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■--無条件降伏の日?
++ 伝六 (大学院生)…126回          

ポツダム宣言はポツダムで発したからつけた名だが、正式名称かどうかしらないが、英語文献では「Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender july 26 1945」「1945年7月26日の日本の降伏の条件をあきらかにした宣言」がまたの名である。米英の考えた無条件降伏というのは、アメリカの文書でみると、無条件降伏によって、アメリカは日本国家を解体する権利を得るとした。ポツダム宣言はそのような無条件降伏方式をあらためて、降伏の条件をまえもって示したものである。その条件の一つが軍隊の無条件降伏である。ポツダム宣言受諾の後、日本政府に人物なく、アメリカ政府が日本軍が降伏すればこっちのものだといわんばかりに、日本国家の降伏という形できたのをあらためさせることができなかった。結局、降伏文書の調印では、天皇と政府と大本営が、降伏したかのような文書にサインした。これが1945年9月2日である。
.. 2011年09月02日 10:18   No.319001

++ 伝 (大学院生)…124回       
ポツダム宣言を日本が受諾する前には、連合軍は日本国民にむかって、直接宣言するつもりであったらしい。「日本の人民へ」という文書案の中に次のように書いてある。「・・・これらの状況にあっては、戦勝国は日本に関して適当と認める処置ー日本の独立国家としての存在を終わらせることを含むーをする法的権利と力とを両方もっているのであるけれども、日本の人民が奴隷化されることまたは国家(a mation)として破壊されることは戦勝国の意図するところではない。・・・」
戦争に徹底的に勝ったら、相手の国を終わらせる法的権利をもつというのは、ずいぶんと野蛮な考えで、西洋文明は根底において野蛮というほかはない。文明的というのは表面である。

.. 2011年09月03日 11:05   No.319002
++ タク (社長)…347回       
日本はいまなお占領されています。
無条件降伏をした国だからです。
占領軍の命令や指示は、日本国すべての法律、国会の上にある絶対的なものです。

当たり前のことなのですが、我々はこの事実を忘れているのではないでしょうか。
占領政策の巧みさ、日本人のあきらめ、どうにでもなれ、自分さえよければ、戦時中の抑圧に対する反作用、さまざまの理由があると思います。
敗戦直後から、「負けてよかった」という声も聞かれたが、こういう心理状態の上に、巧妙な政治劇が行なわれてきたのでしょう。

吉田茂首相はサンフランシスコで、周知のとおり講和条約と安全保障条約に調印しました。
それは重光外相が、ミズリー号上で降伏文書に調印したその延長であり、敗戦の最終判決書への無条件降伏だったのです。非常に美しい言葉によって飾られた完敗に違いなかったと私は思っています。

.. 2011年09月05日 09:18   No.319003
++ タク (社長)…348回       
ポツダム宣言そのものは、無条件降伏とはかけ離れた非常に緩い要求です。
これは本土決戦への恐れがあったからです。
本土決戦になったら、アメリカも相当の犠牲者を覚悟しなければならない。
ところが原爆の完成でアメリカの態度は一変します。
原爆実験の成功以後、ポツダム宣言をより厳しいラインにもってゆこうという傾向が強まるのです。
8月11日の「バーンズ回答」はその例です。
だから、原爆はアメリカ側の占領政策での立場をつり上げるのに非常に有効だったわけです。

天皇と木戸幸一から戦争の収束という使命を課せられ、昭和20年の4月に、鈴木貫太郎が首相の座に就きます。
彼も和平に向けていろいろな努力をしますが、結局は原爆が終戦の決め手となりました。
原爆と最後の最後まで和平をお願いしていたソ連が攻めて来てダブル・ショックです。だが実際は、講和に向けて日本が動き出していることは、アメリカ側は知っていました。
電報を傍受していますから、むしろ、降伏される前に焦って原爆を使ったのが事実でしょう。

.. 2011年09月05日 09:32   No.319004
++ 六 (大学院生)…121回       
ポツダム宣言を受諾して降伏することは、国際法的には、日本国政府が無条件降伏することではなかった。しかし現実においては無条件降伏をしたようなものだ。ここにおける無条件降伏の意味は日本国政府は連合国の命令することは是非を問わず忠実に実行するという約束をすることである。9月2日に日本側全権がサインした降伏文書には、それらしきことが書いてある。これは日本側の申し出を連合国が受諾するという形式をとっているが、アメリカの作文であり、それを日本におしつけたものである。真面目に考えたら、気が狂いそうな内容であるというか、耐えられない内容である。日本側が強硬に主張しなかった結果であるが、連合国というのは、道義的にだらしないものだということがよくわかる。これに一言も言えなかった日本もだらしないが、連合国との交渉には有能であるというだけではだめで、むしろ有能であることは無用で命を失っても主張するという気魄がなければだめであった。そういう人物は常にはいない。終戦?の無念な一幕である。
.. 2011年09月08日 18:06   No.319005
++ タク (社長)…351回       
ドイツは無条件降伏して、ヨーロッパの戦争は終わりました。
トルーマンは、ソ連より優位に立ちたいために原子爆弾を日本に対して使用すると決定するのです。
トルーマンは原子爆弾実験成功の報告を手中にし、ポツダム会談に臨みました。
トルーマンは、ソ連が参戦する通告を受け取っていたので、アジアでのアメリカ主導権を握りたい一身でソ連参戦より早く原子爆弾を使用したかったのです。

アメリカ・イギリス・中国のポツダム宣言が発表されました。
「日本政府に対し無条件降伏を宣言し、これ以外の選択は迅速かつ完全な壊滅があるのみ」という最後通牒でした。
日本の鈴木首相は、それを聞いて「ただ黙殺するのみ」と新聞発表しました。
だが、黙殺は翻訳では、「拒否」という英語となり連合国に伝わってしまったのです。
トルーマンは喜んだ。
それはポツダム宣言発表の前、極秘に原子爆弾投下命令をしていたからなのです。


.. 2011年09月09日 17:02   No.319006
++ 伝 (大学院生)…126回       
ポツダム宣言の文案はグルー等が中心になって作成した。その時すでにそれは国務省の多数意見ではなかったが、グルーが押し切った。それをポツダムにもっていったが、アラモゴードだったかで、7月16日原子爆弾の実験が成功した。これをつかえば日本を焼き滅ぼすことも可能である。そこで力におごった心理で、ポツダム宣言の性質をかえた。内部文書でPotsdam Ultimatum(ポツダム最後通牒)という語を使っている。最後通牒というのは宣戦布告の時よくつかわれる言葉である。日本がポツダム宣言を受諾する意思を表明したとき、原子爆弾の威力に慴伏したと考えたかもしれない。あさましいことであるが、当時のアメリカ等の為政者の道徳のレベルはこのよなものであったであろう。
.. 2011年09月10日 12:37   No.319007
++ タク (社長)…352回       
アメリカ側から日本への最後通牒、「ハル・ノート」が野村吉三郎駐米大使に提示されるのは、1941年11月26日の事です。須藤眞志「ハル・ノートを書いた男」(文春新書)によれば、この文面にある「チャイナ」という語の、従来の解釈には問題があるというのです。
アメリカはチャイナに満州を含んでいなかったというのです。
日本側が見落とした重大な岐路があった可能性があります。もし満州国をアメリカが容認したら、日本はハル・ノートを呑めたかもしれません。
そうであれば石原莞爾が今は絶対にやってはいけないという日米戦争は回避できたと思うのです。

「チャイナ」がどこまでを意味するのか、日本は照会しようともしなかった。
ハル・ノートが来ただけで、頭に血が昇ってしまい精神状態が既に冷静ではいられなかった。
それまでの経過を無視した強圧的な要求だったから無理もありませんが。
たとえ、チャイナに満州が含まれないとしても、三国同盟を反故にするとか、シナ・仏印からの全面撤退なども盛り込まれていますから、その場合でも、ハル・ノートを受諾できたとは考えにくいかもしれません。
国内がもたないことははっきりしています。
一大クーデターが起こる可能性が高まったでしょう。
これこそ開戦を促し続けた国民の最大の要因でしょう。
また、アメリカの情報網は、日本政府の最高レベルにも浸透していましたから、開戦の時期としては最も挑発しやすいという事が、わかっていたと思います。

.. 2011年09月12日 11:35   No.319008


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