|
以前のメール(68回)で石原完爾将軍と私への批判をお伝えしましたが、読者のお一人から「石原将軍の素晴しさを証明するモノは、終戦直後の毎日新聞に載った石原氏の文章だと思う」「あの時期にあれだけの考えを持った日本人はいなかったと私は思う」「そこで提案です。毎年夏には『永久平和』の号外としてあの記事を必ず紙ないしメールで“原点”を発信していく……。ぜひご検討下さい」と。 石原将軍と私への批判には、こういう文言もありました。 「彼には下劣な点もあり、誰彼かまわず公衆の面前で罵倒しては、いらぬ敵を作っては孤立している。教養や品格に疑問を感じさせる言動もある。彼を持ちあげることは、貴会の存在意義ではなかろう」「石原には旧軍人の一人として当然祖国を破滅に導いた責任がある。彼もまた旧軍人として批判すべきは批判せねばならない。これを避けて、いたずらにヨイショ記事を連ねるのは自殺行為ですよ」と。 私は、こうした批判文を受けて、いつも思い出すのは、朝鮮人だったそうねい柱氏(88歳)のことです。そう氏は戦前の昭和8年(1933年)、京大「滝川事件」に連座して退学したコチコチの左翼学生で、立命館大学へ転学ののち再び京大の大学院に進んだインテリです。そして昭和13年(1938年)12月、初めて会った石原将軍(少将、当時、舞鶴要塞司令官)には「悪しき軍人の代表格」と思って接したものの、石原将軍の温かい人格に触れて、その深い信仰と思想を知るや一転、その護持を決意して、そのボディーガード役として肉体を鍛え、極真会の大山倍達(ますたつ)が師匠と仰ぐほどの武道両道の達人になった人物です。 そして初対面から10年後、将軍が亡くなった昭和24年(1949年)の葬儀(2000人参加)では、葬儀副委員長として式長を務めるほど石原側近に変身した人物です。
.. 2013年08月26日 08:17 No.596001
|