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ニ・ニ六事件で陸軍の内容は一変しました。荒木、真崎、小畑敏四郎らの皇道派は追放され、陸軍は杉山元、海津美治郎、東條英機など、統制派の牛耳るところとなり、事件後の広田内閣で軍部大臣現役制を復活させてしまいました。以後、陸軍に歯止めが効かずかに、日中戦争から大東亜戦争へと破局への道を進むことになるのです。
このクーデタは重臣を含む政治家に深い恐怖心を植え付け、軍部にたてつく意欲を喪失させました。この恐怖心は天皇にまで及んでいるのです。『昭和天皇独白録』では天皇はこう語っています。
「私が若し(大東亜戦争の)開戦の決定に対して『べトー』(拒否権の発動)したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲のものは殺され、私の生命も保証できない、・・・今次の戦争に数倍する悲惨劇が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う」
ニ・ニ六事件の影響はまことに深刻でした。この事件での政友会総裁久原房之助と陰のイデオローグだと言われている北一輝とも関係がありました。北一輝は1919年に『国家改造案原理大綱』(『日本改造法案大綱』として出版)を著し国家社会主義に基く日本改造を主張し、これがニ・ニ六事件をひき起こした青年将校らに聖典として信奉されました。
簡単に言えば、三年間憲法を停止して戒厳令下に革命政府を樹立して、一家の所有財産の限度額を百万円、私有地の限度時価は十万円、私企業の資本限度は一千万円とし、この限度を越えるものはすべて国家に集中し、限度を越える生産業はすべて国家の統一経営とする、というものです。
久原房之助は三土忠造の紹介で北一輝と知り合い、1931年から1932年にかけて盆暮れに二千円渡しています。事件前年には、北一輝の要求で五百円渡しました。これらは情報提供の見返りの意味もあったのでしょうが、右翼のテロから身を守る算段でもあったのです。
三井物産は昭和初年のドル買問題で右翼に脅かされて北一輝に毎年半期ごとに一万円渡しており、標的にされていた池田成彬も時々北一輝と会って五千円から三万円渡しています。総帥の団琢磨(三井合名理事長)を右翼・血盟団に暗殺された三井の自衛策なのです。
.. 2025年08月10日 09:06 No.3302001
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