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■--関東軍
++ 伝 (幼稚園生)…3回          

昭和六年には、張政権と日本との全面対決はさけられない状況になっていました。再び保坂富士夫「満洲事変と石原莞爾将軍の信仰」より、引用します。「事ここに至って、関東軍はいかなる行動をとるべきか、来るべき世界の大勢を睨んで満を持していた石原中佐は、どうせ火を噴く戦争であるならば、これを単なる日本の権益擁護、あるいは日本の勢力拡張という、覇道帝国主義的戦争に終わらしめず、この武力衝突を逆手にとって百八十度の展開をなし、内には、これまで英米の尻馬に乗って中国を蔑視して来た日本の帝国主義的対支政策に終止符を打つと同時に、外には、日支両国の提携共同の方向を開く端緒たらしめようとしたのであります。そしてその建設過程を通じて日本国家の覚醒と革新を導き出し、統一国家への途上にある中華民国を誘導して、世界史転換の幕開け足らしめようという雄大な構想を秘めていたのであります。」事変決行にあたって、石原中佐は「皇道これを許すならば、世界を挙げて襲い来るとも恐るるに足らず」と軍に対して言っています。皇道と王道は同じことです。この精神で関東軍は戦ったことと推測します。
.. 2006年07月15日 22:07   No.5001

++ タク (小学校中学年)…10回       
1931年(昭和6年)、汪兆銘らが樹立した広東の国民政府で外交を担当していた陳友仁が来日して、当時、若槻民政党内閣の外相だった幣原喜重郎に密かに会って、満州の日本への譲渡を打診しました。

これに対して幣原はこう答えています。「満州を住民ぐるみ買いとることはご免だ。満州住民をことごとく渤海湾に投入して皆殺しにする権利を承認するという条件のない限り、満州とともにその住民をうのみにすることは爆弾を抱えて眠るようなものであるから、タダでも貰い受けません」(幣原『外交50年』)

幣原は、荒れ狂う馬賊がいて治安が乱れている満州ではいくらタダで満州をあげると言われても割に合わないことを知っていたのです。ここで満州支配の話は立ち消えとなったが、森と満州との繋がりはこの頃から形作られ、やがて満州事変などを経て強固なものとなってゆくのですね。

.. 2006年07月17日 06:59   No.5002
++ 六 (幼稚園生)…2回       
日露戦争の前に、ロシアはたしか大連まで、鉄道をひていたのですね。そして旅順には難攻不落の近代的要塞を構築していた。乃木将軍はこの要塞を攻めたので、理論的頭で考えたらできなかったことかもしれない。それはともかく、日露戦争の結果満洲鉄道ができます。関東軍の固有任務は、満鉄の保護にあったわけで、関東軍司令部条例(大正八年四月十一日制定)第一条に、「関東軍司令官は、・・・・・天皇に直隷し、関東州及南満洲に在る陸軍諸部隊を統率し、且つ関東州の防備及南満洲に在る鉄道線路の保護に任ず」。ところが、昭和六年のころの状況は、条文の文字どおりの解釈では、対応しきれないようなことになっていたと思います。もし満鉄の爆破がなければ、シナ東北軍が日本軍の討滅行動をおこす計画があって、「日支開戦は日本軍の襲撃に基くものなることを中外に宣言し列強にうったえて日本屈服の方途を講ずる」なる一文もあります。(古野直也著「張家三代の興亡」の記載による)
.. 2006年07月17日 22:53   No.5003
++ 六 (幼稚園生)…3回       
訂正します。関東軍の任務は「関東州の防備」と満鉄の保護です。二十倍の兵力をもつ張学良軍が敵対的行動をしているのだから、おそらく満洲を占領してしまうほかに防備をまっとうできる方法はなかったのではないかと素人思考をしています。満洲占領の考えを主張したのは、中国人の政治能力に疑念があったからのようです。孫文が革命をおこしたときには石原莞爾は万歳を叫んでいますが、革命の後は軍閥の割拠となって、民の苦しみはますばかりでしたから、そういう疑念を持ったのでしょう。満洲事変の展開のなかで、中国人の政治能力を知った石原莞爾は満洲建国に考えを転換します。
.. 2006年07月18日 20:44   No.5004
++ タク (小学校中学年)…11回       
対外的な影響を鑑みると、日露戦争は日本人のイメージを決定したところがあります。アメリカ人の従軍記者ウォシュバーンが、「乃木」という乃木希典の本を書いたり、農学者の新渡戸稲造が英文で「武士道」がイギリスでベストセラーになったり、 このとき流布したサムライとしての日本人のイメージはかなり大きいと思います。

日露戦争後の満州史を、日本軍の「侵略、虐殺、略奪、搾取」の歴史と見なし、「反満抗日」のみで語るのは悲しいことだと思います。
そもそも関内、(長城内)の中国人にとって関外、(長城の外)の地は荒れ地であり、風土病の地でもあったと言います。
20世紀に入っても、新たに開拓する土地であり、日本の租借地であった関東州と満鉄所属地以外、近代産業らいしものもなかったのですね。
しかし、満州国建国後13年半にして、そこは北東アジアの重工業の中心地となり、自動車や飛行機まで作られる近代産業国家に成長しました。
日本人の開国維新以来のすべての情熱と技術の枠をそそぎ込んだ結晶です。日本人は誇りに思わなければならないと思うのです。


.. 2006年07月19日 08:07   No.5005
++ タク (小学校中学年)…12回       
未開の地の満州買収計画がどのような経緯でまとめられたのかは解明されていませんが、孫文が来日して、3回にわたって内閣を組織した桂太郎と会っています。その際、桂は孫文に対し、人口増加の勢いからも日本は満州に発展するほかない、と説いていました。孫文はかねがね革命成就のためには満州を日本に譲ってもよいとの考えだったと言います。また、この桂・孫文会議のころ、桂は森恪に会い森に「キミは支那を料理せよ」と言っています。この桂の意向を受けた森が、東京で中国側の情報も集めて、側近の山田に交渉を指示したのです。

.. 2006年07月19日 08:12   No.5006


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