返信


■--勝利は追撃戦で完成される
++ 仲條拓躬 (社長)…946回          


制限戦争で重視されたのは戦場での勝利と勝利の名誉、このふたつでした。だから敵が会戦に敗れたら、将軍はそれに満足して、ただちに剣を鞘に納めました。勝負が決まったからには戦闘を止めるのは当然で、その後の流血はすべて無駄な残虐行為とみなされます。

しかし敵戦力の撃滅という戦争本来の目的からすれば、こういう哲学は誤っている、とクラウゼヴィッツは強調し、次のように述べています。

「これまでの戦争でみると、大勝利を博した会戦のあと、強力な追撃戦をやったのはスウェーデン王カール十二世、英国の将軍マールボロ、オーストリアの将軍オイゲン、フリードリヒ二世のような本物の英雄だけで、その他の凡庸な将軍は戦場での勝利にのみ甘んじていたことが分かる」

だが十九世紀以降、「追撃は勝者のなすべき主要な仕事となり、戦利品の量は著しくふえた」。勝ち得たのはたんに戦利品だけではないのです。戦意喪失という精神面の勝利が大きい。あまり知られていないが、南北戦争(1861〜65年)で北軍が展開した追撃戦は、一般市民を巻き込むもっとも徹底したものだったのです。

1864年9月、米国南部の都市アトランタを占拠し、これを灰にした北軍司令官シャーマンは、敗走する南軍を追って、ジョージア海岸の港町サバンナ、サウスカロライナの州都コロンビアを制し、翌年2月、南北戦争勃発の町、チャールストンに達する。

「海への進撃」と呼ばれる追撃ですが、この追撃は半端でなかった。シャーマン軍は九十キロ幅で進撃したのですが、シャーマン軍が通った後には、略奪と破壊で幅九十キロの焦土の帯が延々と続いたのです。

焦土作戦をやったのはシャーマン軍だけではない。東部戦線でも北軍総司令官グラント将軍は、南軍の食糧庫でもあったシェナンドア渓谷の徹底的な破壊を命じています。「空を行く鳥も食糧を携えなければならぬ」まで、とことん破壊しつくせと有名な命令書に書かれています。

南軍の軍人のみならず、一般の南部人まで巻き込んだこの焦土作戦の狙いは、南部の資源、経済の完全な破壊だけでなく、南部人の戦意を喪失させることにあったのです。戦意はたしかに喪失しただろうが、敵意・怨恨はいまにいたるまで長く残っています。
.. 2024年01月15日 04:34   No.2938001

++ 仲條拓躬 (社長)…947回       
元南部連合国だった南部諸州で史上最悪の戦争はと問うと、返ってくる答えは第二次世界大戦ではなく、150年前の南北戦争なのです。この「海への進撃」に限らず、米軍には敵の息の根を止めるまで、徹底して追い撃ちをかける伝統があるようです。

その頂点が第二次世界大戦で米国大統領ルーズベルトが執着した無条件降伏です。もっともそのために戦後半世紀が過ぎても、世界のごたごたは納まらないのです。それに比べて日本軍の攻撃は淡白で、一度勝つと安心するのか、しつこく追撃する例は少ないです。

真珠湾攻撃のケースもそれですが、昭和17年5月の珊瑚海海戦でも追撃戦を怠り、取り返しのつかない失敗を犯しています。珊瑚海海戦で「翔鶴」「瑞鶴」から発進した日本の航空部隊は敵の大型空母「レキシントン」を撃沈、もう一隻の「ヨークタウン」も「撃沈」と報告しました。

だが「ヨークタウン」は航行不能に陥って戦列を離れただけで、沈没はしなかったのです。連合艦隊はこの作戦にあたった第四艦隊司令長官井上成美に、米機動部隊を追撃せよと命令しました。ところが電信の行き違いもあり、井上は第五航空戦隊の指揮官原忠一の戦意が消えてしまったのだろうと判断し、追撃を中止させたのです。

おそらく大型空母二隻撃沈の誤報を真に受けて、深追いは無用と判断したのでしょう。しかし「ヨークタウン」は辛うじてハワイに帰投、夜を日に継いでの修理の末、なんとミッドウェー作戦に参加しました。もし珊瑚海の藻屑にしておけば、「ミッドウェーの奇跡」は起こらなかったかもしれないのです。

昭和19年(1944)10月に行なわれたレイテ沖海戦は日本海軍が反撃に転じる最後のチャンスでした。しかしこのチャンスは栗田建男中将の下した敵前逃亡にひとしい決断で、あっけなく潰れてしまったのです。4ヵ月前のマリアナ沖海戦で日本は空母の大半を失ったけれども、戦艦、重巡などは健在でした。

連合艦隊はこれらの艦船を総動員し、フィリピン中部のレイテ島に上陸した米軍を叩く一大決戦を挑んだのです。艦隊は三手に分かれて出動したのですが、主力は栗田艦隊で「武蔵」「大和」「長門」など日本海軍自慢の巨大戦艦を擁していた。

.. 2024年01月15日 04:42   No.2938002
++ 仲條拓躬 (社長)…948回       
栗田艦隊は途中、米空母部隊の攻撃にさらされ、「武蔵」など数隻を失ったが、それでもフィリピン諸島の海峡を通り抜け、サマール島沖で米護衛空母部隊と激突、多くの痛手を受けたが、米軍の護衛空母一隻、駆逐艦三隻を撃沈し、米艦隊を追い払ったのです。

こうして目的のレイテ島まで80キロの地点にたどりつきました。連合艦隊の作戦ではレイテ島の米軍上陸地点まで突入し、敵の艦船を壊滅させることになっていました。それとともに陸軍は総力をあげて、上陸した米軍に決戦を挑む計画でした。

ところがレイテ島を指呼の間に望む地点に来て、栗田長官はあろうことか「突入中止!反転して北上せよ」と命令したのです。驚いた幕僚たちの抗議の叫びにも耳を傾けず、決戦のチャンスは永久に失われたのです。将軍に人を得なければ戦争は失われる、とクラウゼヴィッツはいいますが、まさに至言でしょう。

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.. 2024年01月15日 04:54   No.2938003
++ 斎藤なぎさ (大学生)…93回       
パレスチナ人によるイスラエル・ネタニヤフ政権の
 | パレスチナ抹殺計画に対する決起
 | イスラエルは占領者であり
 | パレスチナ人は占領された土地に住む被害者
 | 12/25重信房子さんのお話を聞いて  (上)(2回の連載)
 └──── 斎藤なぎさ(たんぽぽ舎)

 重信房子さんは30年間アラブで生活をして帰国後22年間収監されてい
ました。
 かつて重信さんたちも無関係な民間人を巻き込み、被害を与えた過ち
がありましたが、今は反省していて訴えています。
 どんな戦時下でも武器を持たない人の命を奪うことは許されないと。
 以下、講座のレジュメより。
 
◎「イスラエルとハマスの戦争」と言われているが、これは第二のナク
バ・民族浄化である。
 かつてパレスチナ人は「ナクバ」によって1947年から1949年の間に
1万4000人以上の虐殺と75万人以上の追放を経験。
 2023年10月7日、パレスチナ勢力は「アルアクサ洪水作戦」を開始し
た。日本の報道では「ハマースの攻撃」と言うが、ガザの解放勢力が
一致団結してこの作戦に参加している。
 イスラエルは国際法も国連決議も無視してパレスチナ人への支配と弾
圧を進めている。

◎ネタニヤフ首相は9月の国連総会で「新しい中東」として地図まで掲
げて演説をした。占領地併合済みの大イスラエル地図である。
 パレスチナ人をアラブ諸国に追放してそこに同化させてパレスチナ問
題を終わらせるというパレスチナ抹殺計画である。
 この「第二のナクバ」の動きに対して、パレスチナ人は闘うことを
選んだと言える。
 イスラエルは占領者であり、パレスチナ人は占領された土地に住む被
害者である。

.. 2024年01月16日 05:05   No.2938004
++ 斎藤なぎさ (大学生)…94回       
◎なぜこのようなことがまかり通るかと言うと、米国政府がイスラエル
の無法を拒否権を発動して許してきたからだ。
 第一に1947年にパレスチナを分割して二つの国を作る(国連決議181)
と決めながら、イスラエル国家しか作らなかったという国連決議の不履
行が始まりである。
 第二に第一次中東戦争において、国連決議を無視してパレスチナの
78%を占領したイスラエルを許してしまった。その上イスラエルは1949
年5月に国連に加盟が認められた。
 第三に追放された75万人以上のパレスチナ難民の故郷への帰還を1948
年の国連総会で決議採択されたが(決議194)イスラエルは拒否し続けて
いる。
 第四に1967年の戦争によってイスラエルはパレスチナ全土とエジプト
のシナイ半島、シリア・ゴラン高原を占領し、国連安保理決議(
決議242)は占領地返還を求めた。しかしイスラエルは無視した。
                         (下)に続く

.. 2024年01月16日 05:12   No.2938005
++ タク (社長)…3273回       
緊急事態に備える
このたび能登半島地震で被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。災害は突然起こるものとはいえ、まさか元日に大地震が起きるという異常事態は滅多にあることではありません。被災された方のお心は察するに余りあります。

東京直下型地震や南海トラフ地震が起こった場合、今回以上の被害が予想されます。各地で地震が起きるたびに、他人事ではないと実感するばかりです。改めて私たちはどのような心構えを持つべきか考えてみなくてはならないでしょう。

突然、震度7のような大災害が起こったら、急いで行動する前に、周囲の状況を確認し、より安全安心な行動を選択するためには冷静さが必要です。関東大震災の例を見るまでもなく、誹謗中傷の流布に惑わされないようにするためにも冷静に考えることが重要です。

災害発生時は、適切な避難場所に移動することが鍵となります。正常性バイアスによって逃げ遅れることが無いように正しく危機を察知することが重要です。倒壊か火災か津波か、迫っている危険性によっても安全な場所が異なるかもしれず、落ち着いて判断すべきです。

事前の備えとして、家庭や職場に非常用キットを用意しておくことも大切です。これには食料、水、医薬品、ライト、ラジオ、応急処置用具などが含まれます。地域や災害の規模によっては、救助や支援がかなり遅くなる可能性が高いことが今回明らかになりました。自助努力は大切なことです。備えあれば患いなしです。

また、正確な情報は重要です。現代はSNS等により、デマが拡がりやすくなっています。公式の発表やマスコミからの情報を確認し、デマに惑わされないようにしましょう。緊急時に、落ち着いて行動することは非常に難しいものです。事前に、自宅にいる時、会社にいる時等を想定して災害時のシミュレーションをしておくと役に立つかもしれません。

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.. 2024年01月16日 05:48   No.2938006
++ タク (社長)…3274回       
日本の40年ごとの節目
昭和時代が幕を引くのを待っていたかのように、世界情勢が激変します。それはもうご存じのとおりです。平成2年(1990)、ソ連が一党独裁を放棄し、東西ドイツが統一します。 同3年の暮れには連邦を構成していた共和国が次々に独立を宣言し、ソ連邦崩壊という驚くべきことが起きます。

冷戦はアメリカの勝利をもって終結し、ロシアと新たな国家共同体に加盟するその他の共和国すべてを即時承認するとアメリカは高らかに宣言します。それと歩調を合わせたように、日本経済繁栄が平成2年にガラガラと崩れ落ちてしまうのです。冷戦終結が日本のバブルをはじいてしまったのです。

冷静に振り返ってみれば、昭和末期の日本は、政・官・財の馴れ合い、真面目さを失い軽浮薄もいいところでした。なかでも官僚がリードする最後の十年ほどは、土地ブームと株価のもたれ合い構造による張り子の虎に過ぎなかったのです。大いなる繁栄も春の夜の夢の如し。まさしく「バブル」であったのです。

40年ごとに日本の国家が変わってきました。ちょうど戦後日本を考えると、昭和27年(1952)に独立国として出発してから40年と言えば1992年、まさにその前年にバブルがはじけました。皆が一所懸命努力してつくってきた戦後日本は、40年で株価が最高値を記録し、GNPで世界第二位を誇るほどの経済大国になりました。

明治時代、近代国家をつくろうとして一所懸命だった日本が日露戦争に勝ち(1905年)、国家づくりに大成功し、結果的にうぬぼれのぼせて国際的にどんどん孤立し、ついには世界を相手に戦争をして国を滅ぼしてしまったのが40年後でした。同じなのです。戦後日本も、独立して国家づくりをはじめてから40年かけて経済大国にまでなりました。

そしてそこで大いに繁栄を謳歌しうぬぼれのぼせた挙句にバブルがはじけておかしなことになります。さらにその後のいまの日本を考えますと、新しい国家をつくるために、じゃあどういう国にするのかの国家目標もなく浮遊しているようで、また滅びの40年にかかっているのではないかとも思えるのです。

.. 2024年01月17日 05:30   No.2938007
++ タク (社長)…3275回       
明治時代、国家目標は富国強兵であり、国家の機軸―国をつくるためには、皆が心を一つにして同じようなことを考え同意することができる軸が必要なのです。立憲天皇制でした。天皇制という言葉はあまり評判がよくないので悪く聞こえますが、国家をつくるにあたっての一つのシステムとして非常にうまく機能したと思います。

これが成功したあとに、先に言いましたようにうぬぼれのぼせ、国家の機軸として立憲君主制よりもすごい天皇制を世界の中心であるかのように仕立て、天皇を現人神として奉り、さらに国家目標も富国強兵を超え、アジアの盟主たらんとする幻想を抱いて結果的に国家を滅ぼしてしまった。

これを戦後日本について言いますと、国家の機軸は憲法にある平和主義だったと思います。これに関して日本人はかなり一致して受け入れただけではなく、それを進んで喜びとするようになりました。鳩山さんや岸さんの主張する改憲・再軍備にはノーと言ったのです。

また国家目標は、1960年代の後半からは軽武装・経済第一主義とし、これもまた完成しました。そして現在となるわけです。じゃあバブル崩壊後の今の私たちの国家目標は何もありません。

では機軸は何か。私は平和憲法でいいと思うのです。が、嫌だという人が多いのです。早く憲法を改正して、軍隊をもつ普通の国にしようという意見が多いと新聞などが報じているのです。

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.. 2024年01月17日 05:41   No.2938008
++ タク (社長)…3276回       
秘密保持と迅速が成功の二大条件
「奇襲は戦闘上、不可欠な作戦である、だが奇襲がすばらしい成功を収めた戦例はまれだ」とクラウゼヴィッツは述べています。机上で戦争を考える連中は奇襲がすばらしい作戦だと思いがちですが、実際には奇襲くらい難しいものはないのです。なぜなら奇襲には準備がいるが、極秘のうちに進められなければならないからです。

敵に知られたら奇襲にはならないです。準備が短期間なら秘密も守られやすいのだが長期となると困難です。大きな奇襲作戦が実行されにくいのはそのためです。秘密と並んで奇襲に欠くことのできない条件はスピードです。準備も実行も可能なかぎり迅速に行なわれなければ、失敗は目にみえています。

このふたつの条件を満たすには「旺盛な士気と厳格な軍規とそして卓越したリーダーが求められる」とクラウゼヴィッツはいい、「奇襲作戦の雄」としてふたりの武将をあげています。フリードリヒ二世とナポレオンです。

もしクラウゼヴィッツが真珠湾攻撃を目にしたら、その大成功ぶりに舌を巻き、この作戦を主導した山本五十六海軍大将に脱帽したことでしょう。いうまでもないのですが、クラウゼヴいが、クラウゼヴィッツの『戦争論』は陸戦を対象にしています。

彼は実戦主義者だから、みずから経験したことのない海戦を論じないのは当然です。まして航空戦が戦争でこれほど目覚ましい役割を果たすとは、想像もしなかったにちがいないでしょう。

昭和16年(1941) 12月8日未明、太平洋上から発進した日本軍の三百五十三機の攻撃で、米戦艦四隻、その他二隻を撃沈、戦艦四隻、巡洋艦二隻、駆逐艦三隻、その他二隻を撃破、二百三十一機の米軍航空機を撃墜破したのです。

日本側の損失は航空機二十九機と特殊潜航艇五隻。損益計算からいって、これほどの戦果は珍しいです。さらにこれで米太平洋艦隊は壊滅し、太平洋の制海権は日本軍のものとなりました。戦略的にも大成功です。

この作戦に従事したのは南雲忠一中将の指揮する第一航空艦隊です。航空母艦六隻を基幹とする機動部隊ですが、これだけの大艦隊が米国側に察知されず、奇襲攻撃に成功するにはよほど綿密な作戦計画と周到な訓練が必要でした。じつはルーズベルト大統領はこの奇襲作戦を察知していたといいます。しかしルーズベルトだって、これほどの大損害を蒙るは思ってみなかったのです。

.. 2024年01月18日 06:55   No.2938009
++ 仲條拓躬 (社長)…949回       
天皇陛下の男の約束
男の約束だか知りませんが、マッカーサーと天皇が余計な約束をしたといいます。昭和天皇という方は律儀な真面目な方でいらっしゃいますので、男の約束ですからといって、会談に関する話は本当にお亡くなりになるまで話しておりません。

話しているのは専らマッカーサーのほうで、軍人なのにおしゃべりなのです。男の約束を知らない方なのですが、どうもこの男の話は当てにならないところがありまして、いろいろと誤解を生むことになるのです。

いずれにしろ男の約束を守ったのは天皇で、守らなかったのはマッカーサーでした。ただ、マッカーサーが離さなかったことも、松井さんの手記と寺崎さんの残したもの、その他のことでいくらか明るみに出てきております。

日本の戦後に昭和天皇がいかにかかわったか、マッカーサーにどんどん意見を言い、マッカーサーもそれを取り入れ、あるいはそれに影響されて占領政策を進めていった、といってもいいかと思います。

とにかく戦後日本の形づくりのために昭和天皇は大変な仕事をなさっていた、そのことがわかるかと思います。ですが、考えようによって、これは憲法違反なのです。ご存じのように昭和21年に憲法が審議を経て成立し、翌22年に公布されました。

そこでは天皇は象徴であって政治には一切かかわりなしとされ、現在でも皇室は政治には一切かかわりはないのです。ですから女帝がどうだのといっても、皇室典範の改定は内閣の仕事であり、皇室は一切発言をしない、できない、天皇家は政治には一切口出しをしないと決められているわけです。

ところが、昭和天皇はどんどんマッカーサーに話をして、政治に口出しをしています。世の中に出さないという男の約束があるから憲法違反にならないのか、そんなことはないと思うのですけれども、まあその辺は皆さん方がご自身でお考えいただきたいと思います。

いずれにしろ戦後日本の占領期間というのは、ある意味では天皇とマッカーサーの合作ではなかったろうかと思われるところが若干あるわけで、そこに歴史を知ることのおもしろみもあり、楽しさもあると思います。

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.. 2024年01月19日 05:46   No.2938010


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