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1927年10月19日、久原房之助は田中首相から「帝国政府特派海外経済調査委員」に任命されました。任命の名目はソ連とドイツ両国の経済状況の視察です。1925年1月に、日ソ基本条約に調印してソ連と国交を開いた日本政府は、ソ連との間で通商条約、漁業条約の締結を望んでいました。
また第一次世界大戦で敗れたドイツの復興についても関心を持っていました。日英同盟が廃棄されたので、国際的地位の強化のためにも日ソ、日独の新たな関係を築きたいとの外務当局の欲求もあったのです。
この両国の視察は久原房之助の望むところであったが、久原房之助には別に抱いていた構想をソ連のスターリン書記長にぶつけてその反応を確かめてみたい、との下心があったのです。久原一行は1927年10月22日、東京駅を出発して朝鮮、満州、シベリア経由で11月7日、モスクワに着いた。
当時のモスクワは革命十周年記念祭で賑わっていたが、共産党内部では権力闘争が進行していたので、スターリンとの会談が出来る状態ではなかったのだが、スターリン書記長との会談は実現しました。
協力してくれたのはミコヤン貿易人民委員(戦後、第一副首相)です。ミコヤンは第一次世界大戦中に久原房之助が大量の銅をロシアに輸出したことから、久原房之助の名前を知っていました。久原房之助とスターリンの会談は4時間半に及んだ。
当時の駐ソ大使田中都吉さえ、赴任してから3年も経つのにスターリンに会ったことがなかったと言うのだから、異例のことでしょう。久原房之助の構想というのは三国緩衝地帯設置案です。
1.ソ連からバイカル湖以東のシベリアを、中国から満州を、日本から朝鮮をそれぞれ拠出して非武装自治区とし、日中ソ三国の緩衝地帯とする。
2.日中ソ三国の代表が「委員会」を組織し、この自治区を監視する。
3.自治区は列国に対し機会均等、門戸開放の立場におく。 この会談は久原房之助の要望で通訳以外は誰もいれないような会談だったから、議事録はありませんが、久原房之助の後日談によればスターリンは賛意を表し、会談は和気あいあいだったと言います。
久原房之助は北京に立ち寄り、当時北洋に軍閥が大元帥として迎えていた張作霖に会い、この構想を持ちかけているが、駐華公使だった芳沢鎌吉によれば、張作霖は共産党嫌いで、全く関心を示さなかったという(芳沢『外交60年』)
.. 2025年12月06日 09:20 No.3384001
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