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アメリカ側から日本への最後通牒、「ハル・ノート」が野村吉三郎駐米大使に提示されるのは、1941年11月26日の事です。須藤眞志「ハル・ノートを書いた男」(文春新書)によれば、この文面にある「チャイナ」という語の、従来の解釈には問題があるというのです。アメリカはチャイナに満州を含んでいなかったというのです。
日本側が見落とした重大な岐路があった可能性があります。もし満州国をアメリカが容認したら、日本はハル・ノートを呑めたかもしれません。そうであれば石原莞爾が今は絶対にやってはいけないという日米戦争は回避できたと思うのです。
「チャイナ」がどこまでを意味するのか、日本は照会しようともしなかった。ハル・ノートが来ただけで、頭に血が昇ってしまい精神状態が既に冷静ではいられなかった。それまでの経過を無視した強圧的な要求だったから無理もありませんが。
たとえ、チャイナに満州が含まれないとしても、三国同盟を反故にするとか、シナ・仏印からの全面撤退なども盛り込まれていますから、その場合でも、ハル・ノートを受諾できたとは考えにくいかもしれません。国内がもたないことははっきりしています。
一大クーデターが起こる可能性が高まったでしょう。これこそ開戦を促し続けた国民の最大の要因でしょう。また、アメリカの情報網は、日本政府の最高レベルにも浸透していましたから、開戦の時期としては最も挑発しやすいという事が、わかっていたと思います。
むしろハル・ノートに行くまで、アメリカの方がよく我慢していたという意見もあるのです。戦争準備でアメリカが時を稼ごうとしてたけだという見方もありますが(笑)ifがあるとすれば、ハル・ノートは呑めばよかったのです。呑んで実行はしない、という考え方です。それは中国外交のやり方と同じです。
だが、昭和天皇が一番嫌いだったのはそういう二枚舌外交でした。しかし、ハル・ノートは放ったらかしにしておくという手もあったのです。研究中と称していれば、何ヶ月かは向こうも回答を催促してこないでしょう。その間に戦争準備をどんどん進めるだけです。
アメリカは、いずれ大西洋でドイツと戦うことになっていたから米独戦が始まれば、大国でフリーハンドを持っているのは日本だけになりますので、じっくり考えて、いちばん有利な手を打てばよかったのです。
.. 2025年02月18日 08:29 No.3196001
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