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東京裁判や靖国神社問題の焦点のひとつであるサンフランシスコ講和会議は当時、日本の大新聞のすべては始め全面講和だったのです。全面講和というのは、交戦したすべての国との講和条約で、単独講和というのは米国を中心にした、言いなりになる国々との講和です。当時の新聞社全部が全面講和推進論者だったのです。
昭和24年から25年にかけて、そういう論調が出始め、南原繁という東大総長が米国に遊説に行き、全面講和が正しいという事を米国の有職者に説いて回ります。もちろん日本の学者たちも全面講和論者が圧倒的に多かった。その南原総長を吉田茂は攻撃するのです。
吉田茂は、南原繁を支持する学者たちを、学に曲げて世に阿る「曲学阿世の徒である」と言った。そこで、逆に痛烈な南原支援の側から反撃を受けるわけです。その時に、高田保が全面講和論を声高に訴え、当時の夕刊紙に毎日のように書いていたのです。
しかし、高田保はひどい結核でした。結核は戦後の暫くの間、日本人の死因第1位の病気です。高田保の主治医の宮田重雄(画家としても有名)が、両肺ともぼろぼろで、大喀血を何度も繰り返していたと言います。
だが、吉田茂の単独講和論は「単独講和は次の戦争への道だ。ソビエトや中国や、そうしたものを敵にする恐ろしい方向だ。これは日本の国を売る道である。吉田は売国奴である」と真っ向から罵るのです。
高田保の意見に、マスコミたちが始めはエールを送って応援するのです。そして高田は死ぬ間際まで全面講和を主張し続け、俺を大八車に乗せて数寄屋橋へ連れていってくれ、数寄屋橋の公園で全面講和がいかに真実の行き方であるか、それを死ぬまで訴えたいということを言って、その後で大喀血して死んでしまうのです。
高田保と吉田茂との関係というのは非常に鋭く対立していて、日本の将来を見据えた論争を繰り広げていたのは事実です。そして講和問題は、吉田茂とマッカーサーとの圧力により、昭和25年後半、全面講和は敗退したのです。
その直後、当時を生きた方は新聞記事を見て目を疑ったと言います。それは、朝日、毎日、読売という天下の三大新聞が一面に「我が社は、単独講和を支持します」という社告を打ったのです。社告というのは業務命令の一番強いものです。社告に違反したらクビです。
.. 2026年05月18日 05:22 No.3489001
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