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■--凛美ニッポン
++ 島田守康 (大学生)…91回          

早大の大先輩、渡邉光治氏(90歳)から同期生の奥様が綴られた自家ワープロ本が送られてきました。

ご承知のように、渡邉氏は商学部3年時、昭和18年(1943年)9月22日の「学徒動員令」により繰り上げ卒業となり、10月21日の神宮外苑での「出陣壮行会」、そして翌年の5月1日には愛知県の豊橋第一陸軍予備士官学校に入校、9月にはフィリピンへ出征しています。フィリピン到着前後から米軍の大攻勢に遭い、這々の態で台湾に帰着、さらに20隻で今度はシンガポールに向かう当日、乗船予定の商船の故障により陸地勤務となり、そのまま終戦を迎えたわけです。

その詳しい内容は、第23回メールでご報告済みですが、自家ワープロ本の法学部の同期生(歳は2歳上)、坂本邦弘氏は渡邉氏と全く同様の体験をして生き延びました。出航した他の19隻の商船乗員はみな返らぬ人となり、まさしく「奇跡的な生還」だったわけです。坂本氏も「戦争中は、絶えず生命の危険にさらされ、人間の生命は紙一重であるとの印象を深くした。そして戦争ほど恐ろしいものはなく、全く人間性を変えてしまうもので、二度と繰り返してはならないと痛切に感じている」と述べています。

その坂本氏は、平成18年(2006年)に85歳で逝去され、そのご主人の足跡を奥様の道子さんが、没後に資料を収集して「追憶本」を作ったものです。朝鮮京城(現ソウル)に出生した坂本邦弘氏は、学徒出陣が決まるとすぐ10月には道子さんと朝鮮神宮で結婚式を挙げ、11月に徴兵検査の体重計に乗った時に、たまたま南 次郎・総督がやってきて、「貴様名前は」と問われて「坂本邦弘」と応えたところがニュース映画になったそうで、道子さんは凛々しい新婚早々の夫の姿を見に一週間映画館に通い詰めたとのこと。

坂本氏は大学の柔道部に所属し、巨体で講道館三段の力があって早慶戦でも活躍してそれが新聞に載ったり、また昭和18年11月30日の出征時には、「学兵の夫励ます新妻の姿」と京城日報新聞にも載ったりしたので、当時、ご夫妻はひときわ目立つ“報国若夫婦”であったことが伺い知れます。
.. 2013年08月26日 10:04   No.599001

++ 島田守康 (大学生)…92回       
坂本氏が昭和20年(1945年)3月30日付で台湾から奥様に送った手紙には、このように記されています。
「大日本帝国の興亡正に此の一戦にあり。見よ、硫黄島の偉大なる精神力、誇れ、未だに大和魂は滅びず。台湾軍に厳として存在している限り、日本帝国健在なり。故、銃後の国民は憶測をしてはならぬ。日本の軍隊を信頼して日夜の防空訓練に励んで貰いたい。何時如何なる大難が来ようとも常日頃から心掛けねばならぬ老いたる母を守ってゆくことこそ、お前の銃後婦人の務めであることは分かり切っていると思う。俺達一同は意気正に天を衝く気迫をもって日夜の猛訓練に励み、そのうち銃後国民は胸の湧く、大戦果を大本営から聞くことが出来よう。期待して待っておられたし。航空便にて、先ずは近況たより   陸軍兵科見習士官 坂本邦弘」

終戦後、坂本氏は不良少年の更生施設の鑑別所勤めを定年まで勤め上げ、定年後は父親の神職を継いで、三重県の尾鷲(おわせ)神社の宮司として生涯を終えました。

渡邉氏は、同じ予備士官同期生の坂本氏の足跡を伝えようにも、「同僚が見当たらないよー、これは困ったことだ」と嘆いておられます。何しろ、長寿国ニッポンとは言え、同期性はどんどん亡くなって行き、話し合える仲間がいないわけです。「せめて判ってくれるだろう」大後輩の私に、この同期生の記録を廻わして寄こしたものです。

なお、奥様の道子さんが作られた自家本には、夫・邦弘氏だけでなく、同じく早稲田出身で中国の江蘇省で昭和14年に戦死された実兄の足跡も綴られています。

その実兄と同じ大正5年(1916年)生まれのわが父親は、沖縄戦前の疎開者満載の商船で博多に向かっている途次(昭和19年10月)、夜間、米潜水艦攻撃を受けて轟沈、二昼夜海に浮かんで奇跡的な生還を果たしています。翌朝の米艦載機の超低空「皆殺し作戦」で片腕銃創を受けながらも、軍務中に残してくれた写真によって、息子の私は、辛うじてこうした先輩方と体験を共有できるのかなと思っているところです。

(^-^)M・S

.. 2013年08月26日 10:12   No.599002
++ 島田守康 (大学生)…93回       
石原莞爾将軍と私への批判に関しての第三弾です。

昨日のある会合で、私が「第二の人生に石原将軍の研究をして後世に伝えたい」と述べたところ、出席者の一人から「いい加減、足を洗って軌道修正したら如何か」という意見が出ました。そして「いまどき、石原莞爾なんかを研究して何の役に立つのか」とも言われました。そこで私が、「あなたの石原像は一体、どこから来たものですか? 影響を与えた人の名前を教えて下さい」と問いました。すると、「石原六郎と戸辺栄一さんだ」ということでした。

私は「実弟の六郎さんとは面識が無く何とも言えないが、戸辺さんは私が今担当している機関誌『永久平和』の前編集長だったのでよく知っている。彼は必ずしも石原将軍の理解者とは言えない。編集長が戸辺さん(故人、元千葉県野田市市議会議長)から私に変わったのは、最高顧問の武田邦太郎氏(元参議院議員)の堪忍袋の緒が切れて解任され、それを私が引き受けたもの。その背景にあったのは、戸辺さんの考えが兄の石原将軍より弟の六郎さんに偏り、全体的な方向が逸脱していたからです」と述べました。

そこで私は更に「では、石原莞爾将軍の何がいけないのか事例を挙げて下さい」と言いました。すると彼は「満洲事変だよ。日蓮主義で建国するから、みなダメになったんだ」と言いました。そこで私は、こう反論しました。
「実は、花輪莞爾という国学院大学の教授(現在77歳)が、自分の名前に親から莞爾と付けられたので来歴を調べて大著『石原莞爾 独走す』(新潮社、2000年刊)を著したが、彼の記述は満洲事変で終わっている。事変後の石原将軍の足跡や変遷を全く見ることなく満洲事変で思考停止している。満洲事変が国家存亡をかけた日露戦争後の必死の権益確保にあって、この戦争で10万人の日本将兵が亡くなっており、日清戦争時の三国干渉以後も日本が当時、弱小国のまま欧米列強から圧迫されてきた歴史的事実を知らないと理解できない。日蓮主義で建国とは全くの誤解。渡満前に伊勢神宮に参拝して霊威を受けたものの、それは日蓮とは全く関係なく、宗教で国家を治める言動も事実もない。もちろん、熱心な日蓮信仰者だったが、他人に、ましてや国家に強要するなんていうことは一切なかったですよ」と。

そして、「人の評価は、世評ではなく自分の目で確かめなければ正しい判断に繋がらない。石原将軍の著作を何か直接ご覧になったことがありますか?」と問い、更に以前のメールでご紹介した鉛筆、ボールペン、茶筒の円運動を真下と真上から見た場合に真逆になること、下から目線では「醜悪」や「欠点」しか見えないが、上から目線では「美徳」や「美点」が見えてくる、即ち見る角度によって違ってくることを黒板に図解して説明しました。

「若造」の私の反論を受けた「年配者」の彼(76歳)は、不承不承、最後まで納得できない面持ちでしたが、「世評による自己正当化に満足して来た」己(おのれ)の非は内心感じたのではないでしょうか。

上記の「年配者」的な考えは、まだまだ世に蔓延しています。そうした方々には、私は自分のHP(ホームページ)に載せた和田 勁(つよし)氏(1895年〜1958年 享年63歳)の言葉をご紹介するのが最も相応しいのではないかと思っています。満洲国陸軍中将、満洲国協和会総務部長、東亜連盟同志会代表などを務めた傑物です。下記の言葉は、石原将軍が亡くなられた翌年(昭和25年、1950年)に出版された『石原莞爾研究』(精華会中央事務所発行)から抽出したものです。実に味わい深い追憶と思います。

(^-^)M・S

.. 2013年08月26日 10:56   No.599003
++ 島田守康 (大学生)…94回       
前回メールで、石原莞爾将軍の実弟・六郎氏の名前が出ましたので、この際、少し触れたいと思います。

この「六郎」という名前が示しているように、石原兄弟は男が六人(女四人)で莞爾は三男です。しかし、二人の兄は早逝、四男の次郎氏は海軍中佐になったものの航空機事故で殉職、最後に残ったのが六郎氏です。ゆえに、六郎氏は「唯一の偉大な兄」の足跡を正しく伝承しようと、誠心誠意、尽くしたようです。『選集』の解説など、その働きには目覚ましいものがあります。私は昭和11年(1936年)2・26事件時の兄・完爾(参謀本部作戦課長)の様子を書き残した文章が、特に印象に残っています。

一方、東大出身者でありながら「奇行者」としても知られ、五百旗頭 真・前防大校長のインタビューで聞いたように、「夏だったからでしょうが、フンドシ一枚の裸姿で、畳に手をついてお辞儀をされるとフンドシが浮いてチンポが見えるという……」ように、服装や見栄えには全く無頓着だったようです。私は他の多くの方々からも、同じような証言を聞いています。ですが、六郎氏が強調されていたのは、「兄は右翼の大立者とかファシストとかの評価は大間違いだ」ということでした。

さて問題は、石原六郎氏が昭和51年(1976年)に亡くなる時(1904年〜76年、享年72歳)の最期の言葉を、「兄貴も文化大革命にやられたのだな……」と聞いたという戸辺栄一氏(前編集長、野田市市議会議長、2009年没、享年85歳)が、この言葉を「宗教→日蓮教」と勝手に拡大解釈し、反日蓮教の立場から、「満洲事変も5・15事件も2・26事件も何もかも、日蓮教が仕掛けて戦前の日本をぶっ壊した」→「その親玉の石原莞爾が悪い」と結局、表向きはともかく、本心は石原将軍への強い宗教否定論に繋がっていたわけです。

私は、「最期の遺言」の存否はともかく、「兄貴を否定する末弟の言葉」としての解釈には疑問を持っています。六郎氏は、常々「兄の事は兄自身が筆にした膨大な著作があるのだから、それを丹念に読めばおのずと真意が理解できる」と語って、巷の本は参考にしても全幅の信は置いていなかったと言います。

なお、私はだいぶ以前に六郎氏逝去の翌年1月に開かれた慰霊祭の際、宮城県仙台市の島野 武・市長(1905〜84年、享年79歳)が綴った六郎氏への弔辞を見たことがあります。「東大の同級生」と聞いていましたが、今日調べてみると六郎氏が1歳年上で、島野氏は学生左翼運動で退学の身になっていました。二人の接点がどこにあったのか詳らかではありませんが、島野氏は『「日米対決」と石原莞爾』(たまいらぼ、1993年刊)の著者、仏系米人マーク・ピーティの取材を受けているので、石原将軍のことに関しては六郎氏を通じて、かなり深い知識があったものと思われます。

島野氏は仙台藩の名家出身で、私が高校時代、市役所で身近に見た姿は笑顔がとても素敵(「ほほえみの市長」と呼ばれていた)で、インテリとしての気品がありました。任期7期、全国市長会会長も務め、現役での逝去でした。

ところで、石原六郎氏が書き残してくれたものには、銻夫人逝去時の「挨拶状」があります。これによって、情報の少なかった銻夫人のことが知られて、今日貴重な資料となっています。ともあれ、今回登場した方々はほとんど鬼籍に入られた方々なので、今はただただご冥福をお祈りするのみです。

※写真の前列右端が末弟・六郎氏、一人置いて左隣が銻夫人(昭和49年没、78歳)。

(^-^)M・S

.. 2013年08月28日 08:20   No.599004
++ 島田守康 (大学生)…95回       
前回ご紹介の島野 武・仙台市長で思い出すことは、言うまでもなく、石原莞爾将軍は仙台の陸軍幼年学校を卒業し、満洲赴任後は第二師団歩兵第四連隊の隊長(大佐)として昭和8年〜10年までの2年間赴任しているので、石原将軍にとって仙台は因縁浅からぬ土地柄です。

石原将軍が連隊長を務めた第四連隊の兵舎の一部は、現在も兵営跡地の榴岡(つつじがおか)公園内に残されており、往時を偲ぶことができます。兵舎は県内で最古の木造洋風建築です。

なお、満洲事変時(昭和6年、1931年)に活躍した関東軍1万余の兵力の半数は、多門二郎・陸軍中将(前職は陸大校長)率いるこの仙台の第二師団の兵隊で、どうしてこの東北の部隊が満洲に派遣されたのかと言えば、それは「寒さに強い」のと「精鋭部隊」だからでした。

このことで更に思い出すのは、満洲で活躍した伊達順之助氏のことです。仙台藩伊達家(正宗の子供の次兄が相続)は、幕末に家系が途絶える危機に瀕して長兄相続の伊予宇和島藩(愛媛県)から順之助氏の父・宗敦(むねあつ)が世継ぎしたものですが、明治時代に宗敦が仙台藩知事になったものの、仙台直系の伊達家歴代当主に数えられないという「お家騒動」の結果、父の六男として出生した順之助氏としては、どうしても「新天地=満洲」で身を立てるほか無かったものと思われます。

もともと伊達家は徳川幕府開闢以来、それまで家康と正宗との軋轢関係で東北と四国に別々に押し込められてきた経緯があり、順之助氏には長兄子孫の誇りや代表として「新天地=満洲で起死回生の一旗を上げたい」という意気込みがあったものと思います。しかし、これは満州荒野での一大賭けでもあったわけです。

世評では、伊達順之助氏(1892年〜1948年、享年56歳)は「大陸浪人」「馬賊の頭領」と描かれていますが、誤まった石原像と同じ全くの誤解で、若かりし頃の奔放な生活、銃術に優れた一面だけがクローズアップされて、そのように描かれるようになったわけです。

実際は立派な正規の満洲国軍人(中将)で、ただ当時、満洲建国(昭和7年3月)後の国軍の越境は許されなかったため、昭和13年(1938年)、山東出兵に際しては「山東自治連軍」、別称「張宗援(順之助氏の中国名)軍」と称して、私的軍隊の司令官(大将)として動いたわけです。いわば、満洲国護持のための側面援護射撃、つまり誰もイヤがってやろうとしないことを、あえて「裏方(汚れ役)」に自ら買って出たわけです。


.. 2013年08月30日 09:48   No.599005
++ 島田守康 (大学生)…96回       
しかし、もし満洲国が安泰に存続していたなら、そして彼の働きの功績が正当に評価されたならば、彼は満洲国で間違いなく相当の地位に就けたはずです。「満洲での伊達家の再興」は、決して夢ではなかったのです。順之助氏が石原将軍の民族協和の精神に則り、日本国籍を離脱したとは言え、旧雄藩の満洲での一番乗りと盤石な地位確保の可能性は、実に大だったのです。

しかしながら、当時、満洲奉天の実力軍人だった張宗昌(昭和7年暗殺死、51歳)と「義兄弟」の関係を結んだことが、満洲国崩壊後に、順之助氏が逮捕・銃殺刑という不運に見舞われる契機となります。

父親・順之助氏の生涯については長男の伊達宗義氏(元拓殖大学海外事情研究所長、現在92歳)へのインタビューで、その実像を知ることができました。順之助氏に対する助命嘆願書を石原将軍が書き、処刑当日には家族と石原将軍に遺書をしたため、また反対に石原将軍の葬儀には息子の宗義氏が参列したことなど、その絆(きずな)、繋がりの深さを初めて知りました。

伊達宗義氏へのインタビューの際、遺書の写しを手書きして手渡してくれました。父親とそっくりの達筆な字体にビックリ、この一事によっても血筋の良さを感じたわけですが、記事は『永久平和』誌の第92号と93号に掲載しています。内容を知りたい方にはコピーをお送りしますので、お知らせ下さい。宗義氏はこのインタビューがキッカケで篤志会員になってくれました。

なお、ともに「伊達政宗」そっくり似だった順之助・宗義親子は終戦時(昭和20年、1945年)、中国の青島で囚われの身となりました。「殺されるなら一緒に」と宗義氏が父親に咄嗟に付いて行った結果ですが、翌年に宗義氏だけが釈放されて、順之助氏は上海に移されて昭和23年9月9日、銃殺刑に処せられました。監獄に一緒に居る時、父親は「俺は中国を愛して来た。その中国から処刑されるなら、それでいいのだ」と何度も言っていたそうです。真因は、張宗昌軍による残虐殺人への国府軍側の報復だったようです。

実は、島野 武・仙台市長(7期、26年9ヶ月間在任、79歳)も終戦時には上海におり、「藩主」の息子の身については「元家臣」の身として存じ上げていた可能性があります。島野氏の兄は元共産党員で、その後転向して南京国民政府の顧問になっており、その兄を頼りに上海に行っていたということです。実は、島野氏の母親は、薩摩藩の牛島家出身で、母の弟が沖縄戦で奮戦し自害した司令官、牛島 満・陸軍中将です。島野氏には武人の血は人一倍流れており、軍人と共産党員の道は紙一重だったわけです。

ともあれ、私は今、誤まった石原莞爾像と伊達順之助像の払拭は一対のもの、との感を深くしています。

(^-^)M・S

.. 2013年08月30日 10:03   No.599006
++ 島田守康 (大学生)…97回       
前回メールで、沖縄戦の司令官、牛島 満・陸軍中将の名前が出ましたが、実は、私は30年ほど前に元部下の方と沖縄に慰霊の旅をしたことがあります。軍民が最後に追いつめられた最南端・摩文仁の丘の洞窟には当時、まだ白骨体が幾つも見られ、「戦後は終わっていない」と強く感じたものです。

その元部下とは、石塚友康先生(平成7年没、84歳)で、私が長年居た国際自然医学会お茶ノ水クリニックのカイロ部門を担当されていた漢方医でした。中央大学法学部卒、昭和12年(1937年)以後、第6師団の旅団長だった牛島少将率いる歩兵第36旅団に属して、対支戦を経験して来られた方です。昭和14年以降は陸軍省入り、大尉として昭和16年9月のゾルゲ事件の摘発に関係しています。

牛島少将(1887年〜1845年6月23日)は、昭和14年に中将に昇進して第11師団の師団長、昭和16年の太平洋戦争後は陸軍士官学校の校長、そして昭和19年(1941年)9月には「風雲急を告げる」沖縄の第32軍司令官として沖縄に赴任しています。前月には疎開船の「対馬丸」6700トンが米潜水艦によって撃沈され、1476名が死亡していますが、犠牲者の約半数が学童だったことから、「学童悲劇の対馬丸」として知られています。

実は、沖縄人の本土疎開を任務として派遣されていたわが父親(対空砲撃手)が出航直前の同船を撮影しており、これは生前、私が父親から借り受けて手許にあったもので、69年ぶり、本邦初公開です。間違いがないか、正式写真も添付します。中央の大きな煙突と前後のマストが特徴なので、本人の話に間違いはないと思います。また、商船護衛の本人撮影の写真も数枚添付します。

.. 2013年09月01日 21:19   No.599007
++ 島田守康 (大学生)…98回       
沖縄からの疎開輸送は、昭和19年7月から翌年3月まで艦船延べ187隻が投入され、日本本土へ8万人、台湾へ2万人が疎開したと言います。うち27隻が撃沈されたとのことですが、わが父親もその1隻に当たり、昭和19年10月に奄美大島近海で撃沈されています。操舵手の見事なジグジグ走航で何度も魚雷を回避したものの、深夜真っ暗闇での攻撃には耐えられず、二昼夜漂い続けて生還した教訓として、父親は「海は塩分が高いので、気持ちを落ち着かせていれば人間の体は浮く。慌てたり恐怖心を持つと体が重くなって沈む。もっとも、250名中3名の一人として自分が助かったのは南海の温かい海だったから。あれが以前行っていたアリューシャンなら一コロだったが……」と言っていました。

なお、父親(享年95歳)は激しく波立ち全力逃航する船からの対空砲は一発も当たらなかったということですが、早大学徒動員でフィリピンから台湾に戻れた渡邉光治氏(現在90歳)は、「我が方の制海権も制空権もない魔のバシー海峡を、よくぞ突破できたものであった。あの高射砲隊長以下の実力、船長の高度の操舵術も勿論であるが、あるいはそれは乗船がもっていた“運”であったかも知れない。とにもかくにも、我々は助かったのである」と以前にご紹介した「私の戦争体験」に綴っています。商船設置の対空砲が役立った事例が、ここに読み取れます。

翌10月からは空爆が始まり、まさに牛島中将は息をつく暇もない防衛ラインの構築に追われますが、ご承知のように、翌年4月1日からの沖縄戦はまさに死闘に次ぐ死闘の連続で、約55万の米連合軍と11万余日本軍5対1の兵力、火力の圧倒的な格差の中、日本将兵はよく奮戦したと思います。両軍戦闘の途次、島民約10万人もの犠牲者を出したことは誠に痛ましい出来事ですが、私が生き残った沖縄のお爺さんから聞いた話では、「戦闘中はもちろんだったが、開戦前、ある日、島の山腹から海を見渡すと、380度黒い軍艦がぐるっと取り囲んでいてネズミ一匹、もう絶対に逃げられないと思った。あの時の、助からないという絶望感といったらなかった……」と。

.. 2013年09月01日 21:36   No.599008
++ 島田守康 (大学生)…99回       
なお、牛島司令官のことについては、さまざまな評価があります。ウィキペディア記事によると、評論家の半藤一利氏は、自著『指揮官と参謀』(文藝春秋、1988年刊)の中で牛島司令官の人間性や武勇を評価しつつも、「悠揚秦然と微笑をうかべるのみではいけなかった」と司令官としてすべてを参謀任せにしたことを批判していると言います。
一方、以前ご紹介した『師団長 石原莞爾』の著者で石原将軍の部下だった奥田鑛一郎氏(元陸軍少佐)は、『沖縄軍司令官 牛島満』 (芙蓉書房、1985年刊)の中で首里撤退の誤りを指摘しつつも、「生き残った第32軍の将兵はもちろん、沖縄県民の牛島司令官個人への感情は、敬愛の気持ちこそあれ、反感や怨磋の声は聞かれなかった」と述べています。

軍事評論家である伊藤正徳氏は「小学校の校長によし、大学の総長にしてもよし。およそ校長として牛島ほど似合いの人は無い」と天性の教育者であったと評し、またアメリカの軍事評論家ハンソン・ボールドウィンは、「太平洋戦争において日本の名将を二人挙げるとするならば、陸の牛島・海の田中」と評し(田中とは、第二水雷戦隊司令官であった田中頼三海軍中将のこと)、牛島司令官の采配を高く評価しています。

ともかく、この沖縄戦では、日本側、米軍側合わせて20万人以上の方が亡くなりました。そして、牛島司令官は、印象深い辞世の句を残しています。

「矢弾尽き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らん」
「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」
また、沖縄方面根拠地隊司令官だった大田 實・海軍少将が自決に先立つ6月6日、次官に宛てた電報も心を打ちます。 

    「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

沖縄戦の戦没者全員に黙祷あるのみです。

※添付の写真は、石塚友康先生(山形県米沢市出身)の一周忌で読んだ弔辞を同人誌『流砂文芸』に載せたもの。
※父親の商船以外の写真は、ネット上に公開されている沖縄戦に関連するもの。

(^-^)M・S

.. 2013年09月01日 21:46   No.599009
++ 島田守康 (大学院生)…100回       
「女体盛りは男の密かなロマンなり」――と語ったのは誰だか知りませんが、「女体盛り」の第二弾です。

先週、ニュージーランドの首相、ジョン・キー氏(52歳)の娘さん(20歳)が、何と「女体盛り」の芸術作品を発表しました。その美しい姿態に盛り付けた寿司は奇抜ながらも立派な芸術作品に仕上がっています。これを見た父親も「彼女の作品を大変誇りに思う」と語っています。

ただし、日本人の目を疑う「タコと神風」という作品もあり、「?」と首をかしげるものもあります。が、首相の娘さんともあろう人が日本の深い文化(?)に興味を示してくれて、しかも「体を張って」表現してくれたことについては感謝と敬意を払いたいです。

なお、この「女体盛り」は各国の食べ物で類似のものがあるとのことで、しかもこれは何も男性の専売特許でもなさそうです。外国の女性軍にも刺身の「男体盛り」は結構、楽しまれているようです。

最近の話題では、東京・神田の店が今年から「女体盛りカレー」を「18歳未満お断り」として販売したところ、爆発的な人気を博しているそうです。「18禁」に惹かれて注文すると、「唐揚げと豚カツの乗った普通のカレー」が出て来て、「なんだ、客を馬鹿にしているのか」と最初反応するのですが、食べていくうちに皿の底から、何と女体の絵が出てくる……という仕掛けです。馬鹿にされながらも、最後は苦笑いして銭を払う仕組みです。

今では、わざわざ店に行かなくても家庭で楽しめるように、「女体盛り」皿なるものが売り出されています。なるほど、これなら誰はばかることなく楽しめるわけです。

しかし、この高級な皿(写真のものは1260円、送料別、通販)も買い求めることができない御仁――例えば私のような者ですが――には、盛り付けだけを「女体盛り」風にすればいいわけです。これなら日常のオカズ代で済みます。ただし、こちらは、かなり高度な芸術性が要求されるので高級具材を使うと、結局は高くつくので「女体盛り」皿を手に入れるのが最も現実的かも知れません……。

最後に、日頃「難解」メールをご愛読して下さっている皆様に感謝して、おまけに日本人の「女体盛り」映像もお付けします。

(^-^)M・S

.. 2013年09月04日 21:40   No.599010


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