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試論「廃原発事始め」第40回 | 「電源三法」により原発立地県に交付金が下りることに | その交付金の財源は「消費者が支払う電気料金」 └──── 藤岡彰弘(廃原発watchers 能登・富山) 第39回は、3/18【TMM:No5349】に掲載
【2】電気ハ誰ノモノデスカ?―電気に関わる事件史の中に、 廃原発への手がかりを探す 3.Alongside History (「環境権裁判と暗闇の思想」に併行する歴史語り)その3
・1973年のオイルショックをはさんで、巧妙な原発プロパガンダが展開 されていく。 立地現地住民を孤立させる分断策動は、どのように進められていったの かを探る
1972年4月、福井原子力センター「あっとほうむ」が設立認可され ます。 キャッチフレーズは「原子力とエネルギーの学習遊園地」。 広報・研修だけではなく立地地域の文化・福祉施設的な面を持ち、 原発の受け入れ・浸透を図るための「現地対策センター」であり続けて いきます。
この年は、5月に初の「環境白書」が、6月には「日本列島改造論」が 発表されました。 まさに、環境問題に憂慮する声を、開発を煽り立てる動きが押しつぶす ようにして、原発と火力発電の建設が進んでいったのです。
1973年になると、7月に資源エネルギー庁が発足し、いよいよ原発推 進のための国側の体制が整います。 一方では、8月に伊方原発の設置許可取り消し訴訟が提起され、反原発 運動における裁判闘争が始まっていきます。 そして10月にオイルショックが始まるのです。
1974年3月、原電敦賀原発の原子炉建屋内で作業を行った岩佐嘉寿幸 さんが、放射線被曝炎の診断を受けていたことが大きく報道され、国会 でも取り上げられ(翌月提訴)、被曝労働がようやく認識され始めていき ます。
.. 2026年03月24日 05:34 No.3450001
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