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木村武雄は、一人の国会議員として最後まで東條と闘いました。昭和17(1942)年1月18日、東条は戦時刑事特別法案を国会に提出しました。国家総動員法、言論出版集会結社等臨時取締法につらなる戦時体制強化を目指した法案でした。この法案に反対の立場の代議士も少なくなかったのですが、東条政権の弾圧におびえ、誰もが沈黙を守りました。
その時、代議士会で果敢に法案阻止の演説をぶったのが木村武雄でした。後に自民党幹事長を務める保利茂氏は次のように書き残しています。「政府批判とは、当時の代議士にとって牢獄か、あるいは死を意味してさえいた。ところが、代議士会で、思いがけず木村君の徹底的な反対演説を聞いた。」
「それはまさに、突如として眼前に炸裂した落雷のように私たちを感動させ、その目を覚ましてくれたのである」(「政治の筋を貫く国士』)木村武雄は同年4月の総選挙に、翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに出馬、見事当選を果たし、東条政権に対する抵抗を続けました。しかし、いよいよ木村武雄の身辺も危なくなってきました。
同志の和田勁(現在、和田勁のご子息が石原寛治平和思想研究会の相談役となっています)や原玉重らは、木村武雄のことを心配し、 しばらく中国に身を隠すよう助言するようになりました。さらに、木村武雄を庇護していた軍務局の永井八津次大佐も木村武雄に対して
「俺は近いうちに支那総軍の軍務課長に転任するが、もうこれまでのように君を憲兵から守ってやることができなくなる」と警告した。こうして、木村武雄は中国に逃れることを決意、転任する永井と同じ飛行機に乗り合わせて大陸に渡った。 昭和17年9月のことです。木村武雄は、上海の滬西地豊路のチャイナタウンの一角に拠点を置いた。
やがて、ここには内地から木村武雄の同志や部下が集結し、「木村公館」と呼ばれるようになります。(石原莞爾平和思想研究会・青年部で木村武雄のお孫さんが活躍しており、大連で暮らしております。)
上海では、紡績工場の機械や製品が日本軍に掠奪されていました。当時の様子について、石川正敏氏は「軍は上海市街を中心に租界を除く全地区から、麻・綿糸をはじめ鉄鋼亜鉛板から書籍の果てに至るまで、大量の物資や資材を手当たり次第に掠奪していた」と書いています。
.. 2023年07月30日 08:50 No.2816001
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