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少尉に任官すると同時に、石原将軍は谷川幸造、佐藤亀治とともに、会津若松の新設歩兵第六十五連隊に赴任しました。新設の連隊にはあまり希望するものは少なかったというが、石原将軍はこういうまだ形の固定しないところで、自分の理想とする士風を作りたいという気持であったのです。
同期生の安達少尉は山形連隊に留ったが、当時のことを次のように述懐しています。「私は幼年学校・陸軍士官学校を石原莞爾と同期で過しました。そして山形の連隊にも一緒に配属されました。間もなく若松に新しく連隊ができると、石原さんはそこへ進んで行ってしまいました。」
「当時新しい連隊に行くのは、よくよくできの悪いものか、前任地で、はなはだ居心地のよくないような人が多く、普通の人はなかなか進んで行こうとはしませんでした。しかし石原さんは、もう型のできてしまっているところより、新しくできるところに出かけて行って、思う存分やるのだといって若松に行ったのでした。」
「その後若松から推されて陸軍大学に入りましたが、あまり勉強する様子も見えないのでみんな驚いたものです。大学時代には成績がよく、卒業式を迎えることになりました。この卒業式には天皇が臨席されるのですが、順序からいって石原さんが卒業生を代表して御前講演を行なうことになっていました。」
「しかし御前講演といっても普通は教官が事前に検閲したものをやるならわしで、とくに石原は注意しないと陛下の前で何を喋るかわからないというので、学校当局の神経の使いぶりは大変なものだったようです。」
「そこでいよいよ御前講演要旨について大学当局から石原に注文をつける段になったところ、言うことに文句をつけるのなら教官が御前講演をやったらよいでしょうといって、それを受けつけません。」
「そんなわけで、石原さんの御前講演はとりやめになりましたが、一つおまけがつきました。首席で卒業する人が御前講演をやることになっていたものですから、この問題で石原さんは二番にされたのです。そして御前講演はおとなしい次席の人がやりました」
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.. 2024年06月06日 06:55 No.3029001
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