返信


■--試論「廃原発事始め」第22回
++ 藤岡彰弘 (高校生)…52回          

試論「廃原発事始め」第22回
 | 会津地域は東京の電力の源、
 | そこをめぐって繰り広げられた「電源防衛戦」[その1]
 └──── 藤岡彰弘(廃原発watchers 能登・富山)

【2】電気ハ誰ノモノデスカ? … 電気に関わる事件史の中に、廃原発
への手がかりを探す
 ロ.「電源防衛戦」(1950年 日本国福島県)<事件の概要 その1>
   会津地域は東京の電力の源、
そこをめぐって繰り広げられた「電源防衛戦」
  その一連の新聞報道の狙いは何だったのか?を読み直す

・電産(日本電気産業労働組合)猪苗代分会に関するデマと「怪事件」

 敗戦から5年、占領軍統治が終わろうとする頃、日本経済は朝鮮戦争勃
発に伴う特需による好況で沸き立っていました。
 そのための電力需要を賄っていたのは、各地の水力発電所、中でも、会
津地域の猪苗代水系は、首都圏の需要のほとんどを担う重要な位置を占め
ていました。
 当時は、国策会社、日本発送電株式会社(日発)一社が列島全部の電気
を取り仕切っており、その組合である電産は、組合員数14万人の大組合
でした。

 「電源防衛戦」とは、当時の日本共産党と関係の深かった電産猪苗代分
会と、「電源防衛隊」を名乗る右翼勢力との、猪苗代水系の発電所や変電
所とその周辺を舞台にした、攻防戦のことです。
 そしてこの「電源防衛隊」は、政府、日発のみならず、警察や報道機
関、反対派労組とも通じ合っていました。
 「何を大げさな」と思われるかもしれませんが、まず、1950年当時の
新聞の見出しを見てください。

 8月7日 電源を握る赤い手(読売)
   11日 極左追出し、発電所を守れ(東京)
   14日 断じて電源を守れ、電源防衛大会(日経・東京・毎日)
   17日 緊迫度増す猪苗代、現場ゲリラ戦続発(東京)

 これでは、もはや非常事態も同様ですが、当時の関係者からの聞きとり
によれば、「電源防衛大会」開催の記事以外は、大半が具体性を欠く、デ
マとしかいいようのないものだったことが明らかになっています。
 なぜ、こんな記事を出せたのでしょうか?
 それは、この後、8月26日に起きた電産へのレッド・パージによって、
共産党員やその同調者とされた2137人もの労働者が、職場から追放され
たことでわかります。
 
.. 2025年12月25日 05:20   No.3396001

++ 藤岡彰弘 (高校生)…53回       
 レッド・パージを正当化するためのキャンペーン記事だったのです。

 一連の記事が出る前には、いくつもの「怪事件」が猪苗代地域で続発し
ていたといいます。
 開閉所のスイッチボックスが壊されていたり、発電所の取水口のエア蓋
に異常が見られたり、発電機が原因不明の油漏れで故障していたというの
です。
 誰の仕業かはわかりませんが、これらの「怪事件」が一連の報道と結び
つき、あたかも共産党がらみの陰謀が進行しているような演出がなされた
のです。

 これほどまでして共産党と電産とを弾圧したのは、アメリカ本国での「
赤狩り」を手本に、GHQが日本政府に実行を迫ったものと理解されてい
ますが、それだけが理由だったとは思えません。
 田中聡さんの著書『電源防衛戦争 電力をめぐる戦後史』(2019年亜紀
書房刊)を参照して、この続きを書いていきたいと思います。
(第23回に続く)

.. 2025年12月25日 05:26   No.3396002
++ 藤岡彰弘 (高校生)…54回       
試論「廃原発事始め」第23回
 | 「輝ける電産」!「大衆のための電力」、
 | 「電気事業の社会化」を掲げた電産
 | 「電源防衛戦」[その2]
 └──── 藤岡彰弘(廃原発watchers 能登・富山)

【2】電気ハ誰ノモノデスカ?…電気に関わる事件史の中に、
   廃原発への手がかりを探す
 ロ.「電源防衛戦」(1950年 日本国福島県)<事件の概要 その2>

「輝ける電産」!それは、GHQにとって、日本の国家権力と総資本に
とって、決して看過できない、ゆゆしき事態を引き起こしかねない存在
だった。

・「大衆のための電力」、「電気事業の社会化」を
 掲げた電産(日本電気産業労働組合)

 今回からは、田中聡さんの『電源防衛戦』に加え、河西宏祐さんの
『聞書き 電産の群像』(平原社)と山岡淳一郎さんの『日本電力戦争』
(草思社)も参照して書いていきます。

◎ 1945年秋以降、急速に労働組合へと結集し始めた日本の労働者たち
は、深刻さの度合いを増す食糧不足や、政府・GHQからの労働組合への
厳しい弾圧によって、苦境に立たされ続けていました。
 そんな中で、電産協(1947年5月に電産に改称)は、1946年10月、各
発電所、変電所における「停電ストライキ」を武器に、政府・GHQの圧
力をはねのけ、「電産型賃金」体系に基づく大幅賃上げを獲得し、労働運
動全体に大きな勝利をもたらしました。
 「電産10月闘争」と呼ばれるものです。
 組合が獲得したのは、「生活保証給」のほか、男女同一賃金、退職金制
度、8時間労働、時間外手当や、年に20日の有給休暇等、当時としては
まさに画期的な内容でした。
 その成果は、他の労働運動闘争を大きく励まし、以後の闘争で勝ち
取った成果は、労働者全体に及んでいきました。まさに「輝ける電産」
でした。

.. 2025年12月26日 06:16   No.3396003
++ 藤岡彰弘 (高校生)…55回       
◎ そしてこの時、同時に電産協が掲げたのが「電気事業社会化構想」
だったのです。
 構想は、「電気産業労働者の社会的使命は、低廉、良質、豊富な電力を
大衆に供給することにあり、そのためにすすんで『全国一社体制』をつく
り、さらに『電気事業社会化法』を制定することによって、消費者代表、
労働組合、経営者の三者による『電気事業監督委員会』による経営体制を
築き、電気事業を運営していく」という壮大なものでした。
 いわば「電気ハ国家ノモノダ」という「御上の論理」に公然と逆らい、
「電気ハ大衆ノモノダ」と叛旗を掲げたのです。
 その結果起きたのが、「電源防衛戦」だったのだと思います。それにし
ても、電産協が行った「停電スト」とはどんなものだったのでしょうか?

◎ 電産協がとったのは、最初は家庭への送電を、区域ごとに5分間止め
ていく「5分間停電スト」という戦術でした。
 事前に警察にその実施を告げ、「もし、我々を検挙したら電力は
止まったままで回復しないし、電力設備はどうなるかわからないぞ」と強
硬な態度をくずしませんでした。
 結局、警察は一度も介入できませんでしたが、GHQは闘争委員会の三
役を呼び出し、停電させてはならない箇所を指示したといいます。
 それでも、ストライキならいいといったのはGHQではないかと、
突っぱねたのです。
 さらに電産協は、要求を貫徹するために、主な工場への送電を3時間半
停める「停電スト」を貫き通しました。
 それでも交渉が進まずにいると、正午から5時間に及ぶ大停電の実施を
宣言します。
 たまらず会社側が折れ、ついに電産協の要求がすべて通されたの
でした。                     (第24回に続く)

.. 2025年12月26日 06:22   No.3396004


▼返信フォームです▼
Name
Email
ホームページ    
メッセージ
( タグの使用不可 )
Forecolor
アイコン   ICON list   Password 修正・削除に使用