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■--(無題)
++ 島田守康 (大学生)…89回          

以前のメール(68回)で石原完爾将軍と私への批判をお伝えしましたが、読者のお一人から「石原将軍の素晴しさを証明するモノは、終戦直後の毎日新聞に載った石原氏の文章だと思う」「あの時期にあれだけの考えを持った日本人はいなかったと私は思う」「そこで提案です。毎年夏には『永久平和』の号外としてあの記事を必ず紙ないしメールで“原点”を発信していく……。ぜひご検討下さい」と。

石原将軍と私への批判には、こういう文言もありました。
「彼には下劣な点もあり、誰彼かまわず公衆の面前で罵倒しては、いらぬ敵を作っては孤立している。教養や品格に疑問を感じさせる言動もある。彼を持ちあげることは、貴会の存在意義ではなかろう」「石原には旧軍人の一人として当然祖国を破滅に導いた責任がある。彼もまた旧軍人として批判すべきは批判せねばならない。これを避けて、いたずらにヨイショ記事を連ねるのは自殺行為ですよ」と。

私は、こうした批判文を受けて、いつも思い出すのは、朝鮮人だったそうねい柱氏(88歳)のことです。そう氏は戦前の昭和8年(1933年)、京大「滝川事件」に連座して退学したコチコチの左翼学生で、立命館大学へ転学ののち再び京大の大学院に進んだインテリです。そして昭和13年(1938年)12月、初めて会った石原将軍(少将、当時、舞鶴要塞司令官)には「悪しき軍人の代表格」と思って接したものの、石原将軍の温かい人格に触れて、その深い信仰と思想を知るや一転、その護持を決意して、そのボディーガード役として肉体を鍛え、極真会の大山倍達(ますたつ)が師匠と仰ぐほどの武道両道の達人になった人物です。

そして初対面から10年後、将軍が亡くなった昭和24年(1949年)の葬儀(2000人参加)では、葬儀副委員長として式長を務めるほど石原側近に変身した人物です。

.. 2013年08月26日 08:17   No.596001

++ 島田守康 (大学生)…90回       
戦後は韓国居留民団の団長などを務め、その後の人生は民族協和の高徳人士として、その石原精神を誰よりも伝えようとした方でした。上記に「朝鮮人だった」と過去形で表記したのは、そう氏は出自民族を乗り超えて、それこそ石原将軍が目指した民族協和の代表的コスモポリタン(世界人)に成長していたからです。

ある時、そう氏は私に、「私は石原将軍に最も遅れてやってきた人物だったが、いつの間にか気が付いたら先頭を走る人物になっていた。後のカラスが先頭になった事例かな……」と笑って語りました。

人物像の180度の転換――、実は私の石原像も全くそうで、教科書的に「戦争を仕掛けた悪しき軍人」と思い込んで来た私は、安藤徳次郎氏(93歳、金石社社長)のたび重なる熱心な話とその後にお会いした方々の素晴さによって180度の転換を遂げたのでした。

よって、石原将軍や私に対する批判者に対して、私は悲観していません。彼らには転換するキッカケが無いだけで、むしろ私の感化力の無さが問題だと思っています。

この機会に、提言のあった終戦直後の石原将軍の談話(8月28日付毎日新聞)をご紹介しましょう。この談話は、「新日本建設の道」の大見出しに「世界文化の達観 心からの懺悔 ――怒涛の中に“民族の禊”」という副題が付いています。敗戦直後の反省と希望を語った、何度読んでも日本人を勇気づける明言です。長いので添付のワード文書をご覧下さい。

また、「誰彼かまわず公衆の面前で罵倒しては、いらぬ敵を作っては孤立している」との批判点については、表面上の言葉づらでは誤解しやすい石原将軍のことを以前のメールでご紹介したことがありますが、この際、再録したいと思います。筆者は海軍第五航空艦隊司令部の鹿屋基地(鹿児島県)で特攻作戦を敢行した宇垣 纏(まとめ、中将)司令官機らを8月15日に見送った伊藤清孝氏(故人)です。原稿の題は「石原将軍の清冽な人格と温かさ」。文面は携帯の人も読めるよう、下記に転写します。

(^-^)M・S

.. 2013年08月26日 08:52   No.596002


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