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木村武雄は田中政権時代から交渉が開始されていた日中平和友好条約の締結を成し遂げたいと考えていました。ところが、「反覇権」条項をめぐって日中間の交渉は暗礁に乗り上げていた。日中共同声明には「アジア・太平洋地域で覇権を求めるべきではない」という条項が含まれていたため、中国の条約案には「反覇権」条項が入っていた。
しかし、日本は「反覇権」が特定の国を対象としたものであると受け取られことを避けたかった。このため、交渉は停滞した。昭和五十一 (一九七六)年は日中双方にとって木村にとっても多難な年だった。中国では、周恩来、毛沢東の死去や四人組の逮捕などの混乱状態が続いていた。
ところが、昭和五十二(一九七七)年七月、前年に失脚したとう小平が復活すると局面が変わった。木村はすでに七十五歳になっていたが、なおも日中平和友好条約締結に情熱を燃やすのだ。同年九月、木村は浜野清吾が率いる日中友好議員連盟の訪中団として北京を訪れた。
この時、とう小平は「福田首相に期待している。いろいろなこと、問題もあろうが、この問題に限っては、一秒間ですむことだ。一秒とは、「調印」の二字である」と語った(田才徳彦「日中平和友好条約交渉」『埼玉女子短期大学研究紀要』平成二十八年九月)。これ以降、条約締結への動きが活発になってくる。
結局、「反覇権」条項については、「この条約は第三国との関係に影響を及ぼさない」との一項を盛り込むことで決着がつき、昭和五十三(一九七八)年八月、園田直外相と中国の黄華外相が条約に署名した。条約は十月に批准され、同月二十二日にはとう小平副総理が来日した。中国の国家指導者として初めての訪問だ。
とう小平は、日中平和友好条約相互批准書交換式に参加し、新日鐵や日産自動社など、日本の代表的な企業の工場を視察した。この訪日の際、とう小平は田中邸を訪問している。とう小平が「改革開放」を開始するのは、その二ヵ月後のことだ。
原則を確認の上、「日中友好二十一世紀委員会」の設立を決定したのは、その三日前のことである。木村の最後の願いが叶ったように見える。木村の死去を受けて、自民党山形県連会長(当時)の近藤鉄雄は、「木村先生は自民党の主流にありながらも、常に野党的な反骨、批判精神を持ち続け、時流の中に決して埋没することのない政治家だった」と語った。
.. 2023年09月28日 05:37 No.2863001
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