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満州から内地に帰った石原将軍は、浅原健三、高木清寿両氏の配慮によって、昭和13年9月1日から茨城県大洗海岸の魚来庵に、母堂ならびに銚子夫人とともに静養しましたが、ここで完全な健康治療もできなかったので、十河信二氏のお世話で東京大学病院に入院加療したのです。前に出した予備役願の許可は、なかなか下りなかったのでした。
予備役願を受けた陸軍当局では、この際、石原少将を予備役にすることは惜しいとして、その願を却下し、昭和13年12月5日付けで関東軍参謀副長を罷免し、舞鶴要塞司令官を発令したのです。舞鶴要塞司令官の職はわり合いに閑職でした。ここでは清和楼という旅館の一室に居を定めて、読書や思索に静かな日を送ることができたのです。
東洋歴史にも目を通しています。そしてドイツ留学時代より構想していた世界最終戦争史観の体系を整理したり、ときには公開の講演会にも出て、時局の問題や東亜連盟思想の普及につとめたのです。舞鶴要塞司令官としての在任期間はわずか7ヵ月、昭和14年8月1日には陸軍中将に進級し、同日、京都留守第十六師団長に親補されました。
はじめて着任したとき、師団参謀長が石原師団長に着任に当たっての訓辞はいかがしましょうかと伺ったら、「石原には着任に当たっての訓辞などというものはない。軍人に賜わった御勅諭以外に、やたらに訓辞はいらない」と参謀長にきびしく諭したといいます。
これも石原将軍らしい一面です。石原将軍はかねて、参謀長というようなものは不要であるという持論であったといいます。参謀長の頭脳を借りなければ戦争ができないのは、馬鹿な司令官だけだというのです。そしてなに事も師団長の計画と命令でやりました。
仙台の連隊長時代も、石原連隊長自身の考えで卓越した異色の運営をしました。ここでは着任と同時に全管下団体長に、 一 爾後文書検閲はこれを行なわず 二 将校はソ連の将校の如くに訓練すべしという命令を出したという。
この調子で兵の訓練は実力第一主義で、戦法も軍に歩兵操典をそのままやるようなものでなく、常に新戦法の研究に努力を傾倒したのです。日本の陸軍は今でも日露戦争の頃の戦術を後生大事に守っている、と石原将軍は当時の戦法を批判し、切込み戦術を大いに研究していたそうです。
.. 2024年07月12日 07:37 No.3058001
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