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明治四十五年を迎え、石原莞爾は少尉に任官し、韓国春川守備隊に加わって朝鮮に赴くこととなりました。「御苦労だな。韓民族は、決して劣等民族ではないよ。貴公もそこを見届けて来なくちゃいかんよ」南部次郎は石原莞爾を激励して、行を壮んにした。
莞爾「自分は、実際の状況視察をして、またご報告に参ります」次郎「ぜひ、そういうことにしてもらいたい」莞爾「どうぞお体を大切に」次郎「大丈夫だ。 まだ死なんぞ」南部次郎は、元気そうだったが、秋の影のように、どこかに、眼にみえぬ衰えがありました。襄吉は、襄吉で、東京から毎日、通信しようと約束しました。
韓国の北方にとじこもっていては定めし郷愁を覚えるだろうから、少しでも慰さめてやろうという友情でした。石原莞爾からも、返事があった。それには、いつも得意の漫画がかいてあった。毎日通信がくるが、よく種がつきないものだと、驚いているところや、兵隊と仲よく暮している生活の模様や、さまざまな事がかいてあった。
殊に兵隊と一緒になって、火鉢の前で、手紙を読んで聞かせているところなどは、情味たっぷりなもので、山形の営舎生活そのままだった。朝鮮総督府の政策に対しても、石原莞爾は同意できなかった。だが、いかにせん、新任少尉という低い地位にあっては、意見を具申しても、みとめられそうもなかった。「あの男は、意見具申狂じゃないか」
悪くすると、精神病扱いをうけそうなので、専ら、韓人の実態調査の方に手をつくしました。石原莞爾はここで2年を過しました。日本人の住むところでは、町村でも部落でも、額に汗してあくせくと労働していたが、朝鮮人自身は、そうではない。純白の衣物をぞろりと着流し、オンドルの中で、長い烟管で煙草をくゆらしつつ、悠々とくらしていた。
物価はごく安く、そのころ一日五銭もあれば一家五人くらいは楽々くらしてゆけたが、それでいて貧しかった。守備隊で、使役をつのると、あらそって押しかけてくるが、二三日たつと、パッタリ来なくなる。「どうして、休んだか」「なあに、たべる銭があるうちは働かなくてもいいよ」「でも、働けるときに働けば、お前たちのためになるではないか」
.. 2023年05月19日 05:38 No.2757001
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