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石原莞爾が日米戦争の必然性を確信したのは1927年の事です。真珠湾攻撃によって日米が交戦状態に入ったのは、1941年12月8日の事なので現実の開戦よりも14年も以前に日米戦争が必然視され、さらにそれが満蒙領有の目的と緊密に結び付けられていたと書けば、今日では結果論と感じられるかもしれません。
だが、当時において誰にも相手にされなかった石原莞爾の予言とも言える世界最終戦争論がひとつひとつ的中していたのです。「帝国国防方針」では「想定敵国」の第1位はソ連でした。それは日露戦争以来一貫して日本の国防上の脅威とみなされてきました。
だが、石原莞爾は早くからソ連以上の脅威を日本に与え、交戦の可能性のある国家がアメリカだと見抜いていたのです。もっともアメリカについては1907年4月「日本帝国の国防方針」において「友邦としてこれを保持すべきなりといえども・・・他日激甚なる衝突を惹起することなきを保せず」としていました。
ロシアにつぐ仮想敵国とされており、海軍兵備のうえでは「米国の海軍に対し東洋において攻勢を取るを度とす」として対米戦に備えることが定められていたのです。そして、すでに1919以降、海軍は対米戦を想定した潜水艦作戦の準備に着手していたのです。
これに対し、アメリカでも日露戦争後には日本を仮想敵国とした「オレンジ作戦計画」を練り上げてきており、太平洋を挟んで日米は相互に来たるべき衝突を予期してそれに備えていたのです。また1890年代から高まっていたアメリカの排日移民運動は、1920年カリフォルニア州で第二次排日土地法が成立するやアメリカ諸州に波及して行きました。
1924年には排日条項を含む移民法がアメリカ議会で可決されるなど日本人排斥が進むにつれ、日本国内でも反米抗議集会が各地で開かれた対米開戦が叫ばれ、佐藤鋼次郎「日米若し戦はば」(1920年)、石丸藤太「日米戦争・日本は破れず」(1924年)、川島清治郎「日米一戦論」(1925年)などが続々と刊行されるなど反米感情が醸成されていったのです。
こうして対立の度を深めていた1920年代、日米両国にとって問題の焦点となってきたのが中国問題とりわけ満蒙問題であったのです。アジアでは白人の植民地支配で中国に手を出し、ベトナムやラオスと次々に支配しました。
.. 2025年02月07日 09:18 No.3186001
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