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満州国建国の理念を集中的に示した文書としては、「満州国建国宣言」「執政宣言」「建国に関する対外通告」の3つが挙げられます。これらの文書は全体を通して、第一に、なぜ満州国が建設されなければならないか、という建国の必要性をまず東北軍閥と国民政府に対する非難として並べ挙げています。
第二に、それに対抗して満州国が建設される正当性を建国理念として提示し、そのうえで、第三に、そうして建国された満州国が国際的にいかなる地位を持ちうるかを宣言するという構成を持っていると読むことが出来るでしょう。
具体的には、まず辛亥革命以後20年にわたって東北三千万民衆が苦しみを味わってきた元凶として軍閥の悪政が指弾されます。兵乱を好み、遊興にふけって人々の生活の安定など与えず、民を奴隷のように扱い統治しています。
そこでは紙幣は乱れ、産業は廃れ、道徳は地を落ちてしまい、盗匪は横行して至るところで強奪や殺人が行なわれ、道には餓死者があふれていたのです。また対外的にも排外を事として信用を失っていました。
この残暴無法の軍閥が支配している限り、満蒙三千万の民衆はただ座して死を待つのみであり、どうしてこの窮状から抜け出すかだけを、願って生きていたのです。しかし、時は来ました。
いまや何の幸ぞ、手を隣師(日本軍)に借りてここに醜類(人非人たち)を駆り、積年軍閥盤踞し、秕政萃聚せる地(永年にわたって軍閥がいすわり、悪政の極みを尽くした土地)を挙げ一旦にしてこれを廓清す。これ、天、我が満蒙三千万の民に蘇息(息をふき返す)の良機をあたえしなり。
(「建国宣言」)要するに見るに見かねた日本軍の仗義扶助によって軍閥つまり張学良政権を追い払ったことにより、ようやく夢に見た安居楽業の大地で生きていく望みが出てきた、これこそ天が与えた絶好の機会である、というのです。
和田清教授の『東亜史研究』の序文には、「満州は、もともと極東の地であるから、世界の田舎であったといえる。歴代の中国王朝からすれば、そこは化外の地であり、清朝の中国征服後にも、満州はその発祥の地であったという関係から、発跡の秘事を暴かれることを恐れ、その研究を弾圧した。だから、満州史は従来、もっとも閑却され、日本学者のひとり舞台となった」と書かれています
.. 2025年02月23日 08:15 No.3199001
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