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■--凛美ニッポン
++ 島田守康 (中学生)…31回          

先月の産経新聞に、中国・内モンゴル自治区出身の静岡大学教授・楊海英氏(48歳)が北京市内の古本屋で見つけた地図の話が載っていました。中国でもっとも権威ある国営の「地図出版社」が公刊した『世界地図集』という豪華本に、「尖閣諸島(表記では魚釣島・尖閣群島)」が日本領土であることを示すものであることを紹介しています。

発行年は1958年(昭和33年)で、台湾まで「中華人民共和国」にすり替えられているわけですが、しかし、海洋の境界線は台湾と与那国島の中間に引かれ、だれがどう見ても、「尖閣諸島」がわが国の領土であることは明々白々です。しかも、中国が主張し続けている「釣魚島」の表現はどこにも見当たらないのです。

こうした厳然たる事実をひた隠すために、中国政府は今、過去の地図の回収運動を強力に押し進めて、大規模な「焚書坑儒」を実行しているわけですが、ウソで塗り固めた化けの皮は、いずれ引き剥がされる運命にあります。

昨年の10月、中国の楊潔篪・外相は、恥知らずにも国連の場で「日本が尖閣諸島を盗んだ」と強弁しましたが、それに反論した玄葉光一郎・外相が公表したものと、今回楊海英・静岡大学教授が公開した地図は全く同じもので、発行年は楊教授のほうが外務省が所持するものより2年ほど早いものです。

昨年の10月には、中国西安の公園に設置されている阿倍仲麻呂の石碑が何者かにペンキで汚される事件が起きました。こうした破廉恥な「文化破壊活動」が頻発しても、中国政府はテンとして恥じていません。「厚顔無恥に付けるクスリ無し」の状態ですが、因果の「苦い良薬」は必ず飲まされるに違いありません。

(^-^)M・S
.. 2013年03月17日 09:24   No.511001

++ 島田守康 (中学生)…32回       
読者のお一人から、先月、石原莞爾将軍に関する本が出ていることを知らされました。書名は山本又著 『二・二六事件 蹶起将校 最後の手記』(文藝春秋社、定価1500円+税)です。

山本 又(また)とは、昭和11年(1936年)の2・26事件で決起した青年将校(少尉)の一人で、20代〜30代が多かった中、彼は最年長の42歳。実際には東京・府中の中学体育教師だったので民間人でしたが、「首謀者」の磯部浅一(あさいち、31歳)・元陸軍主計官と同志的関係を結び、当日に決起したわけです。

事件収束(逮捕)直前の2月29日、彼は一人山王ホテルを抜け出し、暗殺した重臣らを供養するため日蓮宗の総本山・身延山に逃避し、3月4日に自首して裁判を受けるわけですが、その途次、安藤輝三・大尉から「2・26日本革命史を書き残してくれ」と頼まれ、獄中で手記を綴るのでした。手記は収監直後の3月から、昭和15年(1940年)の「紀元2600年」の特赦によって禁固10年から5年で釈放されるまで約5年ほど続きました。

それが5年ほど前に遺族の物置から発見され、今年、原文と共に現代語訳された形で77年ぶりに日の目を見たというわけです。2・26事件の関係記録はほとんど出し尽くしているので、これが新資料発掘の「最後」と言うわけです。

さて、今回の手記で注目すべき事実が語られています。それは何と、陸軍大臣官邸を占拠した彼らは、殺人リストNO2の「見当たり次第、殺害すべき者」の軍人筆頭に石原莞爾大佐を挙げ、続いて根本 博中佐、武藤 章中佐、片倉 衷(ただし)少佐、(鉛筆書きで辻 政信大尉)の5名を指名していたことです。まさに、山本 又少尉は、その殺害任務を負っていたわけで、このうち片倉 衷少佐が磯部浅一によって頭をピストルで撃たれて重傷を負ったことは、よく知られています。

事件当日(26日午前)、石原莞爾大佐(参謀本部作戦課長、47歳)がやってきた場面は、こう記されています。

「陸相官邸の表門で、村中、磯部、竹嶌、山本は頑張って特定人物が到着するのを待っていた。
 歩哨線の前に、マントを着て悠々と闊歩してくる一人の将校がいた。私が手を挙げて歩哨線で止めさせた。その将校もまた手を挙げた。私が近づいて誰何(すいか)した。
『どなたでしょうか』
『石原大佐』とマントの将校は答える。
私は思った。うん、これが石原大佐か。見当たり次第、殺害すべき人物だ。石原大佐が言う。
『このままではみっともない。君らの言うことを聞く』
大佐はまだ原隊よりの補給も、陸軍大臣の告示のことも知らないのか。しかも大佐は陸軍部内で第一の知能大戦略家である。法華経の信仰も極めて深い。私は考えた。この人を殺すべきではない。君たちの言うことを聞く、と言う。よし、この人もまた味方としよう。
陸相官邸に大佐を案内した。」

「表門に来る途中、竹嶌中尉が石原大佐を見て、厳粛な敬礼をした。大佐は満洲事変の時、中佐参謀として大いなる活動をされた人であった。竹嶌中尉もまたそこに従軍したので、よく知っていた。二人で邸内に案内した。村中、磯部、香田と会う。石原大佐が言った。『負けた』。大佐もまた国家革新を主張する大重鎮であり、大先覚者である。ただし、我らとその信念で異なるところがある。大佐は玄関の白雪が鮮血に染まっているのに驚いて訊いた。
『誰をやったんだ、誰をやったんだ』
山本が『片倉少佐』と答えると、驚いて黙ってしまった。」

そして、この山本 又少尉が、軍の指揮官・安藤輝三大尉(31歳)に伝達に行った時のことが記されています。

.. 2013年03月18日 12:25   No.511002
++ 島田守康 (中学生)…33回       
「『石原さんが来ましたか』と大尉が言う。
『来ました』と私が答えると、大尉がこう語った。
『石原さんが来たので、陸相官邸には行ってはいけないと言うと、大佐は自分の首をたたいて、“これか?”とうなづき、一笑して立ち去りました』
石原大佐は「見当たり次第、殺害すべき人」だ。自分の首をたたいたというのは、これを察知していたのだ。しかも悠々と単独で陸相官邸に来たのだ。常人ではとてもできまい。大佐は『知』の人であるとともに、『胆』の人でもあるのか。維新の道の上では、敵側の人ではあるが、殺すには忍びなかったと私が言うと、安藤大尉もまた、『それは良かったです』と答えた。」

次第に形勢逆転の様子(2月28日午前)が、憲兵司令部でのやり取りから読み取れます。

「満井中佐と石原大佐に面会を申し込んだ。やがて石原大佐が来た。
『大佐殿は法華経へのご信心がまことに深いと承ります。ありがたいことであります。つきましては、今朝からしきりと大勅渙発と討伐の情報二つが飛んでいます。どっちが本当なのですか。どうか大勅渙発の奏請に努力なさって下さい。大佐殿は、このことについて非常に努力なさっておられると承ります』
と私が言うと、石原大佐は、
『いや微力で、錦旗に手向かえば、討伐する』
と多くは語らず、早々に立ち去ってしまった。形勢は読めた。」

2月28日午後、討伐が明白となった後の警備司令部での様子は、次のように描かれています。

「石原大佐、満井中佐は扉の外にいた。
磯部が言った。
『大勅案はと゜うなりました。討伐するんですか』
満井中佐は泣きながら、こう言った。
『後は良くする、後は良くなる』
石原大佐もまた泣いていた。
磯部は討伐が決定したと判断したものの、態度は揺るがず、平常と変わりなかった。
石原大佐は言った。
『磯部は偉いやつだ』
簡単なやり取りをして辞去した。」

実際の討伐命令は28日の午前5時過ぎに発令されたことが今日知られていますが、山本少尉は他の箇所で、「幕僚の多くが討伐を云々しているのを、石原大佐が大いに鎮撫したと聞いた。本当の討伐ではないのだ」と書いており、事実、29日、「皇軍相撃つことなく解決しましたので、結局、兵を原隊に帰すことに一決し、それから兵を全部外に出して整列叉銃(さじゅう)し、当時、石原莞爾の代理と称する参謀中佐が来ましたので、その方に全部処置を一任することになり、将校も一同屋外に出ました」(供述調書)と、事件の収束まで石原大佐が関わっていたことを明かしています。


.. 2013年03月18日 12:40   No.511003
++ 島田守康 (中学生)…34回       
この収拾案については、解説を書いた保阪正康氏は、橋本欣五郎大佐が石原大佐に面談を求め、大赦を条件に反乱軍を降伏させる「維新政府詔書案」を提示し、石原大佐も賛同し、行動したものの、結局、首班の首相を誰にするかで折り合いがつかなかったことを紹介しています。

保阪氏の解説で、もう一つ明らかとなったのは、この山本 又少尉は、田中智学の「国柱会」の入信者であったことです。噂では聞いていた石原大佐との初対面が事件当日であったということ、それに安藤輝三大尉も法華信者だったことを考え併せると、「生か死か」の極限状況で目に見えぬ「法護」があったとしか言いようがありません。

それと同時に、それは石原将軍の「清冽な人格と温かさ」の人間性の賜物、との評価もあります。今は故人となってしまった会員の方の一文を下記に掲げます。故人からの転載許可を得ていないので、あえて匿名とさせて頂きますが、もう一人の歩哨少尉の貴重な懐古談です。

なお、出所後、敗戦を迎えた山本少尉は、ひとり山小屋にこもり、昭和27年(1952年)、57歳でその生涯を閉じています。手記には予言めいた内容の的中記述があり、それは今後本書を読まれる方の楽しみに残しておきます。

ともあれ、2・26事件で石原将軍の様子を伝えてくれた山本 又少尉には、大いなる感謝です。

(^-^)M・S

.. 2013年03月18日 12:47   No.511004
++ 島田守康 (中学生)…35回       
前回メールに読者のお一人から、下記のような感想を頂きました。当時の閉そく状態の中で、「昭和維新」を標榜する国家革新運動は多くの賛同があったものと思います。石原莞爾大佐(参謀本部作戦課長)自身も、「心の奥底では共鳴していた」わけで、討伐が決定した際には涙を流していたことで、それは窺い知れます。

派閥には無関係だった石原大佐ですが、前年に起きた永田鉄山・軍務局長を斬殺した「皇道派」相沢三郎・中佐の特別弁護人を申し出るなど、大きく言えば対ソ戦など「皇道派」の範疇に入る石原大佐が、翌年、作戦部長(少将)に昇格し、同年(昭和12年、1937年)の7月7日に起きた藘溝橋事件時には「皇道派」の後ろ盾がなく、新「統制派」の支配によって孤立し、中枢部から追い出されるという悲劇を被ることになります。

社会人になってから、この2・26事件を知るにつけ、安藤輝三大尉など決起青年将校に感情移入した私は、最終的に討伐に向かった石原莞爾を「悪人」と決めつけ、それが長くこびり付いていたわけですが、安藤徳次郎氏(昭和63年・1988年9月10日の「石原莞爾生誕百年祭」の実行委員長)との出会いによって、それが「善人」へと180度の転換するキッカケとなったわけです。

私と同じように安藤氏(平成14年に93歳で逝去)の感化を受けたのは、民主党の国会議員・松原 仁氏(56歳、前国家公安委員長)らもおり、こうした生前の石原将軍の真姿を知る方々の石原将軍を後世に伝える熱意が、われわれ後輩世代の「誤ったイメージ」を変えさせたわけです。

なお、山本 又著『二・二六事件 蹶起将校 最後の手記』には、先月、産経新聞で紹介された「秩父宮は決起した青年将校に対して極めて同情的なお立場だった」という説に反する内容が明かされています。決起将校の一人が秩父宮に会って受けた令旨は、「一、初めはよろしい 二、後が悪い 三、なぜ青年将校は大命に抗うのか 四、首脳者は自決したらどうか 五、部隊は後退させたらどうか」の五つで、一と二を山本ら決起将校は当日の行動と思い誤っていたことを、解説の保阪正康氏は、戦後、この令旨を受けた将校の取材から明らかにしています。

しかし、中橋基明という中尉が、決起趣旨を直接、陛下に上奏するため宮中奥深くに乗り込み、「もし、陛下が決起の趣旨を受け入れなければ、その時は、陛下を弑(しい)し奉り、自決する手筈だった」ということは事実だったでしょう。そうなれば、「秩父宮が摂政となり、当時まだ3歳だった今上陛下に代わって、事実上、親政が行なわれただろう」ことも充分、あり得ます。

「歴史に“もし(If)”は無い」と言われますが、考えたくなる「秘話」であることは違いありません。

もう一つ、山本著で印象的だったのは、「革命は血なくしては成らず」としながら、自分達の失敗は後藤文夫・内大臣や元老・西園寺公望ら重臣、また軍首脳すべてを討ち漏らしたことにあるとして、これを後世の強い教訓として訴えていることです。この手記では、「至誠の行動」に関係者の多くが涙を流したことが記されています。

※添付最後の写真は、平成元年(1989年)に制作された『226』(松竹富士)の宣伝ポスターです。24年を経た今、再び観たくなりました。
  ▼映画『226』の動画 こちら

(^-^)M・S

.. 2013年03月20日 09:10   No.511005
++ 島田守康 (中学生)…36回       
先日、大学の大先輩・渡邉光治(みつじ、89歳)氏から「私の戦争体験」と題するコピーが送られてきました。この渡邉先輩については、昨年6月の「燦然ニッポン」で二回にわたりご紹介しましたが、今回は初めての情報に接しました。

というのは、渡邉氏との「接点」はお兄様が石原将軍がおられた京都第16師団の通信隊長(竹司少佐、24歳、レイテ島で戦死)だったわけですが、ご自身の戦争体験については最後の勤務地が台湾の北端・基隆(キールン)だったということぐらいで、私は何も知りませんでした。

何しろ、大酒豪の渡邉氏と同席した会合ではみんなと楽しくワイワイの席なので、お互いの身の上話を聞く機会は全く無に等しかったわけです。ところが今回送られてきた原稿は、まさしく全滅が濃厚なフィリピン戦線下でのご自身の「奇跡的な生還」が書かれていました。

原稿によると、大正12年(1923年)生まれの渡邉氏は、昭和18年(1943年)の学徒動員により早稲田大学商学部から愛知県の豊橋陸軍予備士官学校に配属され、翌年9月29日からはフィリピン戦線の補給のために商船に乗ることを命じられます。仲間195名とともに博多湾から一路南下、台湾の南端・高雄に到着するも、早くも米軍の爆撃に遭い、しばらく停泊の身に。11月1日に出航したものの翌日には初めての魚雷攻撃を受け、辛くも逃げおおせて11月12日にマニラ湾に接岸。毎日続く空襲下、地上で待つほかなかったと言います(士官候補生トップらが死傷)。11月17日、南方軍総司令部はレイテ戦の苦境からマニラを去ってサイゴンに移動、渡邉氏は「これは我々がマニラに到着した5日後のことで、あたかも捨て子の如く残されてしまったのである」と述べています。

そして11月23日には「ここに居ても何の役にも立たない」のと「有為の士官候補生をこのまま死なせては皇国のためにもったいない」との理由から、内地に帰る商船への乗船を命じられ、帰途も潜水艦攻撃を受けて、これまた辛うじて12月31日に高雄に戻れたわけです。

.. 2013年03月21日 13:04   No.511006
++ 島田守康 (中学生)…37回       
高雄への北上中、先頭を走っていた駆逐艦や船団を組んでいた商船も攻撃を受けて轟沈、「あの高射砲隊長以下の実力、船長の高度の操舵術も勿論であるが、とにもかくにも我々は助かったのである。強運というか、一ヶ月半の間にこの地獄航路を我々は往復したのである」と渡邉氏は述懐しています。

しかし高雄での休息も束の間、開けて翌年1月23日、突如、「シンガポールに向かう船に乗船せよ」と命じられて乗船、ところが20隻の船団の中で、渡邉氏の載った船だけが故障のため出港停止となり、出航した19隻はその後空襲を受けて大半が戻らなかったとのこと。「この時にも、我々は不思議に運が良かったのである」と述べています。

高雄に取り残された渡邉氏らは、終戦までの半年ほどを「新鋭見習士官」として台湾各所で台湾軍の教育に当たり、配属された基隆(キールン)の陸軍要塞地では野砲で「台湾決戦」に備えたものの、ご承知のように米軍は台湾の頭上を飛び越えて沖縄に向かったわけです。

兵役簿によれば、正式な陸軍少尉の任官は終戦後の8月20付、同日予備役編入で、引き続き臨時召集され、翌年の2月〜4月に日本兵の大半は無事帰還できたとのこと。文面の最後は、「かえりみれば我々は、……よくぞその都度、正に紙一重の差で危機を乗り越えてきたものであると痛感する次第である。そこには『運命』としかいいようのない、何ものかを感じざるを得ないのである。この貴重な命をいつまでも大切にして生きてゆきたいと念じてこの記録を終わる」と締めくくられています。

「一旦、戦端を切れば皆殺し」という戦争の過酷さ、特に敗戦の状況の凄まじさの一端が、渡邉氏の体験でも伺われます。後世への伝承は、今日もなお渡邉氏の毎日手紙を書く「筆まめ」な性格によって成し遂げられたものです。体力も気力も未だ満々の渡邉氏の姿が、私の鏡です。

※比島戦没者は陸軍36万9000人、海軍10万人、軍属4万人、合計51万7000人。レイテ戦では先遣部隊の京都第16師団の1万3000人を含め日本将兵約8万人が犠牲となり、米軍の戦死者はわずか3500名。
※写真の渡邉光治氏は、右から2人目の手を挙げている人(昨年6月の銘酒を呑む親睦会「アサヒ会」にて)。

(^-^)M・S

.. 2013年03月21日 13:10   No.511007
++ 島田守康 (中学生)…38回       
本日の日本財団・笹川陽平会長のブログに興味深い内容がありました。

中国の「反日テレビ」で毎日放映されている日本兵の累計が、何と約7億人にのぼったいうことです。今後も続いて歯止めがかからなければ、まさしく「天文学的数字」になることは間違いありません。

これほどまでに執拗に中国国内で反日運動を展開しなければならない理由として、氏はズバリ「中国共産党は邪悪な日本軍を殲滅した。今日の中国の発展があるのは偉大な中国共産党のお陰であると、党の功績を言い続ける必要があるから」と指摘しています。

しかし、「日・中戦争は蒋介石率いる中華民国との戦争であり、中国共産党は戦争末期に山東省やその他の地域で戦っただけ」で、「蒋介石・中華民国を認めない中国共産党は、日・中戦争の勝利をどうしても中国共産党の大活躍による勝利としなければ、党としてのレイゾンデートル(存在意義)を人民に問われる事になってしまうわけ」で、ゆえに歴史偽造の宣伝を強行せざるを得ない必要性があるわけです。

強がりのカラ威張り――、それは語気強く居丈高に会見する報道官の姿によく現われていますが、ご承知のように「反日テレビ」を毎日繰り返す反面、文化大革命や天安門事件、それに今までの政府の失政事には、すべて頬被りです。大規模に行なわれた「反日デモ」も、その実相を知る中国人はほんのわずかで、しかし、「反日でなければ中国人にあらず」の雰囲気だけは市街に蔓延しています。

そんな「反日」イメージで来日した中国人の殆どが一様に語るのが、「日本人は親切。平和的で軍国主義は感じられない」という驚きの声です。かつて、そんな人物の一人に取材したことがあります。楊 興新(ヤン・シンシン、57歳)という胡弓の奏者で、今から17年前、彼のことは当時関わっていた同人誌『流砂』に載せました。タイトルは「胡弓を通じて、日中友好の懸け橋に 病身の妻・房子さんの愛に支えられ、胡弓を熱演 中国人ソリスト・楊 興新さん」。

中朝国境に近い丹東市生まれの彼は、日本語も英語も喋れたインテリの父親が文革で「反革命分子」として逮捕され、彼自身も地方へ下放されてしまいます。帰宅後、小さい頃に覚えた胡弓で国家大賞など数々の栄冠を勝ち取ったものの、一家のゴタゴタも重なり「満洲国」の母国・日本行きを決意します。そして来日直後から「軍国主義とお金第一主義の恐い日本人」から「勤勉で芸術を愛する日本人」のイメージに180度転換、親切に接してくれた日本女性との出会いもあって結婚、永住することになったものです。

その間の経緯は省略するとして、ともかく彼が今日、元気に活躍され、事業的にも大成功を収めていることは喜ばしい限りです。当時は埼玉県の三郷市に住んでいましたが、今はどこに住まわれているのか、また病魔に倒れていた奥様はどうなされたのか興味は尽きませんが、ともかく彼の一流の演奏を聴いてみて下さい。

.. 2013年04月01日 15:25   No.511008
++ 島田守康 (中学生)…39回       
楊 興新氏のHP こちら

最近は観光客の誘致から、「並みの中国人」が大挙来日していて、昨年、私などは車内のPrimaryシートに座ってご老人の迷惑も顧みず大声で携帯中の中国人女性を注意したことがありますが、「ハエたたき」の頻度は年々高まるばかりです。

なお、笹川氏が日中友好を語る時に、江沢民の言葉「歴史を鑑として未来に進もう」の前に「2000年の」を付け加えることに賛成です。かつて、同人誌の一人が大連の有力者と会った時、その中国人は「2000頁の日中史の大事典を開いて、日中が不幸だったのは、たったの4頁しかない」と語ったことを私は印象深く聞いたことがあります。これを聞いて、私は「さすが大人の居る中国だ」と感心したものですが、今では「小人ばかりの中国」に違和感を覚えています。

もう、いいかげん、意味不明な「戦略的互恵関係」などという言葉は、破棄すべきものと思います。

(^-^)M・S

.. 2013年04月01日 15:32   No.511009
++ 島田守康 (中学生)…40回       
またまた前回もシリーズ名を誤まってしまいました。前回は酒も飲んでいないのに……。

先月は、またしても石原莞爾将軍の本が出ました。著者は作家の早瀬利之氏(72歳)で、今度のタイトルは『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書、定価800円+税)です。

早瀬氏の原稿は、わが石研の機関誌『永久平和』に時々載せていますが、氏は現在も月刊『丸』(潮書房)に「参謀本部作戦部長 石原莞爾『国家百年の計』」と題して長期連載しています。

かつての単行本には『石原莞爾国家改造計画―秘められた「満州備忘ノート」の全貌 』(光人社NF文庫、定価870円)、『石原莞爾 満州合衆国―国家百年の夢を描いた将軍の真実』(光人社、定価1995円)などがあります。

今回まとめられた内容は、戦後の昭和22年(1947年)5月4日と5日の両日行なわれた極東国際軍事裁判「酒田出張尋問」の記録で、その時の法廷記録がそのまま載っています。

この時の石原将軍の証言内容を理解するには、この本の袖に載っている宣伝文句で充分かと思います。
「朝日新聞の記者は、東京裁判も傍聴していて、元首相や大臣、大将たちの卑屈な答弁にむなしさを覚えていた。だが、酒田法廷での石原莞爾の答弁に、ある時は失笑し、ある時は一緒になって哄笑するなど、『日本軍人ここにあり』の救いさえ覚え、証人席の石原の所に駆け寄って言った。『この二日間、将軍の言葉を聴いて、私は日本人として初めて胸が清々としました』」と。

発言の一例を挙げれば、「作戦よろしきを得れば、日本は必ずしも敗北するものではなかった」「無辜の民を原爆で無差別殺戮したトルーマンこそ第一級の戦犯だ」などなど、数え上げればキリがありません。まさしく、表紙の帯にある「現代日本にこの男在れば……」と思わしめる発言で、国際断罪の真っただ中に立たされても自己の主張を堂々と、そして時にはユーモアを交えて語れることは、よほどの胆力の持ち主で無ければ出来ない所業です。

「知られざる」石原莞爾の真姿を知れば、それこそ矜持を失ってしまった戦後日本人の多くに見直しを迫るでしょうし、早瀬氏の観点となっている「国家百年の計」の大事さも自ずと理解されるはずです。この著書に関しては来月発行の『永久平和』124号で山崎八九生・事務長が新刊紹介の予定ですが、氏と同じ行政書士の友人が読後感を送ってくれましたので、以下にご紹介させて頂きます。率直で鋭い読後感と思います。

なお、タイトルにあるマッカーサーと石原将軍との関係ですが、敗戦ニッポンの占領軍総司令官としてやってきたマッカーサーに対する獅子吼はもちろん、昭和5年(1930年)にアメリカの総参謀長だったマッカーサーが米軍をハワイに進出させたことが石原将軍の「日米開戦必至」の結論に至らしめたことや、昭和7年(1932年)10月のソ連総参謀長エゴロフとの会見でソ連軍の猛スピードの拡張を実感し、「日満重要産業五カ年計画」や、満洲国参謀副長就任時に「対ソ戦」防備に腐心したことが、「備忘ノート」(石原将軍の日記メモ)によってよく伺えます。米・ソ・中の実態把握と、ニッポン国安泰の「国防国策」の同時にらみの戦略確立の重要性が、今日いささかも変わっていないのは、ご承知のとおりです。

※裁判時の写真4点は、アメリカ公文書館に保管されていたもの。

(^-^)M・S

.. 2013年04月02日 14:22   No.511010


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