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■--日本は軍縮会議から離脱
++ 仲條拓躬 (社長)…1385回          


「7」と「6.975」の違いが許せない日本は、グランドデザインを見失い、国際協調の枠組みから自ら離脱していきます。1930年に開かれたロンドン軍縮会議は、巡洋艦や駆逐艦などの保有量を決める会議でした。

日本が要求したのは、対英米比で「10:7」で、 最終的に「10:6.975」で妥結しました。 限りなく「10:7」に近いです。首相の浜口雄幸が粘ったからです。ところが、天皇陛下が「10:7」と決めたのに、「10:6.975」で妥協したのはけしからんという、 めちゃくちゃな理由で、浜口は殺されてしまいます。

そして1936年、日本は軍縮会議から離脱します。なんと愚かなことでしょう。当時、アメリカのGDPは日本の3倍以上ありました。 つまり、 軍縮会議がなければアメリカは、日本の3倍以上の艦隊をつくれるわけです。

アメリカは大西洋と太平洋に面していますから、艦隊が10あったとして、太平洋側の日本に向けられるのは半分の5です。アメリカの6割の規模の艦隊があれば、日本の方が有利です。それなのに 「6.975 はけしからん」などといって交渉が決裂すれば、アメリカは日本の3倍くらいまでやすやすと艦隊を強化できるわけです。

明治維新のグランドデザインは、阿部正弘が開国に際して示した「開国・富国強兵」です。この3大方針のうちの「開国」、すなわち国際協調を、日本は捨ててしまいました。張作霖を殺害した日本軍は、満洲でさらに柳条湖事件を起こします。

1932年には、清朝最後の皇帝の溥儀を祭り上げ、満洲国の建国を宣言します。これは放っておけないということで、国際連盟がリットン調査団を満洲に派遣します。リットン調査団は報告書を出しましたが、これが大甘でした。

「満洲国の主権は中国にある」といいつつ、「日本の権益も尊重する」というのです。だから「非武装の自治政府をつくることを提案する」と。満洲の主権が中国にあるのは当たり前の話です。では「日本の権益」とは何でしょう。

勝手に軍隊を送り出して中国から奪い取ったものです。こんな大甘な報告書ですから、「はい、わかりました」と認めてしまえばよさそうなものです。こんな幸運を、日本は自ら蹴とばします。満洲国の承認にこだわって1933年、国際連盟から脱退します。
.. 2026年01月20日 15:04   No.3410001

++ 仲條拓躬 (社長)…1386回       
この年にアメリカで大統領に就任したのが、フランクリン・ルーズベルトです。ルーズベルトは、公共事業に投資するニューディール政策を進め、経済を立て直していきます。ドイツでは1932年7月、ナチスが第1党になりました。

翌1933年1月、大統領ヒンデンブルクは、ナチスの党首ヒトラーを首相に指名します。 ヴァイマール共和国の重鎮は、ヒトラーを操れると思っていたのです。なにしろ最初のヒトラー内閣では、閣僚が20数人いるなかで、ナチスからの入閣はわずか3人でした。

同年2月、国会議事堂放火事件が起きます。ヒトラーは、これを「共産党の仕業だ」と喧伝すると、3月には全権委任法を強引に成立させて、独裁体制を築いてしまいます。放火事件にはナチスが深く関与していたといわれます。1934年、ヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼務し、「総統」と呼ばれるようになります。

これを「第3帝国」と呼びます。神聖ローマ帝国、そしてビスマルクがつくったドイツ帝国に続く3番目の帝国という意味です。日本に続いて、ヒトラーのドイツも、ムッソリーニのイタリアも国際連盟を脱退しました。国際協調の時代は終わりを迎えつつあるのです。

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.. 2026年01月20日 15:17   No.3410002
++ 仲條拓躬 (社長)…1389回       
ドイツのヒトラーの動き
1938年3月、ドイツはオーストリアを併合します。ヒトラーは、さらにドイツ人が自治権を要求しているという理由で、チェコスロヴァキアのズデーテン地方を領土として要求します。さらに、「領土要求はこれが最後だ」と弁明しました。

ヒトラーは巧妙に領土を広げてきました。その背後には、第1次世界大戦後のヴェルサイユ体制の原則である「民族自決」がありました。「なぜドイツだけが民族自決を許されないのか」というのが、ヒトラーの建前です。

これを受けて、同年9月、ミュンヘン会談が開かれます。仕切ったのは、大英帝国の首相チェンバレンです。チェンバレンが腰抜けだからヒトラーを助長したともいわれますが、英仏にはもともと、ヴェルサイユ体制でドイツだけに過酷な条件を押し付けた負い目がありました。 だから、ここでドイツに民族自決を認めたら、いよいよイコールの立場になる。

それでドイツの拡大は終わるだろうと思ったのでしょう。実際、ミュンヘン会談の後、ロンドンに戻ったチェンバレンは「フェアな裁定で、ヨーロッパに平和をもたらした」という理由で国民の喝采を浴びています。しかし、ヒトラーはもっと悪質だったのです。

同年11月、「水晶の夜」と名付けられた、ユダヤ人の迫害が始まります。翌年1939年3月、ヒトラーはボヘミアとモラヴィアを保護領としますが、これは民族自決とは関係がありません。いよいよ大英帝国とフランスは「これはまずい」と気づきます。

ヒトラーは1939年5月、ムッソリーニと鋼鉄同盟を結びます。ドイツとイタリアの連帯は強化されました。ヒトラーはさらに8月、独ソ不可侵条約を結びます。日本はあっけにとられます。日本は1936年にドイツと日独防共協定を結び、ソ連を封じ込める約束をしていましたから。

国際連盟を脱退した日本には、ドイツとイタリアくらいしか仲間はいないというのに、仲間の情報すらろくに入ってきません。外交力の低下です。ときの平沼騏一郎内閣は、「欧州の情勢は複雑怪奇なり」という声明を出して、総辞職しました。ヨーロッパの情勢がわからないという理由で総理の座を投げ出したというのですから、びっくりです。

.. 2026年01月22日 10:09   No.3410003
++ 仲條拓躬 (社長)…1390回       
1939年9月、ヒトラーはポーランドに侵攻します。ドイツ軍は再軍備を始めてからわずか4年ですから、十分に準備ができていません。それでもポーランドには勝てました。 英仏もとうとうヒトラーに宣戦布告しました。第2次世界大戦の始まりです。

この時点で、 英仏が総力を挙げていたら、ナチス・ドイツは終わっていたかもしれません。しかし、英仏もまだ本腰が入りません。ポーランド侵攻後、ヒトラーは半年ほどかけて必死に準備をして、1940年5月、フランスを攻めます。

ヒトラーは電撃戦でフランスを押し込み、パリに進軍します。それを見ていたムッソリーニのイタリアが参戦します。イタリアはなかなか賢いところがあって、いつも戦争に入るのは遅くて、出ていくのは早い。リアリズムの国です。

1940年9月、日独伊三国同盟が結ばれました。ヒトラーは、フランスを降伏させました。フランス中部にドイツに協力するヴィシー政権ができます。しかし、大英帝国に攻め入るだけの海軍を、ヒトラーは持っていません。そこで、飛行機を飛ばして、がんがん攻めます。

1940年7月に始まった「バトル・オブ・ブリテン」と呼ばれる空爆です。けれど、爆撃機の航続距離が長くないので、ロンドン上空にいられるのは30分ほどでした。 だから、ロンドンの人たちは頑張り続けることができました。

面白いことに、ドイツ軍の飛行機を迎撃した大英帝国の空軍のパイロットの半分はポーランド人だったそうです。ドイツに攻め入られたポーランドの人々が亡命してきて、仕返しをしたわけです。大英帝国は、使えるものは徹底的につかったのでした。

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.. 2026年01月22日 10:15   No.3410004
++ 仲條拓躬 (社長)…1393回       
5カ国で世界を仕切ろう
アメリカが第2次世界大戦に参戦した時、大統領のフランクリン・ルーズベルトは、大戦終結後の世界の見取り図をつくっていました。その見取り図に従って戦後、国際連合ができて、国際通貨基金(IMF) と国際復興開発銀行 (IBRD) も発足します。

世界大恐慌後のブロック経済で、「金融がおかしくなると怖い」とわかったからです。国際連合には5つの常任理事国があります。アメリカと連合王国、フランス、中国、ソ連です。いわば5人のポリスで、この5カ国で世界を仕切ろうと考えたわけです。

連合王国を率いるのはチャーチル、フランスはド・ゴール、中国は蒋介石で、ソ連はスターリンでした。連合王国とは、かつての大英帝国です。第2次世界大戦で大英帝国は植民地の多くを失ったので、連合王国と呼びます。

ところが、ルーズベルトの死後、5人のポリスのうちの2人、アメリカとソ連の関係が悪くなっていきます。自由主義・資本主義を掲げるアメリカと、共産主義・社会主義のソ連の対立です。1946年3月、チャーチルが「鉄のカーテン」演説をします。

ソ連から鉄のカーテンを下ろされてしまった以上は、こちらも反共連合が必要だという訴えです。東ヨーロッパ(東欧)と西ヨーロッパ (西欧)の分断が進み、冷戦が始まります。1946年、中国では、蒋介石の国民党政府と毛沢東の共産党がまた喧嘩を始めました。

国共内戦です。普通に考えれば、国民党政府が勝つはずでした。国民党政府は国土の3/4を押さえていましたし、アメリカの支援で武器弾薬も豊富でした。しかし、この頃の共産党は大変しっかりしていて、毛沢東が「三大紀律八項注意」というルールを軍に守らせていました。 例えば、「お百姓さんからは何一つ奪ってはいけない」といったルールです。

一方、蒋介石の国民党は戦争のためといって村から物資を勝手に持ち出します。ですから共産党の方が支持されて、蒋介石を台湾に追い払ってしまいました。5人のポリスのうち、早くも1人が脱落して、アメリカは目算が狂いました。

.. 2026年01月24日 09:30   No.3410005
++ 仲條拓躬 (社長)…1394回       
アメリカは1947年にマーシャル・プラン(欧州復興計画) を発表します。アメリカがお金を出すから、みんなでヨーロッパを再建しようという計画です。アメリカのいう「みんな」には、ソ連や東欧も含まれていたのですが、「アメリカからお金をもらうなら、アメリカのいいなりだろ」といぶかるソ連、東欧は、初めから不参加でした。

ドイツは敗戦後、連合国4カ国に分割占領されていました。ソ連、アメリカ、連合王国、フランスの4カ国です。ドイツの東側はソ連の占領地域でしたが、そのなかで首都ベルリンは特別扱いで、4カ国の分割占領でした。

マーシャル・プランを実行するため、アメリカは西側3カ国(米英仏) が占領するトライゾーンを統合しようとします。すると、これに反発したスターリンが1948年6月、ベルリン封鎖に出ます。トライゾーンとベルリンを繋ぐ道路と鉄道を封鎖してしまったのです。

西ベルリンの食料などはトライゾーンから運ばれていたので、こうすれば西ベルリンは干上がるだろうと考えたわけです。アメリカは飛行機をがんがん飛ばして対抗しました。ベルリン空輸です。陸路がだめでも空路があるというわけです。1年ほどでスターリンはあきらめ、封鎖を解いたのでした。

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.. 2026年01月24日 09:41   No.3410006
++ 仲條拓躬 (社長)…1396回       
サンフランシスコ講和会議の内情
1951年、サンフランシスコ講和会議で、日本は連合諸国と平和条約を結びました。これで日本は、連合国の占領下から解放されて主権を回復し、独立します。さらに平和条約を結ぶのと同時に、日米安全保障条約を結びました。

日本は、このとき吉田茂がいたことで明治維新のとき、阿部正弘が描いたグランドデザインは、「開国富国強兵」の3本柱でした。吉田茂は平和条約を結ぶにあたって、この3枚のカードを机の上に置いて考えたのだと思います。

そして、「開国」と「富国」に力を入れることにしたのでしょう。そして「強兵」は日米安保条約で代替しようと考えたのだと思います。サンフランシスコ講和会議で結ばれた平和条約には、日本全権団のメンバー全員がサインしていますが、日米安保条約にサインしたのは吉田茂1人です。いわば、吉田茂1人で安保条約発効させている格好です。

これで日本はアメリカの犬となってしまいます。これにはいろいろな見方があるでしょう。吉田茂がワンマンだからという見方もあれば、1人で責任を負う覚悟だったからという見方もあります。おそらく両方だったのだと思いますが、後者の意味合いが強かったのではないでしょうか。

サンフランシスコ講和会議では、ソ連や中国など東側諸国とは平和条約を締結できませんでした。当時の日本では、西側諸国とだけ講和するのではなく、すべての交戦国と全面講和すべきだという主張も強く、国論は二分されていました。

けれど、吉田茂は「すべての国と講和しようとしたら時間がかかりすぎる。早く独立するのが日本のためだ」と判断したのだと思います。サンフランシスコ講和会議の後、台湾やインドなどとも個別に講和していきます。

日本がソ連と講和するのは1956年、日ソ共同宣言を発表したときです。これで日本もようやく国連に加盟します。拒否権を持つ5大国すべてが認めてくれなくては、国連には加盟できません。この宣言には、北方領土については「平和条約締結後に歯舞諸島と色丹島を引き渡す」と明記されていました。

.. 2026年01月26日 05:53   No.3410007
++ 仲條拓躬 (社長)…1397回       
1952年、アメリカは水爆実験をして、もう一度ソ連を引き離そうとします。でもソ連も翌年に水爆の保有を宣言します。原爆のときは、米ソに4年ぐらいのタイムラグがありましたが、水爆では1年です。果たして原爆や水爆を保有する国も増えてしまい地球はどうなってしまうのであろうか。

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.. 2026年01月26日 05:59   No.3410008
++ 藤岡彰弘 (高校生)…68回       
試論「廃原発事始め」第30回
 | 「原子力の平和利用」は一気に「ムラ」どころか
 | 「翼賛体制」へと進んでいく
 | 1954年3月2日、国会に2億3500万円の原子炉製造の調査費提出
 └──── 藤岡彰弘(廃原発watchers 能登・富山)

【2】電気ハ誰ノモノデスカ?―電気に関わる事件史の中に、
   廃原発への手がかりを探す
   Alongside History(「電源防衛戦」に併行する歴史語り)その5
  「原子力の平和利用」の道は、冷戦による不安と、科学技術立国への
  野望と、再び軍事大国を目指す欲望とで敷き詰められていた。
  その道の始まりをたどる。

・「原子力の平和利用」は、一気に「ムラ」どころか
 「翼賛体制」へと進んでいった

◎ 1953年12月8日の米アイゼンハワー大統領の「アトムズ フォア
ピース」演説は、原子力の商業利用開発競争開始の号砲となりました。
 ソ連はすでに東欧諸国だけでなく、東アジアにも「核の平和利用」への
囲い込み工作を始めており、号砲はアメリカ国内とヨーロッパ各国、そし
て日本での巻き返しを呼び掛けるものでした。
 日本の学術会議の中からも、一定の歯止めをかけることで、原子力研究
を自由に進めるべきだという意見が次第に台頭していました。
 しかし、まさにその歯止めの内容が問題なのでした。

 ここからは先に挙げた著作に加え、東京堂出版『核の世紀 日本原子力
開発史』(2016年刊)の中から、住友陽文さんの「原子力開発と55年体
制」という文章を参照して、「翼賛体制」がどのように形成されたのかを
探っていきたいと思います。
 言うまでもなく文責はすべて私、藤岡にあります。

.. 2026年01月29日 05:51   No.3410009
++ 藤岡彰弘 (高校生)…69回       
◎ 1954年3月2日、中曽根康弘氏らが、学術会議からの答申を待た
ず、国会に2億3千5百万円の原子炉製造の調査費を盛り込んだ予算案を
提出します。
学術会議側は、事前に通知がなかったことに反発し、予算を原子核研究
所へ転用するよう求めます。
ところがその前日に、南太平洋ビキニ環礁沖での、アメリカの水爆実験
によって、第5福竜丸他多くのマグロ漁船乗組員(後に992艘1万人以上
が被曝していた事実が判明)への被曝事件が発生していたのです。
 この問題に世論は沸騰。各地で、原子力兵器の禁止と原子力の平和利用
を訴える決議が出され、署名運動が盛り上がっていきます。
 国会でも、4月5日、原子力の国際管理並びに原子力兵器禁止に関する
決議が採択されました。

◎ そんな中で、4月22日、学術会議としての原子力三原則=「公開」、
「自主」、「民主」の声明(山崎正勝さん著の『日本の核開発1939〜
1955』に全文が掲載されています)が提起されます。
 これまでの論議を凝縮したものと言えると思いますが、肝心の軍事利用
されないための保障をどうするのかは棚上げし、今後の政治動向を見極め
ていくというあいまいなものとなってしまいました。

 あくまで想像にすぎませんが、その頃の議論に倦んでしまった科学者た
ちの心を占めていたのは、今原子力の研究を始めなければ諸外国に後れを
取ってしまうという焦りと、その一方、希望の言葉として語られだした
「科学技術立国日本」を、自分こそが担うのだ、担えるはずなのだという
強い思いだったのではないでしょうか。
 そして世界はどんどん動いていきます。
 7月1日、ソ連は世界初の商業用原発、オブニンスク原発の稼働を開始
します。
 ソ連に追い抜かれたアメリカは、日本への「攻勢」を一気に強めて
きます。                    <31回に続きます>

.. 2026年01月29日 05:57   No.3410010


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