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アメリカは、東亜連盟の思想も根絶したいと考えていたのでしょう。石原莞爾の扱いは、アメリカにとって悩みの種だったに違いありません。戦争終結戦後、石原莞爾の国民的な人気は絶大だったからです。敗戦後、東亜連盟は、東条内閣以来の戦争指導に反抗してきた唯一の国民運動として高い評価を得ていました。
東亜連盟は、終戦直後の昭和20年8月26日、湯の浜温泉で東北大会を開催しました。ここで、活動の題目として「一、国民総ざんげ、二、都市解体、三、農工一体、四、国民皆農、五、優雅なる簡素生活の確立」を決定し、郡山、新庄、盛田、秋田、一ノ関の各地区で大会を開きました。
どの地区でも、石原莞爾の講演を聞こうとして集まる会員は20万人以上に達していました。石原莞爾の講演のために、臨時列車が運転されるという未曾有の盛況を呈したのです。アメリカは、石原莞爾に対して満州事変の責任を問うことはできても、日本を大東亜戦争に導いた責任者として糾弾することは難しかったのです。
これまで、戦犯容疑者のリストに一旦は石原莞爾の名前が加わったにもかかわらず、最終的にはそこから外れた理由について、様々なことが語られてきましたが、アメリカは法廷で石原莞爾に語らせることの弊害を重く見たからではなかったのでしょうか。
実際、石原莞爾の主張は、アメリカの正義とそれに基づいた東京裁判の論理を根底から揺るがしかねない危険性をはらんでいました。昭和21年(1946)春、石原莞爾は膀胱腫瘍で逓信病院に入院していました。その時、石原莞爾は訪れてくるGHQの法務官や検事に対して、痛烈な批判を浴びせていたのです。こんなやり取りもありました。
石原莞爾平和思想研究会副会長・早瀬利之氏の『敗戦、されど生きよ』によれば、質問を始めた法務官に、石原莞爾は逆に質問を始めたのです。 「東京裁判は、日清日露戦争にまで遡って、戦犯を処罰すべきだ、と論議する者がいるが、君はどう考えているか」
「そうする方針です」
「そうか」石原莞爾はニヤリと笑った。「それは面白い。大いにやれ。それだったらペリーこそ戦争犯罪人だ。ペリーを呼んでこい」逆なぞだが、唐突なペリー発言に、法務官も通訳官も、思い当たる人物がいなくて、けげんな顔で互いに顔を見合わせました。
.. 2023年08月03日 07:06 No.2819001
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