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■--テント日誌
++ K.I (幼稚園生)…1回          

<テント日誌10/21(日)― 経産省前テントひろば407日目>
 |  〜昼と夜、季節の変わり目を実感する秋のテントひろば〜
 └────  (K.I)

10月21日(日)雲ひとつない快晴で座り込みには恵まれた日でした。
 「ハロウィン デモンストレーション in くにたち」他色々イベントがあったせいでしょうか訪れる人は少なかったです。一ヶ月のハンストを終えた福崎さん、お元気にテントで持参の昼食をとり皆と握手してお帰りになりました。
 昼過ぎ、砂川闘争「伊達判決を生かす会」のTさんが久しぶりに元気なお顔を見せて下さり、選挙の話などで盛り上がりました。反原発で集まった多くの人たちが選挙でどう動くかを心配されていました。私自身もいざ選挙になったら誰を選ぶか?どの党を選ぶか悩んでいます。
 通りすがりの子連れの女性たち、時間がないのでと名前も書かず、クッキーを差し入れて下さいました。興味深げに信号待ちをしている人に声をかけて資料を渡すと署名しているのですかと立ち寄ってくれました。
 テント前に警官が現れたのでSさんが何かあるのかと聞きに言ったらデモが通るけどテントには影響ないとのことで一安心!3時過ぎ某党派のデモが通りすぎました。昨日は世界反戦デーだったのですね。それにしても警備の物々しさにちょっとびっくり!
 夕方には和服姿の女性、官邸前には良く来ているけれど、テントには寄る機会がなかったのでと、暫くRさん、Kさんと話してました。デモに行く話をすると他の人に変人扱いをされるとか・・・
 暖かかったせいでしょうか、夕方には蚊の襲来もありましたが平和な一日でした。  (K.I)
.. 2012年10月25日 09:06   No.442001

++ Toku-san (小学校中学年)…19回       
 この日21時頃テントに着くと、テントの外で4名の方が車座になってお話をされていた。テントの中でも当番のFさん、Tさんと、12月に予定されているイベントの打ち合わせのためにテントにいらした方々が楽しそうに会話をされていた。
その後、テントの外では22時近くまで、テントの中では23時過ぎまで会話が続いていたが、様々な立場の人達が忌憚なく意見を交わせるテントの良さを実感した。
 私がテントを手伝うようになった「女たちの座り込み」から丸一年経つが、当初はテントに来てもらうためにテントの良さとして様々な方との「情報交換の場」であると説明していた事を思い出す。テントのスタッフとして、足を運んで下さ
った方への対応がきちんと出来ているか、原点に返ってやり直したい。
 昼は暖かかったが、深夜2時過ぎからは急激に冷え込んできた。4時に不寝番を終え、仮眠の為に横になると、夜のテントは蟋蟀(コオロギ)の鳴き声に包まれていた。今夜は毛布2枚と蟋蟀の声に包まれて寝る事にする。
 「蟋蟀の声に包まれ寝るテント」 

.. 2012年10月25日 09:29   No.442002
++ F (小学校中学年)…19回       
<テント日誌10/22(月)―経産省前テントひろば 408日目>
 |  毎日が気付き、発見、つながりそして行動・情報発信
 |  その輪と和を結ぶ場〜経産省前テントひろば
 └──── ( F記 )

10月22日(月)晴れ
 東電管内の原発全停止から211日目
 そして大飯原発再稼働開始(怒)から112日目

 寒い朝を迎え日増しに冬の足音が感じられます。日比谷公園方向の空には灰青色から薄朱色のグラデーションが綺麗な朝焼けが。夕べは薄い雲が夜空を覆っていましたが、星の煌きが少し見え風の無い穏やかな夜でした。夜の来訪者とはこ
れからの福島への繋がりをどうしていくかの話も熱を帯び、僕が持ち出したギターをいらっしゃったTさんと共に弾きながらさながらミニコンサートの様相を呈し、夜のテントの中は有意義な時間となったのでした。

 また世間では一週間が始まりました。足早に通勤する人たちに今日も一人でギター抱えて歌を唄う。Qさんが大阪に行ってからは泊まり明けの僕の日課です。
 Qさんは今、大阪市役所前の橋下徹監視テントに泊まりこんで抗議行動をされていて、そのテントの数も10張を超えたと聞きます。「大阪に放射能瓦礫を持ち込むな!」と連日多くの仲間と行動を共にしています。僕も行きたい!心からそう思う。おおい運動公園の行動があちらこちらで花咲いている一つの象徴です。
 そこには居たであろう姿が一人ありません。その大飯原発ゲート前行動で不当逮捕された川崎さんの支援の輪も広がっていくことを祈らずにはいられません。

.. 2012年10月25日 10:25   No.442003
++ F (小学校高学年)…20回       
 今日は久しぶりに椎名さんがテントにやってきました。彼女の装いも冬。素敵な臙脂(えんじ)の和服でした。いつものアグレッシブな御姿とは違ったしっとりとした雰囲気がとても御似合いになっていました。一緒に泊まったTさんから原発を巡る現在の状況をレクチャーされ心新たにしていましたが、12月15日に予定されているIAEAの郡山来日への抗議行動をどう集約するかの話題にもなりました。それに向けての取り組みと全国の繋がりとの関係をどう結ぶか一つ宿題をおおせつかりましたが、僕も大阪の闘争に負けずにと気持ちを強くするのでした。
 昼近くになり昼勤当番の皆さんが集まってきて、昼勤の体制についての話し合いが行われていました。少しずつ2回目の冬に対応する準備が始まっています。

 夕方近くなって何人かの人が集まってきました。椎名さんもそのためにやってきたのですが、今日は「第一テント、第二テント交流会 テント史上!」の催し
がありました。そう言えばテントの仲間だけで行う交流会が無かったことに僕自身も驚きましたが、日頃、顔だけは知っている仲でも、御名前となると心もといことに改めての気付かされたのは僕だけではなかったようです。
 交流会は6時から始まり女性たちの心尽くしの御料理などが用意され「お茶け」による乾杯で始まりました。とうとう第二テントだけでは収まらず、第一そして外でもその会話が続いて、大いに盛り上っていました。
 その交流の場を第一テントでは7.5WのLED電球が照らしています。白熱球なら40W以上相当する明るさだそうです。約6分の1ですが太陽光発電の心もとない発電量でも十分に対応できるものです。以前は3〜4千円していたのに今や千円以下で買える値段に。日本の省エネ産業の底力に乾杯と言ったところです。
(買ったLED電球は台湾製でしたが・・・。)

 思えば若かりし頃の二回のオイルショックの時に日本の生産現場に革命をもたらし、その後の日本の技術革新を高めたことを思い出します。福島原発事故がその基点となってエネルギー政策の一層の弾みとなってくれなければ、今その被災で苦しんでいる方々の御苦労が無になるというものです。経済産業省にはそういった点でも圧力を掛けていかなければならないとも思うのです。
 今夏から経産省はそれまでのPPSによる電力供給を東京電力に変えたそうです。その理由はPPSが東電の電力価格より高くなったと経産省の職員から聞きました。東電が値上げをしているのに安いって?PPSの価格決定の絡みはあるものの、法人に対しては大幅な低価格を設定しているからなのではないのか。その電気料金を税金で支払っているから低価格に移行するのは当然としても何か釈然としないものを感じます。

節約すべきはほかにあるだろう!経産省!!!

 因みに第二テントも同様の電球に変えてありますが、以前のもっと暗いLEDのまま宴は行われました。そこはかとない明るさが良いのでは?との女性の意見に従いました。
 外には白と黄色のふたつの雪洞(ぼんぼり)が淡い光を照らしています。これは大体21時頃まで点灯して霞ヶ関の中にあって経産省前テントひろばを帰宅の霞ヶ関官僚・職員にアピールをしています。

.. 2012年10月25日 10:36   No.442004
++ M/O (高校生)…57回       
<テント日誌 10/24(水) −経産前省テントひろば410日目>
 │ 若松監督の通夜と告別式に出掛けた
 │ 超個人的感慨と評論 という日誌
 └────(M/O)

「いつの間に咲いて散ったか彼岸花」。
なんて下手な一句をひねっているうちにぶると寒さを感じてしまう時候になっている。テントも一段と寒くなった。秋の長雨に降り込められての不寝番はもう冬だと思うほどだ。
 泊りだったが,若松孝二監督の通夜があって出掛けた。少し縁もあってその逝去を悼みでかけた。『実録連合赤軍』以来、特にこれはと思う作品を出しこれからの作品の構想も次々と練っていたと伝えられさぞ無念だったのではと思う。過去の作品によって巨匠として遇されている監督や作家ではなく、この歳で大輪の花を咲かせているのは驚きだった。また、若松監督でなければ撮れない映画もあるわけで、本当に惜しい気がする。
 これからの作品として「原発事故」のことが構想されていることも聞いており、秘かに期待していたから残念である。どんな原発の映画を撮るのか想像するだけでわくわくするのに悔しい。

 遺影はほほ笑みを浮かべた如何にも若松監督らしいもので、なかなかいいものだった。これは昨年5月伊豆大島で撮ったものと伝えられる。そう言えば彼は中上健次の『千年の愉楽』を撮っている《来年3月公開予定》。その中上の葬儀では都はるみの『涙の連絡船』がバックの歌だった。中上が好んで歌ったはるみ演歌だが、中上の歌で流れていた。二人とも伊豆大島には縁があったの
か(?)来年公開のこの作品は楽しみである。
 若松監督と近いところで話したのは『実録連合赤軍』の試写会とその後の打ち上げパーティだったように思う。この連合赤軍事件は今年も40周年を迎えたが未だに謎めいたところが残る。事実の経緯は分かってきているが、心的《精神的》領域でのことは謎がある。それは一向に明らかにはならない。その辺のことはその会の席でも述べた。

 親鸞は「殺したくても一人も殺せないのに、殺したくなくても千人でも殺してしまうことがある」と述べている。何故だろうか。殺人は個々の意志的行為に違いないのだが、その個人の意志に機縁が関与しているからだ。この機縁は意志を超えたものと見られるが、人間の行為は意志と結び付いているなら、機縁も意志であり、この機縁は個々の意志に加り、個々に意志を構成している
共同意志(歴史的意志)である。それが個人の意志を左右するのだ。
 それならばこの共同意志はどのように個人にやってきて意志となるのか。あるいは個人はそれをどのように自己の意志にするのか。個人の意志を超えた意志として個人にやってきて個人の意志になるのはどのようにしてか。無意識というような概念は分かりやすいが、それでは明瞭ではない。
 多分、無意識も含めて連合赤軍事件は共同意志が諸個人の意志を支配した。
個人はそれに掴まえられ操られたのであって、事件の中にあった諸個人は意志したというより意志させられたというべきではないのか。

.. 2012年10月28日 09:44   No.442005
++ M/O (高校生)…58回       
 この機縁、あるいは機縁の構造はどのようにして個人の意志になり《個人をつかまえ》、意志させたのか。この構造は事件を振り返る時、反省的に対象的になる時ですら解明しにくいものだ。若松監督の『実録連合赤軍』がそれをどこまで明らかにしているか、それはいろいろと評価の分かれるところだろう。
 だが、彼が連合赤軍の解釈ではなく、事実として描こうとしたのはこの辺がよく分かっていたためである、と思える。これは『キャタピラ』についても言えることだと思う。この機縁の構造が個人の意志に成ることには、個人がつかまえられると語ったことだが、向こうから個人にやってくる、あるいはそれが個人をつかまえることである。
 それならば個人の意志が共同意志になるために、共同意志(つまりは機縁の構造)をつかまえることは可能か。それはどのようにあるのか。歴史の流れをつかむということでもいいがそれはどのように可能か。
 政治的運動は個人の意志の集合という側面から共同意志を形成しようということ確かだ。例えば脱原発という個人の意志を集め、それを共同意志《国民的
意志》にし、それによって脱原発を実現しようとする。この側面は歴史がそこに参与する個人の集合であることで確かなことだ。
 しかし、それは半分の事実であってそれだけでは共同意志の形成にならないのではないか。共同意志には機縁の構造が流れており、それをつかまえなければ個人の意志は共同意志になりえない。このことを私たちは理論的にはともかく。経験的にはわかっている。

 テントひろばや官邸前行動の持続のなかでもこのことは考え考えしていることだ。それは「やってみること」のなかからのみ視えてくるのかということも含めてである。過去の事件だってこの構造はつかまえがたいのに実践的にというか、前に進んでいる場合には共同意志のありかは見えにくい。
 政治的ビジョンや構想は共同意志の媒介物、表現物であるが、それは「言ってみるだけ、立ててみるだけ」ということを免れ得ないのではないか(?)
 また。そこに政治行為における行動の重要性もでてくる。
 通夜からテントに戻り、朝は告別式出掛けまたテントに戻るという一日だった。テントの日誌としてはちょうとそれてしまった。が、こんなことをテントの中で話し込んでもいた。

.. 2012年10月28日 09:51   No.442006


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