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■--石研の野村乙二朗先生
++ 島田守康  (幼稚園生)…1回          

石研の野村乙二朗先生(元国学院大学講師、82歳)が、『毅然たる孤独 石原莞爾の肖像』(同成社、定価2800円+税)という本を出されました(来週20日、火曜日より全国発売)。それに先立って、記念講演会が先週の土曜日(10日)、友好団体の「はちどりクラブ」の主催で新宿・飯田橋にある区民センターの一室で開かれました(参加者20名)。

野村先生は、解読に難渋する『石原日記』や、石原将軍が軍在籍中も進めた民間大衆運動「東亜聯盟運動」についても丹念に調べ上げた在野の研究者で、この度、その集大成というべき大著(P325、二段組み)を上梓されたわけです。

本会で出版記念会を開けないのが残念ですが、いずれにしろ、機関誌『永久平和』の次号には野村先生のインタビューを掲載する予定です。もともと、この時期(順番)に予定していたのですが、まさか新著のための執筆をしていたことは思いも寄りませでした。でも、タイミング的にはベストの出来事です。

講演会では、タイトルの「毅然たる孤独」の由来が語られました。今回、なぜ「毅然たる孤独」にしたかというと、先年亡くなられた後藤象二郎・弁護士(冤罪追及の人権第一人者)から聞いた話によるということです。

昭和20年(1945年)3月、岩手県の花巻温泉で開かれた東亜聯盟の座談会に出席した旧制一高の後藤青年が、石原将軍の面白い話に笑い声が絶えなかった会場で、ある人が「日本はアジアの盟主だから……」と言ったとたん、石原将軍は「日本がアジアの盟主とは何事だ。日本民族も漢民族も朝鮮民族も蒙古民族もみな平等ではないか!」と色をなして語り、その怒気は周囲が震えあがるほどの迫力だったと言います。
.. 2012年11月17日 16:01   No.456001

++ 島田守康 (幼稚園生)…2回       
また翌朝の冷気の漂う中、大勢の温かい同志に取り囲まれながらも、厳然と屹立する石原将軍の孤高の姿に「毅然たる孤独」を感じざるを得なかった、というのです。

この意見には、「最盛期20万人の会員組織を誇った東亜聯盟を率いた石原将軍が孤独だったわけがない」という反論の声が当然予想されますが、軍の主軸になり得ず、民の主軸にもなり得なかった「悲劇の将軍」の内面は、いかに多くの取り巻きが居ても、やはり孤独で、しかし、それは「世俗と一切妥協することなく孤高、屹立する崇高な聖職者の姿」に似てはいないでしょうか。

私が今から16年前(平成8年、1996年)に手掛けた本に『永久平和の使徒 石原莞爾』(冬青社、定価2800円+税)というタイトルを付けたのも、石原将軍に「神仏の使い」の意味合いを感じたからです。

また、野村先生の話に、昭和天皇に嫌われた石原将軍の原因は、「より英明な弟君」秩父宮殿下との関係にあったとの指摘がありましたが、私もそう思います。これを語ると本題からずれるとして、それ以上は語りませんでしたが、強調されていたのは満洲事変は対中戦に主眼があったのではなく、第一大戦後の欧米、特にアメリカに対する戦後秩序への挑戦、即ちアジア独立の狼煙火だったということです。これは前回インタビューした保阪正康氏の指摘と共通するものがあります。

一方、この見解は、前々回インタビューした五百旗頭 真・前防大校長の「15年戦争史観(満洲事変が起爆剤となって、日中、太平洋戦争に繋がった)」と喰い違うもので、ともあれ、次号の野村先生の話に期待して頂きたいと存じます。

なお先週末、同じく石研の仁科悟朗先生(元明治学院大学教授、現ハンブルク大学客員教授、78歳)が、ドイツから久々に帰国されました。仁科先生にも、いずれ「ドイツ、ヨーロッパから見た石原将軍、満洲国観」などについてインタビュー予定です。こらちも乞うご期待です。

(^-^)M・S

.. 2012年11月17日 16:13   No.456002
++ 島田守康 (幼稚園生)…3回       
昨夜、わが石研の会員であった藤本敏夫氏(享年58歳)の「没後10周年の集い」が、東京千代田区の「松本楼」でありました(参加者約200名)。彼は今から20年前の平成4年の参議院議員選挙の際、石研から立候補した3人のうちの一人で、当選したのは武田邦太郎先生だけでした。

当時、石研はこの3人のうち誰を推すかで揉めたのですが、私は石原将軍の薫陶を直接受けた長老の武田先生(当時80歳)を推しました。昨日入ったニュースによると、武田先生は15日に亡くなられたとのことです。百歳にあと1ヵ月という大往生でした。その武田先生は昭和21年、20歳の若さで石原将軍の意を受けて戦後初の国政選挙に立候補し落選しましたが、時を経た「日本新党」では当選後すぐに副代表として細川内閣の影で支えて活躍されました。

一方、藤本氏ですが、千葉県の鴨川に「自然王国」を設立して、その代表として農業問題にいそしんでいましたが、糖尿病による体調不良がありました。

私は選挙後に、新しい健康雑誌の創刊に関わったので、「わが会の次世代のホープ」である藤本氏に、初回から連載記事をお願いし、ご本人も快諾してくれました。結局、その雑誌はロゴ盗用問題で4号で廃刊となってしまったのですが、ある時、藤本氏から「登紀子が店でライブをやるから来ないか」と誘われて表参道にある自営ロシア料理店に行きました。そこには大きな常設ステージがあって、私は大勢のお客の前で、その廃刊のお詫び挨拶をする羽目に陥ってしまいました。

これが登紀子女史とお目にかかるキッカケとなったのですが、10年前の青山墓地で行なわれた「偲ぶ会」(約1000人参加)では、彼女の「恋人・敏夫を失った悲しい顔と追悼の歌声」は今も強く脳裏に焼きついています。

当時、弔辞を読んだ筑紫哲也キャスターは今は亡き人になり、同じく挨拶した武部 勤・農林大臣にはその後、国会内でインタビューすることが出来ました。武部氏が私を衆議院議員運営委員長室に呼んでくれたことは嬉しいことでした。質問項目の最後に、その葬儀のことを聞いた内容は、月刊『食の科学』(2004年3月号)に載りました。

.. 2012年11月23日 06:35   No.456003
++ 島田守康 (幼稚園生)…4回       
昨夜のイベントですが、最初に生前の藤本氏とは一面識もないという中沢新一氏(明治大学野生の科学研究所長)の記念講演がありました。「本日の演題を赤から緑へとしようと思ったが、主催者の大地の会から、出席者の3分の1が赤(元全共闘活動家、藤本氏は元三派全学連委員長)なので止めた方がいいと言われた」と笑いを誘って、話を進めました。話の内容は、人間生活の根源である「農的暮らし」の重要性は、まだ顕在化していないが、目に見えない形で日本社会に広まってきており、その先見性を見越して実践してきた藤本氏の功績を称え、「次世代にバトンタッチする必要性」を強調しました。

記念講演の後、実際に農業に従事している40代の若者3名の話があり、司会を務めた登紀子女史は、バングラデシュとブータンに行って来た話をしました。「バングラ、ブータンともに有機農業を指導する訓練・宿泊所があるが、ほとんど生徒は居なかった。学校に行くと、みな都会に働きに出て二度と農村に戻って来ない。しかし、そこの教師たちは農業の重要性を自覚するエジュケイティッド・ファーマーづくりが課題だと自覚していた」との話を披露しました。

そして彼女は、「フリーターや失業者、高齢者の増加している日本は、むしろ人口が流動化しているダイナミズムと捉えて、農的な生活をする素晴しい時代がやってきたとプラス的に考え、希望を以って邁進しましょう」と呼びかけました。

乾杯の後は、立食パーティーとなり、私は乾杯の音頭を取った高野 孟(はじめ、早稲田大学客員教授、サイバー大学客員教授)や福岡の農民、東京の若者と話をしました。若者は「石原莞爾は漫画本で読んだことがあるものの、実像は知らない」と言っていたので、藤本氏と石原将軍の関係などを語り伝えました。漫画での影響の大きさを、改めて知らされました。

イベントの最後は、登紀子女史が来年の正月番組のために作った曲を披露しました。白虎隊がテーマで、藩主に農業を勧め、負ける戦をしないよう諫言する家臣の物語だそうです。

イベント終了後、「石原莞爾平和思想研究会の者です」と言って、私は登紀子女史にインタビューを申し込ました。イベント開催前に事務所の女性にその旨を伝えておいたのですが、ご本人に挨拶しておいた方がよいと思って出向いたものです。「そうですか、合間を見てお受けしましょう」とにこやかに手を握ってくれて、あの柔らかい温もりのある感触は10年前と全く変わっていませんでした。顔つきも若くなったような気がします。年内の短時間インタビューは実現するはずです。

なお、藤本氏は私が手掛け、前回ご紹介した『永久平和の使徒 石原莞爾』(冬青社、1996年刊、定価2800円+税)の書評を書いてくれました。これは産経新聞に載り、そして本書が侍従長の要請により、宮内庁に5冊入ったことは、私の編集者人生で最も光栄なことでした。

(^-^)M・S

.. 2012年11月23日 06:43   No.456004
++ 島田守康 (小学校低学年)…5回       
昨日、石原慎太郎氏の辞職に伴う都知事選に副知事の猪瀬直樹氏(66歳)が出場を表明しました。彼は長野県信州大学の出身で、昭和44年(1969年)には同大学の全共闘議長を務めています。

今度の立候補者9人の中で、恐らく石原莞爾将軍について語っている人は、彼しか居ないと思います。今から24年前に出た「満洲事変」特集に関する書物(『別冊歴史読本 未公開写真で見る満州事変』新人物往来社、1988年特別増刊号、定価1200円)の中で、猪瀬氏は「石原莞爾が放ったのはホームランすれすれの大ファールだった」と述べています。

そして彼は、「その満洲事変の立役者にしても事変から一年もたたないうちにジュネーブ軍縮会議随員という閑職に追いやられますね。事実上、統帥権の干犯をやりながら、それが不問に付されたのは、官僚機構のお陰ですが、その官僚機構から発せられた一片の辞令によって石原は満州の表舞台から姿を消さざるを得なかったというのも皮肉な話です」と皮肉っぽく語っています。しかし、前回ご紹介の69年に三派全学連議長だった藤本敏夫氏や、当時高校生だった私とも違うところは、その後「石原将軍の薫陶を受けた生き証人と出会ったかどうか」で判断はまるっくり違ってくると思います。

同じことは、防大校長で復興構想会議の議長だった五百旗頭 真氏や作家の保阪正康氏にも言えることで、「素晴しき生き証人」と出会ったからこそ、石原将軍の「プラス面」を正当に評価できるわけです。私は石原将軍は野球で言えば、一回裏先頭打者ホームランを放ったものの、五回には5点を取られ(ノモンハン事件の敗北、南進へのキッカケ)、そして九回の表には打者二巡の大量15点、裏の味方攻撃は三者連続三振で試合終了(ソ連軍の侵攻により満洲国の崩壊)と思います。思い出したくない「20対1の悪夢の凡試合」、すなわち「坊主(偽満洲)憎けりゃ袈裟(建国立役者)まで憎い」――すべてが批判の対象に……。

今現在、猪瀬氏が石原将軍や満洲国のことをどう評価しているか判りませんが、満洲国がアジアの中で「一瞬ながらも先端の光芒」を放ったことは間違いありません。満洲国の建国当時の人口は3000万でしたが、崩壊時の13年間に東京都の人口の2倍に匹敵する2000万も人口が増え5000万人になっています。いかにこの国に魅力的な吸引力があったか想像できるわけですが、失敗も含めてこの中にこれからの新しい国づくの教訓は沢山あるはずです。

これから彼が「日本の中核都市」である東京都民1200万人のみならず、「国の牽引力」になり得るのか見ものです。他人批判でメシを食って来た「評論家」肌から脱して、いかに多くの人に生活実感の喜びを与えられる「政治家」になれるか、これからが彼の試練のしどころで、期待するところです。

(^-^)M・S

.. 2012年11月24日 14:01   No.456005
++ 島田守康 (小学校低学年)…6回       
中国の新しい総書記に就任した習近平(58歳)は、初の就任演説で「中華民族の高揚」を謳い挙げました。「民族至上主義」で、これは石原将軍が掲げた民族協和と真っ向から対立するものです。それは孫文の「アジアは一つ」の精神にももとり、野郎自大の唯我独尊そのものです。

「遅れてやってきた帝国主義」を推進する中国共産党政権ですが、かつて国民党政権には胡適という外交官が居ました。まさしく日中戦争を有利に進めるために駐米大使として活躍したわけですが、石原将軍は戦中、彼との接触を図りたかったことが明らかになっています。結局、それは叶わなかったのですが、昭和11年(1936年)11月、その代理人の●●●・北京大学教授とは面談に成功しています。胡適は、「日本が華北から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」と主張していたと言います。

石原将軍は浅原健三(八幡製鉄の労働運動家、のち衆議院議員)の意見書に基づいて、満洲国の建国大学の教授陣には、この胡適のほか、トロッキーやガンジー、胡適、周作人(作家)など、広く世界の天才的学者、革命的指導者などユニークな自由人士の招聘に同意していましたが、残念ながら、それが実現することはありませんでした。

胡適(1891年〜1962年)は駐米大使の赴任後、北京大学の学長を務め、戦後はアメリカに亡命、国共内戦後は台湾に移住し、中華民国の外交部顧問、中央研究院院長を歴任して生涯を閉じました(享年71歳)。

私が初めて知ったことは、胡適は昭和14年(1939年)にノーベル文学賞候補者になっていたことです。そして彼は日中戦争が始まる前の昭和10年(1935年)に、「日本切腹、中国介錯論」を唱えていたと言います。また戦中、日本の同盟通信(今日の共同通信)記者だった松本重治に「日本に具眼の士は居ないのかね」と怒りを露わにしたとのことですが、戦後のいまも日本に「具眼の士」が居ないことは認めつつ、それは中国側とて同じことが言えるはず。

碩学に裏打ちされた対外PR上手な「胡適がいま日本に欲しい」気持ちは判りますが、人材の貧困度は、時代に逆行している中国の方がより深刻と言えます。

日中双方に叫びたい。「出でよ、碩学、消えよ、ボンクラ」と。

(^-^)M・S

.. 2012年11月27日 18:42   No.456006
++ 島田守康 (小学校低学年)…7回       
産経新聞に連載の「寮歌物語」11月25日(日)の記事に加藤登紀子女史(69歳)の記事が出ていました。故藤本敏夫氏(享年58歳)が、妻である出生地が満洲国の北方、哈爾浜(ハルビン)からの生き残り帰国女史であったことから、その家族に思いを寄せ、満洲国の建国と崩壊とキーマンだった石原将軍に関心を抱いたのも、必然の流れだったように思います。

「寮歌祭」と言えば、だいぶ以前にホテルオークラで開かれた会合に友人の誘いで参加したことがありますが、そこに参加された方々は奥様を含めて、私が参加した会合では最も「上品」な人ばかりでした。まさしく「日本の知性を体現している」と思ったものですが、その寮歌祭も参加者の高齢化と少人化により一昨年に中止となりました。

父親が寮歌に熱心だったことから、男に代わって女である娘の登紀子女史が寮歌を吹き込んで伝承作業をやってきたわけですが、「生」が聞けなくなっただけでなく、「真のエリート」も存在しなくなったことが何より残念なことです。

藤本氏が終生追い求めてきたのは「共同体」づくりでしたが、寮歌の真髄は連帯にあり、ともに相通じるものがあるわけですが、外形は変わっても、これは再興して大事に永続させて行きたいものです。

ところで、私は街頭の突撃インタビューで、芸能人女3人のことを聞かれたことがあり、その一人が登紀子女史でした。女インタビューアーから「加藤登紀子さんの印象をどう思いますか?」「(知性があって)素敵だと思います。歌も上手だし……」「どんな歌が一番お好きですか?」「10万本のバラですね……」「そんな歌はありませんよ」「イヤイヤ、100万本でしたね……」と頭をかき、「彼女は結婚の対象になりますか?」「とんでもない、年上だし、旦那さんをよく知っているものですから……」と言って大爆笑となり、これが受けたようで、カメラマンが丁重に頭を下げていたことから、「合格」かなと思いました。

そして1ヵ月後、県外から「いま、あんたの姿をテレビで見たよ」との電話が入りました。何のことか、にわかに判りませんでしたが、あの時のインタビューかと思い出しました。他の2人も1週間後ずつ放映され、その都度、別の県外の知人の電話と、よく通った都内の喫茶店のウェイトレスから知らされ、「いつも誰かが見ている」全国放送のすごさを感じたものです。私自身は放映時間を知らされていなかったので、一度も映像を見ていません。

ともかく、藤本敏夫氏と登紀子女史とは、そんな関係があったのです。なお、藤本氏は「妻の稼ぎで暮らしている」ことに大きな負い目を負っており、彼女のことに触れることを極端に嫌っていました。「昔、男らしい全学連委員長、いま稼ぎのない不甲斐ないヒモ男」の烙印が、彼に肩に重くのしかかっているようでした。

(^-^)M・S

.. 2012年11月30日 10:53   No.456007
++ 島田守康 (小学校低学年)…8回       
本日より、はや師走の12月となりました。となれば忘年会にカラオケは付き物ですが、今年の物故者に尾崎紀世彦氏(69歳)がいました。5月31日に亡くなったのですが、私のカラオケの十八番(おはこ)「また逢う日まで」の持ち歌歌手として、とても哀しい出来事です。

この歌がヒットしたのは昭和46年(1981年)ですから、私が高校3年生で、とてもこ歌詞を理解できる年代ではなかったのですが、社会人となり、記憶にないものの、いつしかこの歌に魅了され、カラオケのフィナーレを飾る定番となっていました。ある居酒風のカラオケ店では、そこの若いママさんから「あなたの歌が今までのお客さんの中で一番うまかった」とのオダテも手伝って、ともかく、この尾崎氏の「また逢う日まで」は、わが生涯の愛唱歌になると思っています。それまでは琴風の「まわり道」でした。

 ▼「また逢う日まで」の動画 こちら

尾崎氏の私生活についての伝聞には、全く関心がありません。私は彼の声量豊かで誠心あふれる人柄に魅了されてきました。彼のほかの歌は謳えませんが、どれも素晴しいと感じています。彼の歌は永遠です。尾崎さん、どうか安らかにお眠り下さい。

なお、先日の「藤本敏夫没後10年の集い」に関して、登紀子女史から参加者に直筆の御礼コピーが送られてきました。

(^-^)M・S

.. 2012年12月03日 14:26   No.456008
++ 島田守康 (小学校低学年)…9回       
新シリーズの第一弾は、本日発行された、わが石研の機関誌『永久平和』(季刊誌)の送付です。ネット会員は3000円ですが、皆さまにはPR版の巻頭言と編集後記の頁のみお送りします(HP こちら でも公開中)。

今号の特集は、以前にもお伝えした野村乙二朗先生(元国学院大学講師、83歳)へのインタビュー記事です。氏ほど難解な『石原日記』などを研究され、大著780Pの『東亜聯盟期の石原莞爾資料』(同成社、2007年刊、定価12000円)をものにした人はおりません。そして昨年の11月には、研究の集大成とも言うべき『毅然たる孤独 ――石原莞爾の肖像』(同成社、定価2800円+税)を発行されました。

「これまでの研究に何百万も費やして来た」という汗と涙の結晶が、どの刊行物に散りばめられているわけですが、「後世に残る歴史的資料を創り上げた」と我々後輩にとっては、その偉業に感謝の言葉もありません。今号のインタビューでは、そのエッセンスを伺ったわけですが、何より石原将軍が生きた戦前と、戦後68年も経った今日では世界情勢もまるっきり変わってしまい、石原将軍が起こした満洲事変(昭和6年、1931年)の狙いや日中提携を目指した東亜聯盟の目的や再興が、全く見えなくなってしまったという問題が浮かび上がりました。

言うなれば、主敵がアメリカから中国に変わったわけですが、そのもろもろの応答については本文をご覧頂きたいと存じます。ともあれ、氏が80歳を過ぎてもなお衰えない探究心と最近はガンを患っているとのことですが、健康体には敬服の至りです。

なお、この記事中で皆さまにお知らせしなければならないことは、独仏共同の公共放送アルテで放映された石原将軍の映像は、当初の予想と違って「戦争を引き起こした石原莞爾」というタイトルで、真逆の姿で放映されたとのことです。取材のために都合3回にわたって来日した仏人ビロリ氏一行(最後は英人、ドイツ人のカメラマンも同行)の意図とは違い、局の判断で変更されたとのことですが、企画書に石原将軍の最高の写真を使ってくれたものの、制作意図(人物像)は私が何度聞いても当初からハッキリしませんでした。

放映後のDVDを送ってくれるよう仏独同時通訳をしてくれたパリ在住の日本女性にお願いしても、今日までそれが実行された形跡はありません。放映後は、私との通信を意図的に避けている感じも伺えます。日本でも未だ石原将軍は「悪者扱い」なので、ムベなるかなですが、今までの彼らの労力は一体何だったのか、ビロリ氏の本音も聞いてみたいものです。

なお、前号にインタビューした保阪正康氏(73歳)からは、氏が主宰している昭和史研究会の機関誌『昭和史講座』(年二回発行)が送られて来ました。こちらも興味ある研究項目が散りばめられていますが、巻頭言の頁のみ添付します。

また読者の一人からは、お薦めの本として柴田哲孝著『THE WAR 異聞 太平洋戦記』(講談社、2010年、定価1500円+税)が、送られてきました。ともに、じっくりと拝見したあとには読後感を披露したいと思います。

(^-^)M・S

.. 2013年01月26日 11:18   No.456009
++ 島田守康 (小学校中学年)…10回       
先日の訃報欄で、かつてお目にかかった方のお姿がありました。元WHO(世界保健機関)の事務局長だった中嶋 宏氏(84歳)です。

実は、中嶋氏が日本で事務局長に推挙される場面に居合わせたのです。それも、私の隣席でした。昭和62年(1987年)、つまり就任の前年ですが、彼の母校、新宿にある東京医科大学で大きな医学大会があった時、私は取材で二階席に居たのですが、来賓で挨拶に立った大谷藤郎(ふじお)厚生省医務局長兼WHO日本政府代表が、「日本からこの場で次期WHO事務局長に中嶋 宏氏を推挙したい」と言い、突然の指名を受けた中嶋氏が一瞬戸惑いの表情を見せながらも、立ってお辞儀をしたシーンは、今でもよく覚えています。

この「歴史的な場面」を私は隣席で目撃したわけですが、何とその2年後には、推挙した大谷藤郎氏に面談することになったのです。それは、昭和天皇の死亡原因に関して、厚生省を退官して皇室の外郭団体(財)藤楓協会の理事長に就任していた大谷氏に伺いたかったからです。この件に関しての内容は、いつか改めてご紹介しますが、大谷氏はその後、平成7年(1995年)に国際医療福祉大学を創立し、初代の総長を務め、今日、この大学が医療関係の巨大な大学に発展していることは、ご承知のとおりです。

大谷氏とはある日、道路でバッタリと遭遇したことがあるのですが、その大谷氏も一昨年、86歳で過去の人となってしまいました。中嶋氏とは、氏が二期10年のWHO事務局長を務めて退任後に来日されて講演会があった時、お目にかかりました。そして当時、私が関係していた国際保健技療学会の機関誌で、氏が共同執筆した本の紹介もさせて頂きました。

講演会での主旨は、WHOが定めてきた「健康の定義」の改変問題で、従来の単に肉体の健康ばかりでなく、人間は高度な「精神」を持った社会的存在ゆえに「Spiritual(霊性)」をも取り込んだ新たな内容にしなければならない、というものでしたが、「精神」「霊性」と「神」は直結した問題で、軽々に結論を急ぐべきではないというイスラム諸国の猛反対で、結局、在任中の改変は実現できなかったということでした。

中嶋氏の奥様はフランス人で、中嶋氏は日本語がなまるほど英語とフランス語に堪能な国際人でした。私の隣で常にメモを取っていたのも英語でした。偶然にも東京医科大学で知り得たお二人が鬼籍に入られたことは、私にとって過去を知る人が少なくなり寂しい限りです。

(^-^)M・S

.. 2013年02月01日 10:25   No.456010


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