ランスダウンは、ドイツもこれに参加するよう要請しました。ドイツはこれを受諾し、同17日、両国の対清国警告が実施されました。揚子江協定以後、イギリスとドイツ間の初めての一致でした。とは言うものの、イギリスにとって日本との協力の限界は明確に存在しました。根本的な対ロシア政策が、両国では異なるからです。 イギリスは、決して反ロシア政策を採ることはなかったのです。日本政府から出された、ロシアのさらなる侵入に対して清国に具体的援助を与えようという要請に対し、ランスダウンは明確にこれを拒否しました。なぜならイギリスは、ロシアに敵対してまでも清国を保障することはないからでした。 しかし、将来の朝鮮半島支配を視野に入れる日本にとっては、東アジアにおけるロシアの南下をただただ傍観しているわけにはいかなかったのです。そのためには、イギリスのこの決定は、「傍観するのみにて断固たる処置をとるべき気色なし」としか映らなかったのです。ところが2月19日、ロシアが新たなロシア=清協約案を公表しました。 ランスダウンはすでに同6日、ロシアが清国との新協定を準備しているという報告を、駐ロシア大使スコット (Sir C. Scott, 大使1898〜1904年)から受けていました。スコットはロシア外相ラムズドルフ (Lamsdorff, 外相1901~1906年)と会談し、ロシアが満州から撤退する条件として、その鉄道の保護と暴動再発防止の保障を得るために新たな協約を必要としていることを告げられました。 ランスダウンは、この新協約を危惧していました。それは、旅順協定と比較してその範囲が拡大し、かつ永久的なロシア軍の満州駐屯の可能性を示唆するものだったからです。そこでランスダウンが林に要請して会談を持ち(3月1日)、新協約に関して意見交換をおこないました。 清国は新協約に調印するだろうと予測されており、そしてイギリスは南アフリカ戦争に従事しているために、この満州の情勢に対し、何も具体的な行動を採れないからでした。事実、彼の危惧するとおりロシアは、「北京を占領した連合軍が北京から撤退し、清国に中央政府が再建されるまでは、ロシア軍隊を満州に駐屯させる」と宣言しました。
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.. 2023年10月07日 08:21 No.2869006