人の見方によっては、そういう印象を受ける人はいるでしょうし、それが大方の反応なのかも知れません。

しかし私は、母親から、生家である埼玉県の熊谷にB29の編隊が爆撃にやって来た時、迎撃に飛び立った日本機はB29に近づくことも出来ずに次々と撃ち落とされて、真っ赤な閃光を放って墜落して行くシーンを何度も聞かされました。地上の人々は、「あーあー」と悲壮な声を一様に上げ、みな悔しくて悔しくて地団駄踏んだと言います。しかも、日本の迎撃機はB29にめがけて急上昇するも、銃撃を受けなくてもエンジンが焼き切れて、「ウーン」という猛烈なウナリ音を上げて墜落して行った、と言います。

石原莞爾将軍は、このB29の編隊を見て、「科学の為せる業は美しいな」と言ったそうですが、敗戦末期の「彼我の格差」は厳然たる事実であったのであり、その「彼我の格差」を認識し得ずして「無謀な戦争に突入する」ことの愚かしさを、石原将軍は誰よりも警鐘を鳴らし続けたのですが、ご承知のように、大勢の方向となることは出来なかったわけです。

B29を撃墜した場面を目撃した人の話の中で、ある人は、主翼の銀色が陽光に照らされてピカピカと光り、扇子(センス)のようにゆらりゆらりと左右にゆっくりと落下して来て、それはあたかも「源氏絵巻」を見ているようだった、と語り、またある人は、撃墜現場に行くと、平服のカメラマンがサンダル履きで田んぼの畦にうつ伏していた、と語った人も居ました。「サンダル履きで平服のカメラマン」――、その「天地ほどの余裕の格差」に、その人は日本の敗戦を確信した、と言っていました。

.. 2013年09月30日 12:47   No.615010
++ 島田守康 (大学院生)…120回       
要するに、私にとってB29と日本の戦闘機の比較は、「負けた屈辱感」というより先に、――また祖父が昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で死亡した恨みというより――、「日米軍事(産業技術)格差の象徴的な出来事」として思い浮かぶのです。日本が「科学技術立国ニッポン」を今後とも政策の根本に据えて行くというなら、目標設定
の教訓の場として脳裏に刻み込むべき好例が、ここにあるのではないかと私は思うのです。

もう一点は、1545年以降の大きな出来事を伝える世界各国の新聞を保存・展示している「ニュージアム(ジャーナリズム博物館)」で、「日本の新聞は一つもなかった」という報告です。

世界新聞協会の2010年の調査によると、世界で最も新聞発行総部数の多い国のトップは中国で1億1,078万部、2位がインドの1億0,993万部、3位が日本で5,043万部、4位は米国の4,857万部、5位はドイツの1,974万部。2005年の調査では上位100紙の中、75紙がアジアの新聞で、上位10位中7紙(現在5紙、下記★参照)が日本の新聞であった、と言います。

一社の比較で言うと、読売新聞社が1000万部を超えて、「ギネスブック認定世界一」ということです。ならば、今まで渡辺恒雄社長(現会長)は一体、何をやってきたのでしょうか?

「ニュージアム」で中国やインドの新聞が展示されていたかどうか知りませんが、日頃、偉そうに論陣を張っている日本の新聞各社は、日本新聞協会(会長は読売出身の白石興二郎氏)を通して、わが国の新聞がここで展示されるよう「意地と誇り」をかけて強力に働きかけるべきです。「内弁慶」は脱して、「鬼弁慶」に徹すべきです。

(^-^)M・S

.. 2013年09月30日 12:56   No.615011


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