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1937年9月、陸軍参謀作戦部長を免ぜられた石原莞爾は、関東軍参謀副長に転補されました。満州建国の立役者として一躍英雄的存在に祭り上げられ、凱旋将軍のごとく引き上げてからほぼ5年ぶりの関東軍勤務でした。
しかし、満州国の将来に大いなる希望を抱き意気揚々と帰還したときと異なり、石原莞爾の胸底では断固反対していた日中戦争に突入した日本が「今に大きな失敗を仕出かして中国から、台湾から、朝鮮から、世界中から日本人が狭い国土に引揚げなければならないような運命」に陥るのではないかとの想いが重く淀んでいたのです。
そして、事態の種を捲いたのが満州建国をリードした石原莞爾ら関東軍参謀たちであったことを石原莞爾は、痛切に思い知らされていたのです。本来、「兵隊を進退するもの死刑に処す」という陸軍刑法を厳格に適用すれば、満州事変をひき起こした本庄繁司令官以下関東軍参謀たちは軍法会議で査問を受けるべきだったかもしれません。
だが、本庄は大将に進級、男爵を授けられたうえ侍従武官長の重職につき、石原莞爾らに対しても進級叙勲の論功行賞がなされたため、規律や命令系統を無視しても結果さえ良ければ恩賞にあずかれるという風潮が軍部幕僚の間に蔓延していくこととなったのです。
そして、出先軍人たちの功名心は内蒙工作や華北への政治的・軍事的進出へと駆り立てられ、ついに1937年7月7日、盧溝橋事件の勃発となって現れたのです。石原莞爾は不拡大方針を採ったが、武藤章、田中新一らの拡大派を制御すねことができず、逆に石原莞爾追い出しの策動によって関東軍へ転出するに至ったのです。
自らが思い描き、成長を夢見た五族協和の満州国とはおよそかけ離れた満州国の姿でした。日中戦争拡大を阻止しようとして参謀本部を追われ、王道楽土としての満州国の現実に裏切られた思いの石原莞爾は、激越な口調で関東軍と日系官吏が統治する満州国への批判を繰り広げていくのです。
植田謙吉関東軍司令官に対して日系官吏の減棒や人員整理を要求し、協和会中央本部長橋本虎之助中将を猫之助と呼んで公衆の面前で罵倒します。東条英機関東軍参謀長を上等兵とこきおろすとともに、内面指導権を掌握する関東軍第四課長片倉衷を皇帝凌ぐ満州国の王様と皮肉ります。
.. 2025年05月01日 08:39 No.3239001
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