返信


■--日中戦争
++ 増田都子 (幼稚園生)…1回          

「NHKスペシャル (アンコール放送) 日中戦争 〜なぜ戦争は拡大したのか〜初公開の「蒋介石日記」浮かび上がる国際戦略」については、「決定的に欠けているもの=歴史の偽造」、それは「軍部の独走」と、いうことです。軍部だけで「独走はできなかった」のが事実です! 大元帥・昭和天皇の「追認」無しに軍部だけが独走することはできなかった!? のであり、この「事実」無しに、「 日中戦争 〜なぜ戦争は拡大したのか」の真実を理解することはできないのです。
具体的にいえば、1931年9月18日の柳条湖事件は、確かに現地の関東軍が「独走」し、朝鮮軍司令官林せん(「金」篇に「先」という漢字)十郎は天皇の許可可なく「独断越境」し関東軍と協力して満州を占領しました。軍隊の移動については大 元帥・昭和天皇の大権事項であり、許可なく移動させることは陸軍刑法では、最高刑 が死刑である重罪です。この時はまだ存命中だった最後の元老・西園寺公望は、昭和天皇に林を重罰に処するよう、進言しましたが、昭和天皇は、これを退けたばかりか、関東軍に嘉賞の勅語を与え、後には林を内閣総理大臣に任命します。

南京占領の時も、同じです。大元帥として、南京大虐殺の情報が彼の耳に入っていなかったはずはない(これについては、客観的証拠は隠滅されているようですが)のに、占領軍に、やはり嘉賞の勅語を与えています。この嘉賞の勅語ほど、「軍部の独走」を後押ししたものはないでしょう。「軍部の独走」は昭和天皇の「承認」無しにはできなかったのです! 「軍部が独走」したとすれば、その責任の最大部分は、唯一、「軍部の独走」を抑える権限を持っていた昭和天皇にあります。

太平洋戦争については、確か何回も(5回だったかな?)の御前会議を持ち、「軍部の独走」どころか、大元帥・昭和天皇の指令の下、周到な会議(にしては、会議内容は杜撰そのものではありましたが)と準備の下に始められたものであることは、現在、ちょっと、まともな歴史学者の本を読めば歴然としています!

「軍部の独走」という神話が大々的に報道され続ける限り、「侵略と植民地支配」 についての「歴史の偽造」は作り続けられ、「日本人」は「歴史の真実」から目隠しをされ続けるでしょう。それが「侵略と植民地支配の真実」を中学校の社会科の授業できちんと教える私を「公務員不適格」として免職しなければならなかった理由です!

さて、NHKが、「軍部の独走を後押しした昭和天皇の戦争責任」について、真正面から取り上げられる日は来るのでしょうか?
.. 2007年02月12日 19:17   No.50001

++ 葉山 (幼稚園生)…1回       
久々にホームページを見たら、明らかに左翼クズレの元教師っぽいのが、中共のプロパガンダみたいな、浅はかで不勉強な書き込み。あんまり馬鹿馬鹿しかったので、初めて書き込みをして、けちょんけちょんにしてやろうと思いましたが、誰かがどうせ何か書くだろうと思い止めました。(-.-)なんなんでしょう?まあ、思想は人それぞれだから良いのですが。
石研もいい加減若い世代が色々なことを行動的に進めていくようにしなければ、先は見えてしまいます。若い世代、といっても誰がいるかよくわかりませんが、若い世代を集めた会派でも作りたいですね。西野さんも是非、巻き込んで。(笑)お父様がいなくなられ、同志の方達も去られ、なかなか大変でしょうが、僕もできる限り応援しますし、何かあれば助太刀いたしますので、頑張って下さい。o(^-^)oまあ僕に言われてもって感じですよね。(-_-)ところで結局役員会はどうなったのですか?

.. 2007年02月16日 10:05   No.50002
++ タク (高校生)…65回       
増田都子先生の講演、お誘いいただいた件ですが、とても興味があるので是非、参加したいと思うのですが、3月2日、有楽町のよみうりホールで社会保険講演会が終わったその足で、名古屋へ出張します。
午前中に社員教育を行う予定になっているので間に合わないかも知れません。間に合うようでしたら顔を出したいと思います。

「NHKスペシャル (アンコール放送) 日中戦争〜なぜ戦争は拡大したのかは、見ていないのですが、「蒋介石日記」は関心があります。
我が家には蒋介石に当てた手紙の原文があります。

日中戦争の私自身の思いを少し書かせて頂きま
す。アジアは白人の植民地支配で中国に手を出し、ベトナムやラオスと次々に支配されました。アジアで植民地でなかったのは日本と同盟国のタイ王国だけです。
この時を生きていた日本人が抱いた切迫感はよくわかるのでないでしょうか。
日本国が白人支配をくい止めなければアジアの民が奴隷にされてしまうという論理から満州合衆国を建設しようと石原莞爾は立ち上がり満蒙問題の解決には石原莞爾の描いた満州事変を行ったのです。

満州国は決して植民地国家ではなく、欧米の帝国主義支配を排してアジアに理想国家を建設する運動の場でありました。満州国建設は一種のユートピア実現の試みで建国育成は、歴史上前例のないトライアルです。侵略、植民地化万能の歴史的時代にあって、満州の地に民族協和する理想国家を作ろうとしたことは、日本民族の誇りです。
しかし、日本が満州国だけを大切にしていれば、中国側に不満が残ったとしても、いずれ国際的にも認められるようになり、日中戦争の悲劇はなかったと思うのです。

だが、関東軍は石原莞爾の反対を押し切って軍事力を背景に、万里の長城を越えて中国本土に対する圧力を加えた。中国の忍耐力は限界に達し、反日運動は全国的に広がり、戦争の危機が迫ってきた。その局面を打開する為に行われた日中外交交渉が、日本側の強硬態度と関東軍の暴走により失敗した後、中国側は綏遠事変、西安事件を契機として抗日民族統一運動の体制を固めていきました。

ようやく日本は反省して、蒋介石率いる国民党と通じ合い政策転換も行われたのだが、真相は不明の盧溝橋での関東軍に向けての一発の銃弾は日本政府の不拡大方針が、上海事変を誘発して首都南京占領となり、ついに本格的な日中戦争に陥ってしったのです。
その間に戦争回避のチャンスがあり、日本の軍部の中では石原莞爾が努力した。
とくに盧溝橋事件直後から上海事変までの段階では、和平の可能性はなお強かったのだが、中国共産党が中国国民党を後押しして抗日気勢は高揚し、有力な和平案も試みられたが、タイミングの悪さもあり実を結ばなかったのです。

.. 2007年02月16日 18:29   No.50003
++ タク (高校生)…66回       
上海占領後も、南京攻略のとき日本政府が講和を行わなかったのは大失策だと思います。戦勝に酔いしれ、ドイツの調停工作も積極的に利用しようとせず、それが日本側の高圧的な態度によって失敗した後、交渉相手の存在を無視するという日本政府の政策により、長期戦に移行して、ついに泥沼化していったのです。日中戦争は長年に渡る日本の大陸政策と中国ナショナリズムとの総決算であったが、その対立は、戦争によってしか解決できなかったというわけではない。日中戦争を行わないという信念のもとに、さまざまな和平努力も行われていたのも歴史の真実です。

戦争を避けられない難しい要因のひとつは日本という国家の性格です。功名が欲しがる軍人の行動を制御する難しい状態になってしまった事です。このことは2・26事件によって象徴されています。
軍からの心理的圧迫によって萎縮させられ、外交・内政両面における軍部の発言力が強化され、その独走、横暴がまかり通ることとなり、それは現状打破を求める国民感情と結びついていたのです。

さらに、日本は中国と戦っても決して負けることはなく、服従させることができる。
中国と戦争しても決して国を滅ぼすようなことはないという思い上がった考え方が、国民全体に広がっていたということです。
日清戦争後、顕著となった日本の対中優越感、中国蔑視の観念は中国民族を理解することをせず、抗戦能力を過小評価して中国に武力行使し、侵略をおしすすめてしまったのです。

中国からみれば、満州事変以降の日本の帝国主義は、中国のナショナリズムをまったく無視するものでしょう。したがって中国国民の対日不信感、反日感情は、地域、階級、身分、職業を問わず、限界に達していたのであり、もはや安易な妥協を許さず、抗日意識は戦場での士気をあげてしまいました。
中国を容易に武力で制圧できるという先入観が、日中戦争を避けることを困難にした大きな理由なのです。

ただこの点は、この戦争の泥沼から抜け出すべく米国に期待して日米交渉に入り、その決裂の結果、ついに戦争へ突入した、日米戦争とは異なるところです。日米開戦の経緯については検討しなければならないが、ただ日米戦争の方が日中戦争より回避することが容易であったのだと思うのです。

昭和天皇の戦争責任の件はここでは書きません。
ちなみに私の祖父は昭和天皇と長期間、戦艦で旅行しています。

.. 2007年02月16日 18:57   No.50004


▼返信フォームです▼
Name
Email
ホームページ    
メッセージ
( タグの使用不可 )
Forecolor
アイコン   ICON list   Password 修正・削除に使用