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極東軍事裁判酒田法廷 昭和21年11月、石原将軍は居を鶴岡より飽海郡吹浦海岸の西山の地に移しました。ここは桐谷真氏の地所で、羽越線吹浦駅を降りて徒歩30分くらい、海岸の砂浜の松林の中のきわめて簡素な住宅でいかにも哲人の住むに適した清閑の地です。
ここでは同志ならびに私の父(仲條立一)含む若い弟子に囲まれ、信仰と農耕の生活に入り、昭和維新と祖国の復興の為に献身の日日を送ったのです。 西郷南洲が参議の要職を去って鹿児島に帰り郊外に農場を経営し、また城山山麓に私学校を創設して人材を育成した心境に通ずるものがあろうか。
西山に移って間もない昭和22年5月に、極東軍事裁判の石原莞爾に対する出張審問が行なわれることになりました。最初、西山の石原将軍の宅で行なう予定でありましたが、家があまりに狭いことと、実際、石原莞爾の弟の六郎さんが住んでいたのでよくおじゃましましたが、本当に狭いお家でした。
石原将軍が案外元気で尿気が早いくらいで起きていることもできるので、下準備に来たハーガドン中尉と佐々川弁護人が、急に酒田商工会議所に移すことにしたのです。裁判官一行は、判事、検事、弁護人、報道関係など合わせて80名余、8輌連結の特別列車でまことに仰々しいものでした。
極東裁判が石原莞爾の証言をいかに重要視したかは、当事の新聞記事によってもその一端を知ることができます。昭和22年5月1日 『山形新聞』は「世紀の謎、何を語るか石原元将軍」と題して次のように報じています。
東京裁判はじまってから実に一年、はじめて舞台は東京を離れて郷土山形に移った。いまやここ山形の一角庄内は世界の注視するところとなったのである。4月4日の法廷で板垣被告担当のマタイフ弁護人は、事変の大立物石原莞爾元中将の口供書を提出しようとした。
しかし検事団側は将軍の証言を事変の真相をつくものと重視、口供書が石原莞爾氏の口から出たものであることを確かめ、かつは反対尋問を行なうため、特に臨床尋問することを要求、判事団協議の結果、ニュージランド代表判事ノースクロフト卿を委員長として検事、日本弁護人からなる嘱託尋問委員会を構成、現地に特派することになったのである。
.. 2024年08月01日 05:36 No.3071001
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