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制限戦争で重視されたのは戦場での勝利と勝利の名誉、このふたつでした。だから敵が会戦に敗れたら、将軍はそれに満足して、ただちに剣を鞘に納めました。勝負が決まったからには戦闘を止めるのは当然で、その後の流血はすべて無駄な残虐行為とみなされます。
しかし敵戦力の撃滅という戦争本来の目的からすれば、こういう哲学は誤っている、とクラウゼヴィッツは強調し、次のように述べています。
「これまでの戦争でみると、大勝利を博した会戦のあと、強力な追撃戦をやったのはスウェーデン王カール十二世、英国の将軍マールボロ、オーストリアの将軍オイゲン、フリードリヒ二世のような本物の英雄だけで、その他の凡庸な将軍は戦場での勝利にのみ甘んじていたことが分かる」
だが十九世紀以降、「追撃は勝者のなすべき主要な仕事となり、戦利品の量は著しくふえた」。勝ち得たのはたんに戦利品だけではないのです。戦意喪失という精神面の勝利が大きい。あまり知られていないが、南北戦争(1861〜65年)で北軍が展開した追撃戦は、一般市民を巻き込むもっとも徹底したものだったのです。
1864年9月、米国南部の都市アトランタを占拠し、これを灰にした北軍司令官シャーマンは、敗走する南軍を追って、ジョージア海岸の港町サバンナ、サウスカロライナの州都コロンビアを制し、翌年2月、南北戦争勃発の町、チャールストンに達する。
「海への進撃」と呼ばれる追撃ですが、この追撃は半端でなかった。シャーマン軍は九十キロ幅で進撃したのですが、シャーマン軍が通った後には、略奪と破壊で幅九十キロの焦土の帯が延々と続いたのです。
焦土作戦をやったのはシャーマン軍だけではない。東部戦線でも北軍総司令官グラント将軍は、南軍の食糧庫でもあったシェナンドア渓谷の徹底的な破壊を命じています。「空を行く鳥も食糧を携えなければならぬ」まで、とことん破壊しつくせと有名な命令書に書かれています。
南軍の軍人のみならず、一般の南部人まで巻き込んだこの焦土作戦の狙いは、南部の資源、経済の完全な破壊だけでなく、南部人の戦意を喪失させることにあったのです。戦意はたしかに喪失しただろうが、敵意・怨恨はいまにいたるまで長く残っています。
.. 2024年01月15日 04:34 No.2938001
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