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石原莞爾が若かった頃、日露戦争の話を聞く為に乃木将軍の屋敷を訪ねました。その時、石原莞爾は誰の紹介状も持っていかなかった。だが、時間があれば間違いなく会ってくれるという確信が、あったのです。門をくぐり、玄関で案内を乞うと、乃木大将本人が現れて気軽に屋敷に上げてくれました。
その時の石原莞爾のエピソードとして、乃木大将に父親の年齢を尋ねられ思い出せないので咄嗟に「約60歳です」と答えて、叱られたと言います。日露戦争での補給戦について質問すると、乃木将軍は地図を出して丁寧に教えてくれた。「乃木の戦下手」は、陸軍の内部では有名でした。何しろ西南戦争では軍旗を奪われています。
その後の旅順攻略から、失敗ばかり続きましたから。だが、乃木大将は多くの方から崇拝されていました。前線の砲火をくぐった下士官たちが、口汚く幕僚たちの判断ミスをなじる一方で、乃木大将に対しては、尊敬を向けていたのです。しかもその畏敬の念は、軍事的才能によるものではないのは確かでした。
日本の国家が乃木大将を必要としていました。乃木大将の戦のような犠牲ナシに、近代日本が成立し得ないということを、幼年学校時代の石原莞爾は必要である、と理解していました。軍事的才能の欠如によるために、旅順要塞攻略では、無意味に大量の兵士を殺した、と云われているのです。
大事なことは、当時の日本人が乃木大将を許しただけでなく、尊敬して信仰し、このような指揮官が存在してくれたことを慶び、涙を流した、というのです。そして、その涙のために乃木大将は夫婦で殉死せざるをえなかったと思うのです。乃木希典は、長州藩の革命グループの吉田松陰をめぐるサークルに生まれました。
そのために乃木大将が、新政府で重要な役割を果たすことははじめから約束されていたのです。その役割が軍事であったことが必然であったのかも知れません。だが、決して才能に恵まれたとはいえない分野に生涯を捧げる事になった乃木大将は、自らもひたすらに精神的な存在へと育つしかなかったのです。
.. 2026年08月01日 07:10 No.3524001
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