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■--侍従日記
++ 伝六 (中学生)…46回          

小倉庫次侍従日記なるものが文芸春秋に掲載された。これを読むと昭和天皇は支那事変の拡大に反対であられたが陸軍が強硬におしすすめたことが、あらためて確認できる。一方、陛下は石原莞爾も事変拡大に賛成であるという報告をうけておられたらしい。陛下に言上する地位にある者が参謀本部全体の意見はシナ事変の拡大であると嘘をついたものであろう。また石原はソ連はこわくないと言っていたが、急にソ連おそるべしという意見にかわったと陛下がおっしゃられたそうだが、これも石原莞爾を研究している者には不審である。あるいは参謀本部の部長になって、ソ連の軍備が数年にして急激に増大したことを知ったことをさすのかと思うが、石原莞爾の若い時からの疑問は軍事学的には日露戦争は負けてしかるべき?戦いで、勝ったのは僥倖ではないかということがあった。ソ連の侵略に対する配慮は常にあったと思われるので、この記述は不審である。
.. 2007年03月15日 21:20   No.57001

++ タク (大学生)…79回       
とても日本国一国だけではロシアに勝てなかったでしょう。日露戦争では、アメリカとイギリスは、日本に対して可能な限りの好意を示してくれました。当時、アメリカは、米西戦争で勝ち、スペイン植民地であったフィリピンを占領し、アジアへの拠点を手に入れた直後です。同じくイギリスはインド、ビルマ、マラヤを植民地とし、さらに阿片戦争で清国を攻めて香港を手に入れていました。ロシアの強大な軍事勢力が、東アジアへ南下することを警戒していたアメリカ、イギリス両国は、ロシアと戦う弱小国日本を自国の楯とするために、戦略的に日本を支援したのですね。

.. 2007年03月18日 16:44   No.57002
++ 伝六 (中学生)…48回       
ちょっと、いい加減なことを書いたので、「戦争史大観」(石原莞爾全集第一巻)より引用しておきます。「日露戦争はたしかに日本の大勝利であった。然し如何に考究してもその勝利が僥倖の上に立った如く感ぜられる。若し露国がもう少し頑張って抗戦を持続したなら日本の勝利は危なかったのではなかろうか。(中略)日本の対露戦争には単に作戦計画のみでなく戦争の全般につき明確なる見透しを立てて置かねばならないのではないか。これが私の青年時代からの大きな疑問であった。」
.. 2007年03月20日 20:10   No.57003
++ 伝 (小学校高学年)…26回       
石原莞爾は昭和二十年12月の講習会で、次のようなことを言っています。「宮崎正義君の経済的見地からすれば、日本の国力というものは十年か五年の果敢な建設なくしては武力戦を戦い得なかった。こうした科学的数学的綿密なる計算を無視して、やればやっているうちにどうにかなるだろうと云う非科学的な日本の為政者の誤れる考えを私は知っておったので、支那事変を止めたいと思っていた。ましてこういう見解からしても大東亜戦争はやるべきでないと考えていた。私はそういう考えを押し通したが政治力がなかった。」(松沢正美筆記、石原莞爾全集第七巻)
.. 2007年03月21日 21:24   No.57004
++ タク (大学生)…80回       
石原莞爾は、終戦後、持病が悪化して東京の病院に入院しました。この間に石原莞爾は病床で共産主義の理論について熱心に勉強していた。そして共産主義に対してこういう結論に達していました。人類は今まで様々な理想社会を描いて来た。これらの理想社会を、科学的社会主義を誇る共産主義者達は、何らの根拠もない夢想いすぎない空想的社会主義として嘲笑している。

.. 2007年03月22日 08:31   No.57005
++ 六 (小学校中学年)…15回       
侍従日記には、近衛は準備できていないのに戦争をはじめそうで困った、東条で準備できたというような記述がありました。歴史家が小倉庫次のものとみとめているのだから、まちがいはないだろうと思いますが、この箇所はどうもおかしい。昭和十六年九月六日の御前会議では、陛下は極力戦争をさけたい思し召しを示そうとされた。このときは前例を破って陛下御みずから発言されることを木戸内大臣に相談されています。これに対して木戸内大臣はお止めした。この内大臣の判断はまちがっていたと思います。内大臣の反対があれば明治憲法をまもれば、陛下がその輔弼を無視することはできないでしょう。十分調べていませんが、近衛総理は陛下の平和への思し召しを実現できないため辞職したのだと私は考えます。そのあと東条が総理になったのは、戦争の準備のためでなく、軍を押さえられるのは東条だからという理由であったようです。そのことをかんがえると、この記録はほんとうのことを書いていないように思われるのです。
.. 2007年03月23日 21:04   No.57006
++ タク (大学生)…82回       
東京裁判での「大物」の被告と言えば、木戸内大臣と東条大将の2人ですが、キーナン検事は木戸内大臣を選びました。木戸内大臣は天皇の側近第一人者です。天皇の意思を誰よりもよく知っています。だから、キーナン検事側の意図を理解して適切な証言をしてくれるものと期待したといいます。

ところが、第1日、キーナン検事が、昭和5年頃から終戦まで日本には暴力行為が存在していた、天皇がその防止に実際的手段をとろうとした場合、貴下は反対したのではないか、と質問すると、木戸内大臣は「いや、反対していない」と答えた。キーナン検事としては、天皇の意思は明白だが、軍部の圧力で心ならずも十分に実現させ得なかった、など、いま少し色をつけた答弁が欲しいのですが、否定だけでは、天皇にも平和の意図がなかった、という結論になりかねないからです。

しかし、木戸内大臣には別の判断があったのです。木戸内大臣の克明な日記にもとづき、昭和政治史における宮中、軍部、政府の最高首脳の動きを綿密かつあからさまに告げたのです。当然、他の被告たち、とくに軍人被告たちにとっては、隠したい過去をわかってしまう事になります。とりわけ陸軍関係の被告には、それまでの立証を吹きとばし、あらためて論告をうけたのに等しいのです。

.. 2007年03月24日 06:15   No.57007
++ 伝 (小学校高学年)…27回       
昭和十六年には、ヨーロッパで戦争をしている。アメリカは日本ドイツと戦う準備をすすめていました。日本では、ある海軍?首脳は、戦うも亡国、戦わざるも亡国だが開戦すべきというようなことを言ったといいます。東条陸軍大臣は日米交渉がみのらぬ場合、十月下旬を目途に開戦準備をおこなうという陸軍案を示し近衛総理大臣はそれをのみます。そういう閣議決定案を御前会議で決定することが9月6日の御前会議でした。たとえがおそれ多いけれど、我々が天皇の地位にあれば、カンカンに怒ることでないかと思います。そこで、御前会議前日に近衛首相と陸軍参謀本部総長杉山元と海軍軍令部総長永野修身をよんで、天皇から質問をされます。「支那の奥地がひろいというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって三ヶ月と申すか。」と言われたことは今ではかなり知られています。天皇は陸海軍の大元帥でもあられたのです。五百旗頭真の「日米戦争と戦後日本」という本を読むと、天皇は御前会議の二十分前に、その日の会議では自ら質問したいという意向を木戸内大臣に表明したところ木戸内大臣は困って、それはおやめいただいたことになったことを書かれています。天皇の御意向が陸軍としてたえがたいとなれば陸軍が天皇から実力で権力を奪うことがありうると考えたそうです。その判断?はまちがいであろうと私はかんがえます。ただし、たしかにそのような思想は陸軍にはそうとうあったかもしれません。
.. 2007年03月24日 12:23   No.57008
++ タク (大学生)…83回       
率直な木戸日記の登場によって、被告たちの裁判に対する態度は、「それなら、こちらもいおう」式の自己主張に大きく傾くことになるが、それだけに木戸内大臣に対する反感も燃えあがったのです。「東条はあんなに人に迷惑をかけるようなことはしませんよ」と、東条大将担任の清瀬弁護人が記者団にいえば、陸軍被告の中で元気のよい佐藤賢了中将、武藤章中将、橋本欣五郎大佐らは、木戸内大臣を面罵しました。

たとえば、A級未起訴の笹川良一が証人訊問を受けるために被告たちと一緒に市ヶ谷に往復した時、バスの中で武藤、佐藤両中将は、木戸内大臣を指して、笹川良一に言う。「笹川君、こんな嘘つき野郎はいないよ。我々軍人が悪く言われる事は、別に腹はたたんが、『戦時中、国民の戦意を破砕することに努力してきました』とは、なんと言う事を言う奴だ。この大バカ野郎が」橋本大佐も、大きな鼻をぴくつかせて、怒声をはりあげた。「本来なら、こんな奴は締めあげてくれるんだが、今はそれもできんでね」

木戸内大臣としては、こういった軍人の攻撃は覚悟の上で日記を検事に提出し、赤裸々になりました。なによりもわが目にうつった真実を「隠すところなく、恐るるところなく」語ること、内大臣としての立場を明らかにすること、その上で責任を問われるなら喜んで処刑されよう、という決意からです。

.. 2007年03月24日 17:11   No.57009


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