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■--凛美ニッポン
++ 島田守康 (小学校高学年)…21回          

宇宙空間に、人間が想像していた「生命体(飛行体)」が存在することが、明らかとなりました。NASA(米航空宇宙局)が公表している2月20日の太陽観測衛星の画像に、手塚治虫が描いていた「火の鳥」とそっくりの映像が写っていた、というものです。

手塚作品の「火の鳥」は、100年に一度自らを火で焼いて再生することで永遠に生き続ける「人智を超えた超生命体」とされ、その身体は宇宙生命(コスモゾーン)で形成されており、関わった人々の魂をも吸収して体内で同化し生かし続けることも可能とか。この鳥の血を飲めば、永遠の命を得ることができると言います。

よって、その呼称は「鳳凰・火焔鳥・フェニックス(不死鳥)」ですが、伝説上の鳥とされたその姿が、太陽の近くの宇宙空間で科学的に実測されたということは、手塚氏(1928〜1989年、享年60歳)の驚くべき想像・予知能力です。人類の苦悩と恐怖の対象そのものである生と死――「火の鳥」は、まさしくそれを超克したい人類の願望として象徴化されているわけですが、実際、この映像に写った「生命体(飛行体)」は一体、どんな役割を果たしているのか、その実体を早く知りたいものです。

かつてミュージカルで観た「火の鳥」は、ダンサーのアクションや歌のうまさに惹かれて、ストーリーは全く覚えていません。手塚氏のライフワークであったこの「火の鳥」シリーズ(角川文庫、全13巻)のモチーフは“母性讃歌”だった、という指摘もあります。もしかしたら、各地に伝わってきた「羽衣伝説」との共通点もあるのかも知れません。

手塚氏の魂は、この「火の鳥」の胎内で今も生き続けていると思いますが、ともあれ昨今、「天からの予兆」に目が離せない状況です。

(^-^)M・S
.. 2013年02月27日 08:25   No.503001

++ 島田守康 (小学校高学年)…22回       
石研の会員、樋口正士(まさひと)先生が本日、『日本の命運を担って活躍した外交官 芳澤謙吉 波乱の生涯』(グッドタイム出版、定価2000円+税)を上梓されました。樋口先生(71歳)は一昨年の8月、『石原莞爾将帥見聞記 ――達観した生涯の陰の闘病記録』(原人舎、非売品)を出版された方で、一昨年までは福岡市で泌尿器科クリニックの院長(医学博士、元福岡市医師会長)をされていました。

古稀を迎えた昨年、長年の診療功績を認められて日本医師会からアフリカのギニア共和国の日本大使館総領事に赴任の予定でしたが、ギニアの政情不安で頓挫、クリニックをたたんでしまった関係上、執筆活動に専念し、張作霖爆殺事件を探索中にしばしば登場する時の外交官・芳澤謙吉に関心を持ったことが今回の執筆動機とのことです。

「外交官・芳澤謙吉」の名は、私は昭和7年(1932年)10月から翌年5月に石原将軍が松岡洋右外相に随伴して、スイスのジュネーブ会議に出席した際、共同して参加国の対応に当たった犬養内閣の外務大臣ということくらいで、あとは全く知りませんでした。

しかし、この吉澤謙吉(1874年〜1965年、享年90歳)は、以後日本軍が南部仏印に侵攻した際の「蘭印経済交渉特命全権」、「駐仏印特命全権大使」、戦後は初代の「中華民国(現台湾)特命全権大使」を務めた外交官一筋の人でした。芳澤には、それ以前の「駐仏国特命全権大使」など「特命全権大使」の名が付いて回るのですが、「外交交渉の決定判断はその人自身に任せる」ということで、事後誰からも文句を言わせないことを条件に引き受けることが特徴で、これは言い換えれば、いかにその成り手が居なかったか、即ちイヤな仕事を引き受けたが判ります。

そうした「波乱の時代」に人一倍の苦労人で、かつ「困った時の神頼み外交官」であった芳澤謙吉の外交姿勢は、「信・愛・敬」をモットーに「本国の訓令に従いながらも、どこの国の方ともできるだけ公平、誠実を心がけ、仕事を離れても人間的な付き合いを大切にした努力家であった」(ウィキペディア評)と言います。また芳澤自身、「国際外交上で重要なことは、真面目に対処することであり、そのためににはしっかりした組み立てが必要で、思い付きではならない」と語っています。

当然のことながら、戦前の強力な軍政下、個人プレーができる独自外交は難しかったわけですが、新たな国難を迎えた今日、今後外交の難しいかじ取りをするに当たって、日本政府は特に戦前外交の負の部分ををよく弁えて対処する必要があると思います。

しかし、戦後今日まで誰も彼に光を当てる人が居ませんでした。ということは、戦前の外交研究は「空白のまま」であったということです。新潟県高田市出身の芳澤の孫には、かの有名な緒方貞子氏(86歳、元国連高等弁務官)がいます。夫君の四十郎氏(86歳、緒方竹虎の40歳時の三男、元日銀理事)はご健在ですが、現在入院中で、今回校正用原稿をお送りしてもピント外れの返書が来て樋口先生をガッカリさせたとのことですが、孫の緒方貞子氏に生きた血筋の外交力は、日本は活かし続けなければなりません。

今回の「知られざる、埋もれた」外交官・芳澤謙吉を短期間に発掘された樋口先生のご努力に最大の敬意を表するとともに、天国の芳澤謙吉氏は、照れながらも、さぞや大変喜んでおられると思います。

(^-^)M・S

.. 2013年03月04日 06:53   No.503002
++ 島田守康 (小学校高学年)…23回       
前回メールの中に、外交官・芳澤謙吉の孫(貞子)の婿に当たる緒方四十郎氏(86歳)の記述がありましたが、それに関連してワシントン在住の繆斌(ミョウヒン)の孫・繆亮(ミョウリョウ)氏(46歳)から、下記のような文面が送られてきました。

大要は、平成22年(2010年)5月21日に東京・中央区八丁堀の鉄砲洲稲荷神社で開かれた繆斌慰霊祭に来日した際、昭和20年(1945年)の「終戦和平工作」にともに尽力した緒方竹虎・情報局総裁の三男・四十郎氏と初めて面談し、尊敬すべき人と感じた。今回のメールで病気入院中と知り、手紙を送り、次回来日した際には彼に再び会って元気づけたい、というものです。

自分でも日本語を勉強しているが、二人の息子にも習わせたい。そして自分の事務所はワシントンDCの近くにあり、先週の安倍首相が訪問した際には見学に行ったが、その姿を見ることはできなかった。しかし、何枚かの写真を撮ったというので、追加で今回送ってくれたものです。

歴史的因縁のある方々が、こうして世代を超えて、尊敬し合い、子々孫々「良縁」を持つことは、大変意義あることだと私は思います。

鉄砲洲稲荷神社で祭主を長年務められてきた中川正光・宮司亡き後、しばらく絶えていた慰霊祭を久しぶりに主宰された二瓶文隆・中央区議会議員らのご苦労も称揚したいと存じます。

(^-^)M・S

.. 2013年03月06日 13:35   No.503003
++ 島田守康 (小学校高学年)…24回       
前回のメールに引き続き、繆亮(ミョウリョウ)氏から平成22年(2010年)5月21日に東京・中央区八丁堀の鉄砲洲稲荷神社で開かれた繆斌(ミョウヒン)慰霊祭の写真が送られきましたので、私が撮った分と併せて公開します。

当日の記事は、『永久平和』誌の第115号に掲載しました(下記参照)。慰霊祭当日は、緒方四十郎氏の「蒋介石の密使・繆斌」の講演があり、「当時17歳の高校2年だった自分は、父親(竹虎)から直接この和平工作を聞いてワクワクした。実際、繆斌の来日中は米軍の空襲が皆無だったことが非常に印象深く残っている」と語っていました。

言うまでもなく、この「繆斌和平工作」で教訓とすべきことは、現在、緊張が高まっている日中双方に開戦の回避を迫り、子々孫々に亘る安寧を築く「智恵のある密使」の存在です。「安倍晋三の密使」でも「習近平の密使」でも構わない。しかし、それだけでは足りない。「器量のある棟梁」のほかに「理を弁えた力ある臣下」の存在も不可欠で、その「三位一体」が整わなければ大事業は成功しない道理です。

「智者なきPoor(プア、貧困)なる時代」を嘆かざるを得ないのみなのか――、沈思黙考する今日この頃です。

蒋介石主席の和平工作の密使

繆斌の慰霊祭を5月21日、3年ぶりに挙行 



 昨年5月21日(金)午前11時より午後1時半まで、昭和20年(1945年)3月、蒋介石・国民党主席の密命を受けて日支和平工作に来日したものの、その目的を果たせず、帰国後の昭和21年(1946年)5月21日に、43歳の若さで蘇州の地で銃殺刑に処せられた平和の密使・繆斌(1889年〜1946年)の慰霊祭が、東京・ 中央区八丁堀 にある鉄砲洲稲荷神社で開かれた。慰霊祭は中川正光宮司亡きあとしばらく途絶えていたが、繆斌の業績に共鳴した同区の区会議員・二瓶文隆氏の一念発起で再興され、この度3年ぶりの挙行となり、本会からも8名の会員が参加し、総勢約30名の慰霊祭となった。

 まず、主催者の二瓶氏の挨拶のあと、今回、ワシントンから上海に帰国途中に立ち寄った繆斌の三男(繆堅明)のご子息・繆亮氏(44歳)が、慰霊祭挙行への感謝を申し上げ、続いて当時、和平工作に尽力した内閣情報局総裁・緒方竹虎の三男・緒方四十郎氏(82歳)の和平工作当時の状況説明があった。その後、参加者全員が平成3年(1991年)に建立された顕彰碑に献花を捧げ、続いてマイクロバスに乗って場所を近くのホテル・マリナーズコート東京に移し、現代史研究家・田中秀雄氏の講演会と昼食懇談会を開いた。講演会や昼食会では関係者の短いスピーチが数々披露された。

 なお、今回初来日した繆亮氏は、幼少時に祖父・繆斌の悲劇的人生を知り、上海の大学を出てアメリカに渡りシステムエンジニアになったという。緒方四十郎氏はかつて日本銀行理事、日本開発銀行副総裁、国連財政諮問委員会共同議長なども務めてこられた著名人。また夫人も国連難民高等弁務官として活躍された緒方貞子氏。当時17歳の高校2年時、自宅で父親・竹虎から直接この和平工作を聞いて、ワクワクしたという感想や、特に繆斌の来日中は米軍の空襲が皆無だったことが非常に印象深かったという話が披露された。当日の出来事は『宗教新聞』などに掲載された。



※曽祖父の緒方郁蔵は、緒方洪庵の弟弟子の蘭学者で、洪庵と義兄弟の約を結び、緒方を名乗ることとなり、大阪大学が管理している適塾には、その写真があるという。



(^-^)M・S


.. 2013年03月08日 10:41   No.503004
++ 島田守康 (小学校高学年)…25回       
またまた「凛美ニッポン」を「燦然・ニッポン」に間違えてしいました。私の心の中で、まだ「燦然」に心残り(未練)があるのかも知れません。大変失礼しました。

さて、外交官・芳澤謙吉に関連して、思い出したことを記します。

下記の系譜にあるように、芳澤謙吉は第29代総理大臣・犬養 毅(77歳、岡山県岡山市出身)の娘婿です。実は、私は犬養首相の三男・健(たける、衆議院議員、法務大臣などを歴任)の長男・康彦氏(現在86歳、元共同通信社社長)にお会いしたことがあります。しかも、「苦い思い出」として……。

ご承知のように、犬養首相は昭和7年(1932年)5月15日に首相官邸で、海軍の青年将校・三上 卓(中尉、27歳)らに襲われ、ピストルで銃殺されたわけですが、その時に放った「話せばわかる」という言葉は、余りに有名です。襲撃当日、官邸には犬養首相とお手伝いさんと一緒に居た孫の康彦氏(4歳児)しか居なかったと言います。幼少ながらも暗殺の雰囲気を知っている康彦氏は、毎年青山墓地で開かれている慰霊祭に、「木堂会」の会長として祭主を務めてきました。

「木堂」とは、達筆だった犬養首相の号で、私は12年ほど前でしょうか、この会に関係していた石研の女性会員のお誘いで、慰霊祭に初めて参加させて頂きました。会長の犬養康彦氏との面談目的は、同じく石研の会員で、かつて三上 卓の大東塾の塾生であった方(今は故人)の「伝言」を伝えるためでした。その「伝言」の内容は、射殺犯・三上 卓は昭和46年(1971年)に伊豆で客死するまで(享年66歳)、「犬養首相の命日5月15日には毎年祭壇に雪洞(ボンボリ)を灯して、一日中瞑目を絶やさなかった」というものです。即ち、被害者の犬養 毅首相にその罪を詫び続け、ねんごろに供養していたというものです。

塾頭である三上 卓は、塾生の「5・15事件」を自慢する発言を強く戒め、この命日は特に峻厳に注意し、近寄りがたい姿だったと言います。

その旨を、私が康彦氏に伝えたところ、康彦氏の顔はみるみる険しい顔になって、「それがどうしたんですか?!」と強い口調で私に突っかかってきました。その言葉に、私は瞬時に「殺人の和解は第三者が考えるほど甘くはない。殺人に時効なし。仲介は難しいものだ」と感じ、喉から苦い唾液が湧き出るのを感じました。安易に引き受けた浅はかさと同時に、しかし一方、加害者側の遺志を伝えるのも意味ある役目では、と煩悶しつつ、返す言葉を失っていました。


.. 2013年03月10日 17:34   No.503005
++ 島田守康 (小学校高学年)…26回       
当日の慰霊祭は、小雨が降る中での会合で、私にとっては何とも後味の悪い「冷たい」一日となりました。帰宅後も、後味の悪さが残り、赤穂浪士と吉良家末裔の手打ち式も300年近くかかっているなーと、改めて社会事件、殺人事件の憎悪の重さ、深さを感じたものです。康彦氏にとっては、「総理大臣の暗殺者は極刑」が当然であったでしょうし、「助命嘆願」の世論の盛り上がりで、軍法会議で死刑求刑も禁固15年の判決、5年後の釈放は「余りにも許しがたい暴挙」と感じていたでしょう。

姉の犬養道子氏(92歳、評論家)は、「父を殺した元凶は陸軍の石原莞爾だ」と公言していたので康彦氏も同じ思いだったのか、私が「石研」を名乗った時から嫌悪感が走っていたのかも知れません。話が順調に進めば「それは誤解ですよ」とお伝えしたかったのですが、それは初っ端から頓挫してしまいました。

ご承知のように、私の手許には昭和11年(1836年)、永田鉄山・軍務局長(中将、長野県諏訪市出身)を刺殺した相沢三郎・中佐(出生は福島県白河町、本籍は宮城県仙台市)の銃殺刑前日に石原将軍に手渡された墨書(遺書)があります。「和解」に向けて墨書公開の時期を今、私は考えあぐねているところです。

(^-^)M・S

.. 2013年03月10日 18:53   No.503006
++ 島田守康 (小学校高学年)…27回       
あの衝撃的な東日本大震災から本日、2年目を迎えました。

下記写真の名取地区には姉など甥っ子、姪っ子夫婦ら十数名が居住していましたが、海岸から4キロ以上離れていたため、幸い、みな無事でした。

一番危なかったのは甥っ子の嫁さんで、仙台空港の土産店に務めていましたが、二階が水没する寸前に上階に上がって助かったとのことです。また姉貴は勤務先の閖上(ゆりあげ)地区の割烹店が押し流されたものの、車の出勤間際で津波から逃げおおせて助かったとのことです。この店では以前に兄弟一族の宴会を開いたことがあり、あの立派な店と美味しい料理が無くなってしまったことは、誠に残念なことです(店長始め従業員は全員助かったものの、全員自宅を遺失)。

2年目を迎えた今日でも避難者は福島県を中心に15万人以上、狭い仮設住宅での居住者も多数にのぼっています。遺族の心の癒しは望むべくもありませんが、復興のペースを一日でも早く上げて欲しいものです。

この苦難の中で、「絆(きずな)」という心の結びつきの大切さが国民の間に広く認識されたことが、唯一の救いかも知れません。

震災当日の、まだご紹介していない津波映像を下記にお知らせします。車載カメラの映像は、貴重なものだと思います。

 ▼仙台空港水没映像 こちら

 ▼車載カメラの映像 こちら

 ▼地震発生直後の市街地の様子 こちら

 ▼福島第1原発への津波映像 こちら

 ▼宮城県多賀城市の河川映像 こちら

 ▼宮城県石巻市の被災映像 こちら

(^-^)M・S

.. 2013年03月11日 11:24   No.503007
++ 島田守康 (小学校高学年)…28回       
「あの日を胸に、未来を信じて、ともに生きる。」――昨日の新聞各紙は東日本大震災2周年目の特集記事を組みました。あの日は、「ただ普通であることの幸せ」を感じさせた日でもありました。余震は震度1以上が震災前の5倍にも増え、これは少なくとも10年間は続くと予想されています。

まさしく、東日本大震災は日本人が「地震列島」に住む自然の脅威に晒される住民であると同時に、原発という文明の利器による脅威にも晒される住民であることも均しく自覚させられる出来事でした。さらにエネルギーの輸入による貿易赤字の増大に加え、日本弱体による近隣諸国からの外交攻勢という四重苦にも晒され、「戦後最大の危機」に直面していますが、今こそ日本人の特性である“絆”を最大限に発揮して、国民「一丸」となって克服すべきものと思います。

安倍政権の誕生によって、「安全と安心が倍加するニッポン」への基本路線は敷かれました。「やればできる、絶対出来る」、そう確信して「晋めば三倍の効果」となって跳ね返って来ることは、名が体を表わしています。

今回は各地で催された鎮魂の“祈り”風景を中心とした写真をお送りします。

※死者1万5881人、行方不明者2668人、避難者31万5000人、M4以上約780回(この1年間、震災1年間は約5000回)。なお、M5以上の地震回数を同じ期間で比べると、2004年に発生したインドネシア・スマトラ沖地震の約1.4倍、2010年のチリ中部沿岸地震の約2倍となっていて、世界で発生した巨大地震の中でも他に例のない余震活動となっている。 また、国土地理院が行なった衛星を使った調査では、宮城・牡鹿半島にある観測点が震災前に比べて約6.2メートルも東に移動していることがわかった。このうち約5.4メートルは震災発生時に動いたものだが、「余効変動」と呼ばれる地殻変動によって、2年たつ今でも動き続けていることが明らかになった。 気象庁は、余震活動は徐々に低下しているものの、今後もまれに津波を伴うような大きな地震が発生することもあるため、引き続き注意してほしいと呼びかけている。

(^-^)M・S

.. 2013年03月13日 15:51   No.503008
++ 島田守康 (小学校高学年)…29回       
日本の知の世界牽引者、“ニューアカデミズムの祖”と呼ばれる山口昌男氏が先日10日、逝去されました(享年81歳)。文化人類学者として有名で、長く東京外国語大学で教鞭をとったのち、札幌大学の学長も務められました。

「知の巨人」だけあって、単著だけでも50冊をものにしていますが、その中の一冊に石原莞爾将軍を取り上げています。1995年に発行された『「挫折」の昭和史』(岩波書店、現在文庫分となって上下巻、定価各1260円)で、宣伝文句によると「昭和モダニズムは満州で開花する一方、戦時下の文化・スポーツ活動に結実した。その担い手は林達夫、小泉信三ら“挫折”を経験した人々であり、石原莞爾らの知的水脈と共鳴した。近代日本の歴史人類学という課題に挑む労作」とあります。

ネット上のある評者によると、「石原莞爾の従来あまり注目されて来なかった“軍人の教養”という側面を明らかにして、現代史研究にありがちなイデオロギー的偏差からひとまず自由になり、『人間・石原莞爾』の実像を探究したもの」と語られています。

実は、私は戦時中、盗難・焼失に遭いながらも1万点を超える書籍・書簡・遺品類が現存している石原将軍関係資料の経緯を知りたかったのですが、仲條立一・菅原一彪編『石原莞爾のすべて』(新人物往来社、1989年刊)中の仲條立一筆「石原文庫始末記」と共に、この山口氏の大著中の「読書する軍人」の章にある「補論・将軍の蔵書」に多くの新知見を得ました。

この両書文面によって、初めて関係資料の全体像が読み解けた感じがして、私はそれを元に「石原莞爾将軍の蔵書顛末について」と題する一文をしたためましたが、これはまだ未公表です。

北海道から上京の折にはインタビューもしたいと考えておりましたが、今となっては大きな示唆を遺してくれた山口昌男氏に感謝です。


(^-^)M・S

.. 2013年03月14日 09:03   No.503009
++ 島田守康 (中学生)…30回       
本日、中国の新国家主席に習近平氏が就任しました。氏は私と年齢が「花の二八」の昭和28年(1953年)生まれの同じ59歳。われわれと同期の人間が一国を、そして世界を動かす存在になったのだと改めて「加齢のスピード」の速さを感じさせられますが、私は今日を境に、余命をこの「習近平との戦い」と位置付けることにしました。

大学で東アジアの国際関係論、とりわけ中国を専攻した者としては、「中国の行く末」は生涯をかけて全うしなければならない課題、と思ったからです。しかも、中国が学生時代には想像もしなかった「軍事大国」に変貌し、その矛先と牙を日本に向けている「悪しき」現共産政権とは真っ向から勝負しなければならない、と強く思ったからです。

かつて李鵬首相(85歳)は20年前に「日本は20年後には消滅する」と語り、唐家璇・中日友好協会会長(75歳)も本心でそう願っていますが、私は返す刀で「習近平政権の共産党は10年後には消滅する」と断言します。

以前に私は習近平の容貌はチンギスハン(成吉思汗)と似ていて、日本攻撃を開始するだろうと指摘しましたが、この点では大川隆法の「霊言」と一致します。モンゴル帝国が日本に手を出したことによって消滅したように、「歴史は繰り返す」はずです。

「中華帝国の執拗な日本へのちょっかいと宣戦布告」は、そうした「歴史的、宿命的な墓穴の予兆」と大悟すれば、対中国対応も気楽なものです。

(^-^)M・S

.. 2013年03月15日 11:54   No.503010


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