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清洲城が織田信長のものになって四ヵ月後に、越前一乗谷では朝倉教景が亡くなったのですが、教景は、「あと三年は生きのびて信長という男の行末を見とどけたい」といったそうです。これなどは、同時代人の信長観としておもしろいです。
朝倉教景も齋藤道三も、織田信長の中に、自分たちとは異質なものを嗅ぎとって、それが何であるかを判断するのに惑っていたように思われます。信長は京都から帰った翌月、岩倉城を攻めて織田信賢を追い、家督を継いで九年目にして尾張の統一をなしとげました。
だが、その直後に、生涯最大の危機が迫ってきました。すなわち、今川義元が上洛の大軍を催して西進をはじめたのです。戦場での死が、当時の武士たちの生の完成であり、いかに美しく死ぬかが、彼らの公案だったというのは、戦わないものの傍観的な論評です。
洋々とした野望に燃えて家を継ぎ、ようやく尾張一国を切り従えた若い信長が、後人に褒められることだけを考えて、人生を完結しようなどと思うはずはないでしょう。たとえ十死一生、百死一生であっても、その一生にかけて織田信長は出陣をしたのです。
「人間五十年、化転の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」という信長の好きな「敦盛」の一節も、なればこそ夢幻の一瞬をこの上なく充実して生き抜きたいという意味で、信長の生活の信条となっていたのでしょう。
西進してくる今川義元の大軍は、4万ともいい、2万5千ともいわれました。織田信長は新付の領地から総動員してもせいぜい4000人足らずの兵力しか集められない。それは容赦のない「死のローラー」が轟音を発しながら迫ってくるようなものでしょう。
永禄3年(1560)5月11日に駿府を発した今川義元の軍は、道々に兵を集めてふくれ上がりながら、17日には尾張境に迫った。この死のローラーを見つめながら、信長の生命力は炎となって燃え上がったと思われます。
27年の生涯をこの一瞬に凝縮して、信長は桶狭間へ疾駆するのです。現在の桶狭間古戦場は、すっかり住宅地の波に呑みこまれてしまっています。すぐそばに人口200万の大都市が育ったのですが、この丘陵地帯の不運だったというよりしかたがない。
.. 2024年02月16日 05:28 No.2964001
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