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戦史に残る包囲作戦としてよくあげられるのは「クラウゼヴィッツの使徒」を自称するモルトケの普仏戦争における仏軍包囲です。1870年7月、先に宣戦布告したのは劣勢のはずのフランスでした。凡庸なナポレオン三世は自国の力を過信していたらしい。
プロイセンの宰相ビスマルクの策略に引っかかったともいわれています。プロイセン軍は第一軍6万、第二軍20万、第三軍13万、予備軍12万、総計51万。対する仏軍はアルザス軍5万、ロレーヌ軍15万、予備軍5万、総計25万の編成です。
緒戦でロレーヌ軍は国境を越えたものの、後続がなく、プロイセンの第一、第二軍に押しまくられ、メッツで包囲されてしまいます。アルザス軍と予備軍を合わせてシャロン軍を編成し、ナポレオン三世みずから出馬して、救援に向かいました。
だが、プロイセンの第三軍に捕捉され、これまた追いまくられてベルギー国境に近いセダンで包囲、9月、皇帝以下8万3千の仏兵が捕虜とこの戦いのためにモルトケは十数回、作戦計画を練ったといわれています。
そのポイントは仏軍の正面と右翼の攻撃に徹することです。そうすれば仏軍は北へ向かわざるを得ず、パリから切り離されてしまうのです。パリと仏軍がフランスの重心だから、両者の切り離しはすなわちフランスの敗北、というのがクラウゼヴィッツ仕込みのモルトケの計算でした。
この計算は見事に当たりました。実は当たりすぎて、パリで降伏するはずのナポレオン三世までセダンで捕虜になってしまい、パリでは人民蜂起が勃発するのです。戦争で計画通り事が進むのはまれである、というクラウゼヴィッツの教えを、モルトケは身に沁みて感じたことでしょう。
旅順要塞は難攻不落を誇っていました。火器の銃座や砲座はがっちりコンクリートで固められ、その周囲にコンクリートの濠をめぐらし、さらにコンクリートで掩護した機関銃座が配置されていました。
旅順包囲戦で対決したのは第三軍の乃木希典司令官とステッセル中将です。数日で攻略の見込みだったのですが、じつに155日を要し、日本軍は13万の兵士を投入、半数近い死傷者を出しました。旅順陥落が急がれたのはバルチック艦隊が日本に向かっており、もし旅順港に封鎖中の太平洋艦隊と合流したら、日本には勝ち目がなかったからです。
.. 2023年12月22日 08:52 No.2926001
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