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夜が明けて29日朝、野中大尉は陸相官邸で自殺しました。 叛乱軍は、続々と投降してきました。かくて皇軍相撃つ惨劇を見ることなく、叛乱は鎮圧され、戦慄の三日間は終って秩序は再び、東京に君臨しました。何が叛乱軍の降伏を招来したか。
もちろん奉勅命令が下ったことでしょうが、石原莞爾が、何ら迷うことなく、ためらうことなく、実力をもって解決しようとした決意と実行力に負うところが多いと思います。言葉を換えて言えば、石原莞爾の勇気が東京を救ったのです。
兵力の出動は大権に属していたので、いちいち上奏御裁可を得て近衛、第一の両師団の外、宇都宮の第十四、仙台の第二師団も出動を命ぜられ四つ街道の重砲、歩兵学校の戦車、それに飛行隊まで出動することになったのです。まさに千名そこそこの叛乱軍に対し、四個師団の兵力を動員し、鶏を裂くに牛刀以上のものを集結したのです。
この牛刀以上の圧力が、叛乱軍幹部の戦意を抱棄させたのでしょう。この圧力は敵本主義で、目的は政府威圧にあったという向きもありますが、これはあまりにも過ぎた見方ではないでしょうか。いつも全力決戦の立場をとる石原莞爾は、叛乱の無血鎮圧が主目的であったと見るべきでしよう。
石原莞爾は叛乱軍が降伏した後、 辞表を出して引きこもりました。大佐以上は全部やむべしというのです。司令部の中では、事件勃発以来四日間、戒厳の発令から奉勅命令の降下、徹底的な兵力集中、牛刀以上のものを振りあげての撃滅企図、そうして流血の惨を見ないでの鎮圧、ほとんどすべてが石原莞爾の方から出たものです。
石原莞爾に今引きこもられては大変だというわけで、慰留と引っ張り出しに長少佐が出かけて行きました。出かける時、根本氏は「石原さんが、かつての連隊長だった仙台の歩兵部隊が上京して来るのだが、もし石原さんが引っ込んでしまわれたら、今度の解決に疑を持ちやしないか」といって見たらということでした。
林、真崎、荒木、阿部の四大将がやめられることを話したのですが、出かけて行った長さんは、しばらくたつと「だめだめ」といって帰って来たといいます。「あなたの教えた仙台の部隊が、どっちが正しいのかと疑問を持つかも知れませんよと言ったら、私の教えた兵隊には一兵といえども大義名分を誤るものはおりません」とひらきなおられたといいます。
.. 2024年06月28日 08:02 No.3046001
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