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■--凛美ニッポン
++ 島田守康 (高校生)…69回          

本日、わが石研の『永久平和』最新号(第125号)が発行されました。今号のトピックは、巻頭言に新会長に就任した仲條拓躬(たくみ)氏(49歳)の就任挨拶です。氏は戦後生まれの初の就任で、われわれ昭和20年「ダメ」世代を飛び越えた30年代末の「出世頭」です。

仲條拓躬氏の父親は長年石研の事務長をされた立一氏(享年75歳)で、氏のお宅には石原将軍関係資料が沢山あり、資料保存の継承、会の若返り、活性化という観点からも新会長就任は相応しいものと思います。

また今号の特集は、昨年11月に白寿(99歳)で逝去された武田邦太郎先生(本会最高顧問、元参議院議員)で、私が生前に伺っていたインタビュー記事です。約10年ほど前に5回〜6回ほど伺っていた話なので、忘れていたことも多く、今回、新たに再認識した点も少なくありません。また、その想い出話は、戦前に活躍されていた方々ばかりなので、貴重な「歴史証言」とも思います。

記事中で驚いたのは、ドイツが不可侵条約を破ってソ連に攻め込んだ「独ソ戦争」(1941年6月〜翌年2月)について、石原将軍(京都第16師団長)が「初戦はヒトラーが勝つ。終わりはスターリンが勝つ。最後の決戦はスターリングラードあたりだろう。兵站線が陸上輸送でヒトラーは不利だ。ボルガ河を使うスターリンの方が有利だ。結局、ソ連が勝つだろう」と語ったことです。その後、戦局がまさに、そのとおりに推移して、武田先生が「この人は凄い人だな」と感心したのも無理からぬことで、改めて石原将軍の戦局、戦略観が、いかに優れていたかの証左足り得ます。

今号では、和田 勁(東亜聯盟同志会会長)のご子息の獅郎氏(83歳)から、同じく昨年11月に逝去された佐藤秀一郎・前副会長(享年84歳、元大東文化大学理事)への想い出話と、戦時中、東亜聯盟員の一人として活動された眞山文子さん(95歳)の「石原莞爾とともに防空壕へ」という想い出話も併載しています。眞山さんの記事は、月刊『文藝春秋』の新年特別号の特集「激動の90年 歴史を動かした90人」の中の一人として掲載されたものです。

なお今月中旬、私はパソコンに保存していた写真のうち、約10年ほど前の中から珍しい写真を掘り起こすことが出来ました。一つは、関東軍の石原参謀副長と東條英機参謀長との植田謙吉・司令官を挟んだ並列写真で、これは東條参謀長の陸軍次官栄転の記念写真(昭和13年、1938年6月)だそうで、出典の本は片倉 衷(関東軍参謀、当事中佐)のものですが、書名は失念しました。この写真からも、二人が「不仲であった緊張感」が伺えます。

.. 2013年07月27日 13:21   No.583001

++ 島田守康 (大学生)…70回       
もう一つは、インタビュー時に武田先生からお借りした若かりし頃の写真16枚も出てきました。ともに、すっかり忘れていたもので「掘り出し物に出会った」嬉しい気分です。

また4月中旬、私の入院直前には現代史研究家の田中秀雄氏(61歳)から、石原将軍が「満洲国建国」に関する国際連盟総会(ジュネーブ)に派遣された時の『満州日報』記事が送られてきました。

記事は4種類で、@昭和7年(1932年)11月20日付は「全世界と闘うも断じて譲らず」、A翌昭和8年(1933年)1月27日付は「松岡全権の熱弁に石原大佐感慨」で、K・T生と名乗る新聞記者の記事。この内容は、松岡全権が前年の12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を傍聴した時の感想で、松岡全権の内容は、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」との「十字架上の日本」とでも題すべき有名な発言、B昭和8年(1933年)3月21日付は「正義の名に隠れて私利を図る聯盟 石原大佐談」、これはシベリア鉄道での帰途、北満の満洲里に立ち寄った際の談話、C同じく昭和8年(1933年)3月24日付は「石原大佐 歓迎宴」でこれも帰途、奉天の大和ホテルでの発言紹介……。

どれも初めて目にする貴重なもので、この場を借りて田中氏のご厚意に改めて感謝申し上げます。

今回も、PR用の表紙と編集後記のPDFを添付します。

(^-^)M・S

.. 2013年07月27日 13:28   No.583002
++ 島田守康 (大学生)…71回       
前回、田中秀雄氏からの『満洲日報』の新聞記事をご紹介しましたが、それ以前にも2っ記事が送られて来ていました。

一つは、昭和7年(1932年)4月27日付のリットン調査団に関して「事変原因を詳細説明 我軍当局地図、写真等を示し 調査団きょう更に会見」というものです。この記事で、「参考地図、写真等によって詳細に当事の状況について説明した」軍当局者が、昨日の第三次会見に初めて加わった石原主任参謀であることが明記され、しかも「委員側は非常に満足した」とゴシックで強調されています。

相手に理解を得るには言葉だけでは難しいものがありますが、石原莞爾・関東軍参謀(中佐)は、地図や写真を利用して、かつ詳細な説明を加えて相手側に充分な理解を得ています。この記事で今まで不明であったリットン調査団と石原将軍の関係が初めて明らかにされたのですが、第四次の今日(27日)の会見にも加わったのかどうかは判りません。

もう一つは、同じく昭和7年(1932年)8月17日付の記事で、ここでは「満洲を去る石原大佐と語る 例の寡言で思出話し」と電話取材した内容を伝えています。石原参謀は8月8日付で大佐に昇格して東京の陸軍兵器廠付となり日本に帰国することになったわけですが、記事は満洲の奉天を去るに当たっての心境=「北満方面の反満洲国運動も本年一杯くらいで(前年の9月18日)事変前よりよくなるでしょう」との将来見通しを語っています。「例の寡言(無口)」という表現は、ジョーク(冗句)と思います。

この満洲国に関しては、石原将軍は昭和22年(1947年)5月1日と2日の両日、東京裁判の酒田臨時法廷に参考人として出席していますが、終了後の夜に宿舎の酒田ホテルに訪ねて来たUPとAPの記者二人に、次のように語っています(側近者の高木清寿氏が石原将軍より口述筆記)。

「満洲国を世間では、いろいろと悪く言うが、なるほどその一面だけに固執してみれば、たしかに日本軍の侵略的な結果だけが目に映る。しかし満洲国の誕生に際しての経緯は、一般には認識されていない。それは後世の歴史家によって、改めて検討を要する大問題であり、世界的意義を有するものである。このままでは後世に誤まって伝えられることになる」

「元来、満洲というところは、東亜諸民族混在の地で、各民族おのおの言い分があり、民族間の闘争の絶え間がなかったところである。激しいこの闘争と苦悶の結果、協和がなくては生存も、繁栄も出来ないことを悟って、民族協和という新道徳が創造され、民族協和のうるわしい理想郷の建設を目指して、満洲国は生まれたのである」


.. 2013年07月27日 17:09   No.583003
++ 島田守康 (大学生)…72回       
「満洲国は日本軍が武力で勝手につくったように、世間では思っているようだ。当事の日本国内においてさえ、満洲国は認めるべきではない、侵略的占領反対といった考え方が多く、独立国の出現に多くのものが反対したほどであった。それほど日本人自身の満洲観が、現地と内地の見方に隔たりがあり、統一されていなかったのだ」

「結果的に見て、満洲国は遂に心ない軍人や官僚たちによって誤まられて、今日“侵略”のレッテルを貼られるようになった。しかし、建国当時の理想と創意、そして心ある人たちの精進は、実に素晴しいものであった。このことでさえ、時局便乗者流の心ない批判と悲壮な観察によって冒涜されている状態である。満洲国の失敗の原因は、非革新的な官僚の行動を計算に入れていなかったことと、中国人の一般良民と漢奸を区別できなかったことである」

「同時に、これらに対する内面指導が非常にマトを外れていたことも、その一つだ。満洲でも華北でも、また日本軍政の行なわれていた各地でも、必ずと言ってよいほど中国人漢奸の喰い物にされていた。彼らは、いかにも日本のためを思い、中国のためを思うかのように振る舞い、甘言をもって軍に取り入り、軍を背景に私利私欲を図った。日本軍は中国人の嫌う中国人、中国人を売り物にする漢奸を信用して大事をまかせていたのである。心ある中国人からすれば、全く笑止の沙汰であっただろう。中国人の日本及び日本軍に対する不信侮蔑の原因も、またそこにあったのだ」

この石原将軍の言葉の中には「満洲建国の世界的意義と失敗の原因」が端的に語られています。今後、中国、南北朝鮮人との付き合い方にも参考になる内容と思います。

(^-^)M・S

.. 2013年07月27日 17:15   No.583004
++ 島田守康 (大学生)…73回       
昨日、2年前の「新生・ニッポン(69)」でご紹介した奥田鑛一郎著『師団長 石原莞爾』(芙蓉書房、昭和59年刊)を読了しました。

ある人からだいぶ以前に「手に入りにくいものだから」と言って全頁をコピーしたものを頂いていたものですが、たまたま2年前に神田の古本屋で見つけたので、今回、術後療養で時間が取れたため読み通すことができたわけです。

前回は、この本の序文を書いた福永健司氏(当事、衆議院議長)の全文をご紹介したのですが、感動的な内容なので、今度はワード文書で再録します。肋膜炎にかかり京都の陸軍病院に入院した第9連隊の経理部見習士官(東大卒)の福永氏に関して、連隊長から報告を受けた石原師団長は、「福永のような人材は、大将や中将として陸軍に残すのなら別だが、下級将校として縛りつけておくのは適当でない。この際、彼の兵役を免除し、療養施設の整った民間病院で治療に専念さすことが必要だ。そして、健康を回復したうえで、彼本来の能力を国のためにフルに発揮させることを考えるべきだ」と明快に言い切ったと言います。

著者の奥田鑛一郎氏は、この第16師団麾下の第9連隊の連隊旗手を務めた軍人(少尉、終戦時は少佐)で、福永見習士官は銃剣術もスポーツも万能で、当時、周囲から一目置かれる存在だったと述べています。

奥田氏は、祖父の代から奇しき縁で石原家と関係があったとのことで、直接薫陶を受けた石原将軍のことを感動を以って綴っています。京都第16師団長時代の石原将軍の真姿は、まさしく奥田氏でなければ描き得ないものです。そして「むすび」で著者は、「石原将軍は名将、知将、雄将といった一般的な通念を遥かに超えた超絶の神将であると思っている」と語っています。

どうでしょうか、“超絶の神将”とまで言ってくれる部下を持てた石原将軍は軍人として幸せではなかったでしょうか? 本人に伝えれば「バカ者!、俺をかいかぶるのも甚だしい」と怒ったでしょうが、奥田氏は「長い期間ではなかったが、直接膚に接して、将軍のエキスを吸収できたことを無上の幸せと、今さらのように喜んでいるものである」と語っています。

だからといって本書の石原像がとりたてて誇張されている印象は全くなく、自分が関係しなかった予備役後の石原将軍の様子は、側近だった高木清寿氏から聞き取って、その正確さを期しています。

.. 2013年07月29日 12:23   No.583005
++ 島田守康 (大学生)…74回       
本日、読売新聞の埼玉県内版に私のコメントが載りました。昨日の高校県大会の決勝戦で、浦和学院が優勝したことに関してコメントを求められてのことです。

昨日、3時頃、たまたまJR浦和駅に降り立って、駅ビルをブラブラしたあとホームに向かったところ、読売新聞の社員が号外を配っていました。何となく手渡されて受け取って見ると、「浦学連覇 18安打猛攻 川越東破る」とありました。これを抱えて改札の方に向かって行くと、「読売新聞の者ですが、ちょっとお話を聞かせて下さい」と30代後半の男性記者が声を掛けて来ました。「本日、浦和学院が優勝したのですが、ご感想をお聞かせ下さい」と。以下、記者との一問一答……。

「それは良かったですね。お目出とうございます」と私。次に記者は、「この決勝戦をご覧になりましたか?」と聞いたので、「いえ、私は仕事をしていたので、どんな試合だったのか知りません」と。実際は「仕事」は真っ赤なウソで、「友人と他の場所で話し込んでいた」のでしたが……。

さらに記者は「地元の方ですか?」と聞きました。「生まれは熊谷ですが、この浦和には25年ほど住んでいます。かつては出身地の熊谷商業が強かったのですが、今は断然、浦和学院ですね」

記者「これからの全国大会に向けて、何か期待するものは……」
私「そうですね。埼玉県と言うと、他県の人は川越や大宮より“ウラワ”を思い浮かべる人が多いです。浦和に長く居住している者として、仮に決勝戦に残れなくとも上位に喰い込んで、浦和学院の“ウラワ”の名を全国にとどろかせて欲しいですね。学問は浦和高校、野球は浦和学院と、“ウラワ”が全国の人々の脳裏に焼きつくよう頑張って欲しいですね」と。

記者「コメント、有り難うございました」

浦和学院は今年春の全国大会で初優勝を果たし、今夏の甲子園では「春夏」の連覇がかかっているわけですが、読売の記者は取材内容をコンパクトによくまとめてくれました。近くでは朝日新聞も号外を配っていましたが、特に私が読売の号外を手にしていたからということではなく、アトランダムな突撃取材でした。

読売新聞に自分の名前が出たのは、14年ほど前に読売カルチャーセンター特別講座の聴講生募集以来です。写真は、40年ほど前、早稲田大学の学内でリンチ殺人事件が起き、その反対集会をしている野次馬の一人として朝日新聞に載ったことがあります。

石原将軍に関しては、いつでもコメントできるよう、日々精進しておかねばなりませんね……。

(^-^)M・S

.. 2013年07月30日 12:06   No.583006
++ 島田守康 (大学生)…75回       
いま海外のオカルトブロガーの間で火星の地表にある物体と埼玉県にある「前方後円墳」がよく似ている、と話題になっているそうです。

 ▼動画 こちら

この3世紀〜7世紀に作られた「前方後円墳」は古代日本におけるオーソドックスな墓のスタイルですが、特にサイズが埼玉県行田市の埼玉(さきたま)にある、稲荷山古墳とそっくりとのことです。ここからは国宝の 「金錯銘鉄剣」も出土していますが、もしこの古墳が火星由来のモノとなると、従来の常識を覆す「パラダイム・シフト(価値観の劇的変化)」が起きるというわけです。

実は、「前方」が円墳なのか「後方」が円墳なのか定説はありません。あくまで仮の名称として「後方部が円形である」と言ったまでで、ましてやその形や出現の由来については皆目判っていません。しかし、この形は、ご承知のようにユダヤ教に関係する「マナの壷」とする説が昔からあります。

ヘブライ語でマナとはパンの事、そのパンを入れるための壷を「マナの壷」と言いますが、この「マナの壷」はモーゼの十戒が書かれ た「十戒石」と、「アロンの杖」と並んでユダヤ教の「三種の神器」の一つとされます。「アロンの杖」とは出エジプト時に、モーセが杖を掲げると海が割れて道を開き、追ってきたエジプト軍を海に飲み込んだ杖とされるものです。

とにかく、わが国の夏祭りの神輿(みこし)は、その「十戒石」を2個収めた「失われしアーク(聖櫃)」ではないかと目されており、ユダヤ教との関係が深いことだけは間違いありません。

(^-^)M・S

.. 2013年08月01日 09:18   No.583007
++ 島田守康 (大学生)…76回       
「ニャー、みんな元気かニャー」と満面の笑みで呼びかけているのは、米カリフォルニア州サンディエゴに住むボブ・ウォーカーさんご夫妻の愛猫ちゃんです。専用の「マイハウス」を作ってもらって、ご覧のような喜びようです。

こんな可愛らしい姿を見ると、野良犬3匹を飼ったことがある“ワンコ派”の私も、“ニャンコ”を飼う人の気持ちも判るような気がします。

一方、まるで人間のような表情をするネコちゃんも居るんですね。海外で話題になっている「雨の日のドアの外から内部を伺っているネコちゃん」はリアル過ぎて、驚きです。


TAEKOさん: TAEKOのOCへいこう!ブログM・S

.. 2013年08月08日 17:15   No.583008
++ 島田守康 (大学生)…77回       
今回は「雨の中のネコちゃん」に続き、カエルさんの雨宿り風景です。インドネシアの東ジャワ州ジェンバーで撮られたという、この写真は確かに人間のようにカサで雨宿りしている姿に見えます。

カエルは世界に約4,800種が居るとされ、日本には5科43種(亜種含)が分布すると言われます。5科とはヒキガエル科、アマガエル科、アカガエル科、アオガエル科、 ヒメアマガエル科で、このうち私にとって馴染みやすいのは、 種の数が二番目に多くて体が小さいアオガエルです。あの鮮やかなグリーンの光沢は美しく、憎めません。

小さい頃は悪童たちが「ビッキ、ビッキ」と呼んで、捕まえたアオガエルを道路に叩きつける光景をよく目にしましたが、私は一度も虐待はしていません。今はむしろ、出会う機会がないので、郷愁すら覚えています。

とにかく、小さい生き物は、何でも可愛いものですね。

(^-^)M・S

.. 2013年08月08日 17:32   No.583009
++ 島田守康 (大学生)…78回       
一昨日(2日)の産経新聞に竹島の日本領土を示す最古地図(1760年代)が発見されたニュースが載りました。下記の記事がそれですが、ユーチューブに出ている「竹島問題 日本と韓国の古地図を比較する」動画によっても、それは証明されています。

 

今回の地図では、日本名「竹島」は「磯竹島」と別称されて、これが今日の鬱稜島、そして「松島」表記が今日の「竹島」になっているのですが、要するに日本側には「竹島」と記載された古地図はたくさんあるのに、韓国側には一つもなく、鬱稜島の2km東にある小さな島「竹嶼(以前は于山島)」を強引に拡大解釈して、ここから東南東へ約93km(船で約2時間)も離れた今日の「竹島」を「独島」と呼称して自国領としています。

事の発端は、朝鮮戦争の真っ最中の昭和27年(1952年)1月、李承晩・大統領が勝手に「李承晩ライン」を引いて「竹島」を自国領に強引に引き込んだことですが、これこそが事実を捻じ曲げた、まさしく歴史の偽造であり、牽強付会です。戦前や戦後のアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスのどの地図も、鬱稜島を朝鮮領と表記したものはあっても「竹島」を朝鮮領としたものは一つもありません。

「独島(竹島)はわが領土!」と喧伝すればするほど、韓国人の虚勢の虚偽が益々浮かび上がり、その亡霊を打ち消そうと、更に虚宣を繰り返すという悪循環に陥っています。従軍慰安婦の問題も、「男の存在感がなかった」民族の恥を直視できず他者攻撃で誤魔化して醜態をさらしています。

暗殺者を英雄に祭り上げることしかできない哀しき民族――、内省できず歴史認識では「恨(ハン)」しか持ち得ない哀しき民族――、感情的で口汚くののしることしかできない哀れな漂流民族――、漂流と言えば、息子3人の長男を日本、次男をアメリカ、三男を中国にそれぞれ留学させ、卒後そこに住まわせていた韓国人が居ました。そして常に貴金属の金を持ち歩き、朝鮮半島で一旦事が起きた場合に他国にすぐ移住できるようにしていました。

今日ではアメリカを長男、次男を中国、三男を日本に送るという順番なのでしょうが、汚職と格差と民族分断の怨嗟の渦巻く中、朝鮮半島の政権の栄華など儚い泡沫でしかない。そんな

.. 2013年08月08日 18:12   No.583010


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