返信


■--地震が生み出す新たな陸地
++ 島村英紀 (小学校高学年)…29回          

.「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」その17
 |  地震のたびに、それまでの海底が飛び上がって新しい陸地が増えてきた
 | 関東地震のメカニズムは日本人が日本に住み着くはるか前から、何千回も
 | 繰り返してきている!
 └────  (地震学者)
○地震は疫病神のように恐れられている。しかし、そう言うには気の毒なこともある。
西日本から羽田空港に着陸する飛行機は、伊豆大島の真上を抜け、房総半島の南部をかすめながら左旋回して東京湾を横切って、空港に南から進入することが多い。
そのときに房総半島の南端部に階段状の地形を見た人も多いだろう。
階段の幅は数十メートルから数百メートル、段差は10メートル弱のものが4段ほど見えるはずだ。階段全体としては10階建てのビルほどの高さだ。海岸段丘という。
○これはちょうど90年前の9月1日に関東大震災を起こした大正関東地震(1923年)やその先代の関東地震が繰り返したことで作ってくれた陸地なのである。地震のたびに、それまでの海底が飛び上がって新しい陸地が増えてきたのであった。
 この階段は房総半島南端の西部にある館山市から、半島の南端をまわって東側の南房総市千倉(ちくら)まで30キロも続いている。つまり東京ドーム300個分もの広さの土地が、地震で増えたことになる。
 一回の地震で海底が飛び上がって陸地になった高さは、たとえば半島南端の野島崎で大正関東地震のときに1.8メートル。その先代の元禄関東地震(1703年)
のときにはずっと大きく5メートル。これは地震が大きかったせいである。
 なお、ここにある野島崎灯台は大正関東地震で下から5分の1ほどのところで折れて倒壊してしまった。この灯台は東京湾に出入りする船にとって重要な目印な
ので、洋式灯台としては観音埼灯台(神奈川県横須賀市)に続いて日本で2番目、1870年に点灯したものだ。設計したのはフランス人技師だった。
 この灯台が立っている野島崎は、元禄関東地震のときにそれまでは沖合の島だったのが、陸地とくっついたものだ。
○元禄関東地震で新しく生まれた土地を村人が平等に分けたという伝承がある。
水田のほか、畑にしたり、イワシや網の干場にしたことも記録されている。一方、隆起した陸地が増えたために村境争いが起きるなど、いろいろな悲喜劇があった。
 いま観光客に人気の和田や白浜など南房総市のお花畑は、もと海底、いまは海岸段丘になっている平地に拡がっているものだ。
 ところで元禄関東地震よりもっと先代の地震のことは歴史史料には残っていない。このため正確にはいつ起きた地震か、どんな地震だったのかは分かっていない。
 しかし段丘の地球科学的な調査からは、少なくともあと3回、元禄関東地震なみの大地震があって、同じくらいの大きさの海岸段丘が作られたことが分かっている。今から約3000年前、約5000年前と約7200年前だ。そのほかに、大正関東地震のときなみの小さめの段丘がそれぞれの間にはさまっている。
 この関東地震のメカニズムは海溝型地震だから、日本人が日本に住み着くはるか前から、何千回も繰り返してきている。私たちは、そのうちで、ごく近年のものだけしか知らないのである。
               『夕刊フジ』2013年8月30日(金曜)5面。
.. 2013年08月30日 12:00   No.601001

++ 永山一美 (小学校中学年)…10回       
規制委は「新規制基準」でいったいなにを規制できているのだろうか?
 |  東京電力福島第一原発事故で明らかになった地震と津波のびっくりする
 |  ような問題の数々、そして自ら考え、行動を起こすということ
 |  9/4第2回地震・津波講座の感想
 └──── (たんぽぽ舎ボランティア)

 第一回は島村英紀さん、そして今回は地震がよくわかる会から今井孝司さんにお話をして戴きました。
 今井さんは市民の立場で、地震・津波・原発に関わり、十数年に渡り勉強をしてこられた方です。
 お話は、今井さん作成の30ページからなる豊富な資料集を基に、プロジェクターを活用し、「一体何が報道されていたのか、今回の地震や津波で起きた事象の数々が、いかに規制委の規制基準にそぐわないのか」をわかりやすくて丁寧に説明をしてくださいました。
 津波により内陸奥までに陸上げさせられた推定140トンの巨石や、防波堤に乗り上げようやく止まった貨物船はなんと4724トン。
「これらがもし原発や核施設サイトにやってきていたら?!」ひとたまりもありません。今回はたまたまやってこなかったという幸運だっただけ。
 原発の立地条件に大差はないのだから原発の受ける最大地震動の設定は、すべて2300ガルに設定すべき。他にも活断層の年代定義について、原発の寿命設定について、などなど。
 原子力規制委を地震と津波問題から検証するお話も、大変に勉強になりました。
 私たちは市民であって、原発や地震などの部門の専門家ではありませんが、報道されていることを「自ら」知り、さらに「なぜ?」と疑問や矛盾を持ち、それら知り得たことをみんなで考え、これから先の混沌とした筋道を探って行くことは、私たち「普通の市民」でも、できるのではないでしょうか?
そんな風に感じることができた有意義な学習会でした。今井さん、ありがとうございました。

☆当日の資料集(A4版31頁)は、若干予備があります。実費(コピー代300円)でお分けします。郵送の場合はプラス100円(送料)です。

.. 2013年09月08日 22:03   No.601002
++ 永山一美 (小学校中学年)…11回       
☆「地震がよくわかる会」は、たんぽぽ舎で定期的にやっている学習会です。
毎月一回平日夜に少人数で、地震、津波、火山や原発に関わる情報の共有と交換を主にやっています。年に数回、スペースたんぽぽでの講座としても開かれています。参加費は大体800円〜1000円です(主に会場費)。

.. 2013年09月08日 22:13   No.601003
++ 島村英紀 (中学生)…30回       
.「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識−18」
 |  首都圏のごく浅いところに「地震の巣」〜安政江戸地震の新事実〜
 └──── (地震学者)
 

○関東大震災を起こした大正関東地震(1923年)とその「先代」について話してきた。これらは日本を襲う二種類の地震のうちのひとつ、「海溝型地震」である。
 しかし、首都圏を襲う地震はこれだけではない。もうひとつの種類「直下型地震」も、甚大な被害をたびたび生んできた。
  たとえば直下型地震としては日本最大の死者数、約1万人を生んだのは1855年(安政2年)の安政江戸地震だった。直下型ゆえ、被害は直径20キロあまりの狭い範囲に集中していたが、そこにちょうど江戸の下町があったのが不幸だった。
 なかでも被害が大きかったのが江戸城の外濠に囲まれた区域で、老中や大名の屋敷が立ち並んでいたところだった。小川町、小石川、下谷、浅草や日比谷の入江埋立地、本所、深川といった埋立地でも被害が目立った。
 しかしこれでも死者数は過小だという説がある。町の住民についてだけは町役人の公式報告がある。だが諸国からの出稼ぎ者、流入窮民などの実態は分かっておらず、それゆえ公式報告から漏れた可能性が大きいからである。
 そもそも江戸にあった各藩の屋敷にいた武家人口そのものが秘密であったうえ、各藩にとって、いわば弱みをさらけ出すことになる死傷者数は極秘事項だったこともある。
 水戸藩では小石川、駒込、本所の三ヶ所にあった藩邸がすべて壊滅的な被害をこうむって、藤田東湖と戸田蓬軒という藩主・水戸斉昭の両腕の名士が圧死した。西郷隆盛は師と仰いだ藤田東湖の死を知って興奮のあまり自ら髷(まげ)を切ろうとしたが、同僚に止められたという話が残っている。

○ところで、当時は地震計はもちろんなかったから、正確な震源の位置や深さは分からない。
 だが被害の分布から見れば震源は明らかに荒川の河口近くにあった。
 一方、震源の深さは比較的深いのではないかという学説が強かった。震源が深いほど、遠くまで強い震度が伝わる。震度4相当の揺れだった地域が500キロ以上も離れた宮城県石巻、新潟県、岐阜県、愛知県豊川といった広い範囲に広がっていたことが根拠だった。
 ところが最近の研究で、この地震は浅い地震だったことが明らかになった。震源が浅くても遠くまで伝わる「地殻内トラップS波」の存在が証明されて、遠くまで強い揺れが伝わったナゾが解けたからだ。この地震が北米プレートの浅い地殻内で起きたのが分かったことになる。
 つまり首都圏には、ごく浅いところにも「地震の巣」があって、安政江戸地震を引きおこしたのだ。(2013年9月6日『夕刊フジ』より)

.. 2013年09月20日 15:11   No.601004
++ 島村英紀 (中学生)…31回       
.「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識-19」
 |  首都大混乱!!「東京地震」の恐怖〜首都圏の「地震の巣」その2
 |  明治時代よりも住宅が密集しインフラが進んだ現在、被害はさらに増大
 └──── (地震学者)

○「東京地震」という名前がついた唯一の地震がある。1894年(明治27年)に東京直下で起きた地震で、大正関東地震(1923年)以外では近年最大の被害を東京にもたらした直下型地震である。死者数は31。神田、深川、本所といった下町で被害が多く、なかでも煉瓦(れんが)造りの建物と煙突の損壊が目立った。
 明治時代の文明開化で西洋風の煉瓦建築が首都圏で増えてきていた。欧州など地震がない国では煉瓦造りとは煉瓦をたんに積んだだけの建築だ。それをそのまま真似た日本の洋風建築がいかに地震に弱いものであるかを露呈した。日本の耐震建築の一里塚になった地震でもあった。
 当時東京には地震計が3ヶ所しかなかったので正確な震源は分かっていない。だが震度の大きかったところから考えると、震源はいまの東京都の東部だったと思われる。
 小説家の谷崎潤一郎は東京の下町の自宅で被災した。「幼少時代」に体験を書き残しているが、よほど怖かったのであろう、この地震で谷崎は地震恐怖症になったと告白している。谷崎は後に横浜山手の自邸を特別強く造ったので、大正関東地震では無事だったが、家は類焼してしまった。そして、地震後に京都に移転した。
 東京地震のマグニチュード(M)は7弱と推定されている。しかし不幸中の幸いで震源が40〜70キロと深く、そのために地震の大きさのわりには被害が少なかった。

○ところで震源が浅いと余震が多く、震源が深いと余震が少ない。この地震も震度3のものが2回しかなかった。谷崎には幸いだったろう。
 首都圏の地下はとても複雑だ。東から潜り込んでいる太平洋プレートと首都圏が載っている北米プレートの間に、さらに三つ目として南からフィリピン海プレートが潜り込んでいる。
 この地震はフィリピン海プレート内部で起きた地震ではないかという学説が強い。太平洋プレートとフィリピン海プレートの境界で起きたという説もある。いずれにせよ、複雑なプレートの動きが起こした、首都圏直下でしか起きない地震だった。

.. 2013年09月22日 08:59   No.601005
++ 島村英紀 (中学生)…32回       
やや深いこの震源も首都圏の地震の巣のひとつだ。じつは同じ巣の地震が2005年7月に首都圏を襲っている。都内で13年ぶりの震度5になった地震だ。64000台ものエレベーターが止まって多くの人が閉じ込められたり、多数の電車が長時間運転が止まって首都圏が大混乱におちいったのを覚えている人も多いだろう。
 この地震の震源は東京湾北部から千葉県側に少し入ったところの地下深くだった。この地震は幸いM5.8と大きくはなく、深さもやはり70キロと深かったから、この程度の「被害」ですんだ。
しかし、この地震の巣でもエネルギーが百倍以上も大きい地震が起きる可能性がある。
 明治時代よりも住宅密集地が増え、地震に弱いインフラもまた増えた現在では、次の「東京地震」がもし来れば、はるかに大きな被害を生んでしまうかもしれない。(9月13日『夕刊フジ』より)

.. 2013年09月22日 09:11   No.601006
++ 東スポWeb (幼稚園生)…1回       
東京エリアに"3つの不安"「富士山噴火」「地震」は大丈夫か?
 |  1つは伊豆諸島沖の地震と津波、2つめは青森・岩手県沖、3つめは富士山の噴火
 |  天災は人間の予測を超えるもの!
 └──── 木村政昭氏(琉球大学名誉教授)に聞く

○2020年東京五輪の開催が決定し、日本中がお祭りムードだ。それはそれで大いに結構だが、誰もが感じていながら口に出せないのが「大地震や富士山の噴火は大丈夫?」という一抹の不安。政府、地震研は首都直下地震や南海トラフ地震が30年以内に70%の確率での発生を予測していたのだから、当然だろう。
そこで「富士山の噴火は始まっている!」の著者でもある琉球大学の木村政昭名誉教授に、五輪までの7年間、東京を天災が見舞う可能性を詳しく聞いてみた。
 「国は首都直下や南海トラフ地震を予測していますが、私にはその方面で大地震が起きる"地震の目"は見当たらない」
 阪神・淡路大震災や東日本大震災を事前に予測していたことで地震予測の権威として知られる木村氏はこう話す。国の予測が外れれば一安心だ。だが、木村氏は、東京エリアには"3つの不安"があるとも指摘している。
○1つ目が伊豆諸島沖で13年からプラスマイナス3〜5年の範囲で発生が予測されるM8.5規模の地震だ。
 「東京から200キロ離れ、フィリピン海プレート上ですので(北米プレート上の)東京に直接の揺れは少ないでしょう。むしろ心配なのは津波。この場所のプレートは低く、10メートル引っ張られれば10メートルの高さの津波が起きる。関東沿岸部や東京湾には、かなり大きな津波が来る可能性は否定できない」。選手村やいくつもの競技場ができるベイエリアに、巨大津波が襲い掛かっては大惨事になってしまいそうだが…。
○2つ目は青森・岩手県沖だ。こちらはM9の東日本大震災の震源地から北へ100キロほどの位置で、19年プラスマイナス3〜5年で同じくM8.5規模の地震が予測されている。
「ここはM6.5以上が起きていない。東日本大震災も東北沖は中規模の地震がたくさん起きていて、ストレスが抜けていると国はみていたが、私は正反対。規模は小さいが密集して起きているところが危険」

.. 2013年09月26日 11:12   No.601007
++ 東スポWeb (幼稚園生)…2回       
 福島原発は廃炉作業が進められ、汚染水問題で四苦八苦している最中に大地震や津波に見舞われれば、原子炉建屋や汚染水タンクの倒壊を引き起こし、最悪の事態を招きかねない。
○そして3つ目が富士山の噴火。木村氏は13年プラスマイナス3年で、富士山噴火を予測する。
 「富士山真下のマグマが上昇し、既に11年から水噴火といわれる地下水が噴き上げる現象が起きている。噴煙が上がったり、溶岩が流れるような現象はまだ見られませんが、富士山はもう活動期に入ったとみています。本格的な大噴火は先になる可能性はありますが、注意深く見守る必要があります」
 噴火の規模にもよるが、内閣府は300年前の宝永噴火と同規模なら東京には2センチの火山灰が降り積もり、交通インフラは完全にストップする大災害と試算している。
 不安材料ではあるが、「13年プラスマイナス3年」なら、とりあえずあと7年は大噴火は起きなさそう。
○そうはいっても、天災は人間の予測を超えるものだ。"3つの不安"の1つでも降りかかれば、20年東京五輪の開催そのものに直結する事態となりかねない。もっとも、開催地がどこであろうがいつどんな災害が降りかかるかは、神のみぞ知るという話だ。必要以上に不安になることもないだろう。国や木村氏の予測が外れることもあるだろうし、最小規模での発生で済む可能性もある。2度目の東京五輪を世界に誇れる素晴らしい祭典にするため、今後造られる施設、道路などの安全性をより高め、万が一に備えて避難所を造るなど、できることをキッチリとすればいいだけだ。(9月11日より)

.. 2013年09月26日 11:20   No.601008
++ 島村英紀 (中学生)…33回       
.「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識-20」
| 首都圏の地震 少ないのは異例
 |  人は一生の間に何度の大地震を体験するものだろうか。
 └────  (地震学者)

○大正時代までの首都圏では、人々は四、五回以上の大地震を経験することが多かった。
 私の友人は何世代にもわたって東京の下町に住んでいるが、その家には曾祖母の言葉が言い伝えられている。「大正関東地震(1923年)の揺れは大したことはなかった、前々回に書いた安政江戸地震(1855年)のほうがよほどすさまじかったよ」という言葉だ。曾祖母はこのほか前回に書いた東京地震(1894年)も体験していた。
 曾祖母は関東地震のあと、東京が炎上するさまを見ながら「安政のときは揺れはすごかったのにこれほど燃えなかったのにねえ」と言っていた。都市化することは、たとえ同じ大きさの地震に襲われても「震災」が大きくなることなのである。
 たしかに、東京の下町の揺れは、直下型地震である安政江戸地震のほうがすさまじかった。また直下型ゆえ、短周期の強い揺れが特別に大きかった可能性が高い。
 当時はいまよりも日本人の平均寿命ははるかに短かった。それでも一生の間に何度も大地震に遭ったのである。

○じつは首都圏の地震は、大正関東地震以来、不思議に少ない状態が続いている。
 厳密に言えば、大正関東地震後6年間だけはM6クラスの地震で東京で震度5の地震が3つあった。
 しかしそれから大地震がぱったりなくなった。約60年後の1985年の茨城県南部に起きたM6.0の地震まで震度5を感じたことは一度もなかったのである。その後も2011年の東日本大震災のときの5強まで2回しか震度5がなかった。
 だが大正関東地震以前は違った。江戸時代から大正時代には、地震ははるかに多かった。江戸時代中期の18世紀から24回ものM6クラス以上の地震が襲ってきていたのだ。平均すれば、なんと6年に一度にもなる。
 以前、元禄関東地震(1703年)の話をした。大正関東地震の「先代」で、同じ海溝型地震である。じつは、この地震の後も数年の間だけ大地震が続いた後、ぱったり地震がなくなった期間が約70年ほど続いたのだった。
 そして、その「休止期間」のあと地震が増えて、24回もの大地震がたびたび襲ってきたというわけなのである。
 大正関東地震から90年たった。もし元禄関東地震のあとで何かの理由で「休止」したとすれば、やはり海溝型地震である大正関東地震でも同じ理由で「休止」した可能性がある。今は「休止」がそろそろ解けだしたとしても不思議ではない時期に入っているのである。

 地球物理学的に考えれば、首都圏が大正関東地震以来「静か」なのは異例だ。むしろ、もっと地震が多いのが普通なのである。(『夕刊フジ』2013年9月27日)

.. 2013年09月30日 12:19   No.601009
++ 島村英紀 (中学生)…34回       
コラムその21:「警戒せよ!生死を分ける地震の基礎知識」
 |  あいまいな「立川断層」の危険度
 |  地下で地層がずれていることが見つかれば過去の地震歴が分かる
 |  活断層を調べるだけでは地震の発生を予測するのは不可能?
 └──── (地震学者)

○大正関東地震(1923年)をはじめ、安政江戸地震(1855年)、明治東京地震(1894年)など、首都圏を襲ってきたいくつかのタイプの地震について話してきた。これらは地震が起きた年も、その被害も分かっている地震だ。
 だが、首都圏を襲う地震はこれらのタイプだけではない。起きたことは確かなのだが、いつ起きたか分からない地震もある。
 たとえば立川断層という活断層が起こした地震がある。
 この立川断層で知られている最後の地震は約2万年より後で約13000年前より前と、なんとも曖昧なのだ。もちろん日本人が日本に住み着く前だ。一方、平均活動間隔も1万〜15000年程度としか分かっていない。
 立川断層は埼玉県飯能市から東京都青梅市、立川市を経て府中市まで続いている。長さは34キロほどある。
 この立川断層が一般に知られるようになったのは、政府の地震調査委員会が2009年に全国での要警戒7活断層のひとつにしたからだ。選んだ基準は、活断層の近くに家が建てこんで人口密集地になっているうえ、マグニチュード(M)7.4(阪神淡路はM7.3)程度の地震を起こす可能性があるというものだった。
 このため政府はこの断層のトレンチ法という調査を行った。トレンチ法とは、土木機械で土地を掘り下げて地層の断面を調べる調査である。普通は都会では出来ないが、幸い自動車工場が撤退した後の広大な空き地があったので可能になった。カルロス・ゴーン氏が日産自動車の赤字解消のために売り払った工場だ。

○地下で地層がずれていることが見つかれば過去の地震歴が分かる。
 トレンチの語源は軍隊が掘る塹壕(ざんごう)だ。ここでも長さ250m、深さ10mもの巨大な塹壕のような溝を掘った。また3次元探査やボーリング調査も実施するなど、多額の費用を投入した大規模な調査だった。
 しかし、報道されたとおり、調査結果はみっともないものになってしまった。学者が地震によってずれたと判断した根拠になった白っぽい岩は、じつは自動車工場がかつて打ち込んだ建物の杭(くい)だということが外部から指摘されたのである。
 政府によれば、今後30年間でのここでの地震発生確率は0.5〜2%、50年間で4%程度という。
 ここに限らず、それぞれの活断層が将来、地震を起こす確率は、このようにごく低いものだ。30年間、つまり世代が交代するまでにたった2%というのでは、数字をわざわざ出すことはほとんど無意味だと私は思う。
 じつは活断層に関する学問は、ある活断層がどのくらいの長さだけ続いているのか、過去にどのくらいの活動歴があったのか、そして、そもそも活断層なのかどうか、といった根本的な解釈が、学者によってちがう。数学や物理学のように、絶対の正しさが客観的に期待される学問ではないのである。
(2013年10月4日『夕刊フジ』より)

.. 2013年10月09日 11:17   No.601010


▼返信フォームです▼
Name
Email
ホームページ    
メッセージ
( タグの使用不可 )
Forecolor
アイコン   ICON list   Password 修正・削除に使用