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綏遠事変は関東軍が本格的に関与したと言うよりは、田中隆吉の個人的な謀略であったといえますが、植田鎌吉関東軍司令官、板垣征四郎参謀長、武藤章参謀第二課長ら首脳部の了解のもとに行われていたのです。とくに武藤章は田中隆吉を支援していました。
武藤、田中は満州事変における石原莞爾の真似事をしたかったのです。その石原莞爾が当時参謀本部戦争指導課長として事変中の11月20日現地に飛来し、止め男の役を果たそうとして、武藤章に「石原さん、我々はあなたが満州でやられた事をしているのに過ぎませんよ」と皮肉られ、返す言葉がなかったというエピソードはよく知られていることです。
この時の石原莞爾の立場と真理は違っていました。石原莞爾が満州事変を画策し、中央の統制を無視して兵を動かしたことは事実です。石原莞爾自身内心では兵を動かした後ろめたさを感じていたかも知れません。
従って武藤章の一言は石原莞爾の胸に突き刺さったことでしょう。もし武藤章が満州合衆国は恒久平和の礎になるということを理解してくれるような器の人間ならば石原莞爾も指導力のある軍人として、いささかもたじろぐことなく、ただちに武藤を一喝して、満州事変時と現在の情勢の違いを説明したことでしょう。
今回の計画の不可なることを堂々と説得することは可能であったはずです。しかし、武藤章には理解出来なかったのです。参謀本部の有力スタッフとして石原莞爾は当時の日中の問題が交渉の立場にあったのだから、職権上も徹底的に武藤章を制止すべきであったかもしれません。
ついでにいえば、武藤章は翌年3月の異動で参謀本部に帰り、同日付で作戦部長となった石原莞爾のもとで作戦課長のポストにつくのですが、なぜ石原莞爾はこの人事を拒否しなかったのか。武藤章が有能という評価はあったにしても、自己の統制に服さなかった実績のあるものをなぜ唯々諾々と受け入れたのであろうか。
石原莞爾が武藤章を呼んだのだとすれば何を。石原莞爾のような天才肌の人は人事には無関心で人事に無頓着であったのかもしれません。それにやがて日本を奈落の道へと導くことになるのです。
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.. 2025年05月23日 07:11 No.3257001
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