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■--韓民族の独立
++ 仲條拓躬 (社長)…853回          


明治四十五年を迎え、石原莞爾は少尉に任官し、韓国春川守備隊に加わって朝鮮に赴くこととなりました。「御苦労だな。韓民族は、決して劣等民族ではないよ。貴公もそこを見届けて来なくちゃいかんよ」南部次郎は石原莞爾を激励して、行を壮んにした。

莞爾「自分は、実際の状況視察をして、またご報告に参ります」次郎「ぜひ、そういうことにしてもらいたい」莞爾「どうぞお体を大切に」次郎「大丈夫だ。 まだ死なんぞ」南部次郎は、元気そうだったが、秋の影のように、どこかに、眼にみえぬ衰えがありました。襄吉は、襄吉で、東京から毎日、通信しようと約束しました。

韓国の北方にとじこもっていては定めし郷愁を覚えるだろうから、少しでも慰さめてやろうという友情でした。石原莞爾からも、返事があった。それには、いつも得意の漫画がかいてあった。毎日通信がくるが、よく種がつきないものだと、驚いているところや、兵隊と仲よく暮している生活の模様や、さまざまな事がかいてあった。

殊に兵隊と一緒になって、火鉢の前で、手紙を読んで聞かせているところなどは、情味たっぷりなもので、山形の営舎生活そのままだった。朝鮮総督府の政策に対しても、石原莞爾は同意できなかった。だが、いかにせん、新任少尉という低い地位にあっては、意見を具申しても、みとめられそうもなかった。「あの男は、意見具申狂じゃないか」

悪くすると、精神病扱いをうけそうなので、専ら、韓人の実態調査の方に手をつくしました。石原莞爾はここで2年を過しました。日本人の住むところでは、町村でも部落でも、額に汗してあくせくと労働していたが、朝鮮人自身は、そうではない。純白の衣物をぞろりと着流し、オンドルの中で、長い烟管で煙草をくゆらしつつ、悠々とくらしていた。

物価はごく安く、そのころ一日五銭もあれば一家五人くらいは楽々くらしてゆけたが、それでいて貧しかった。守備隊で、使役をつのると、あらそって押しかけてくるが、二三日たつと、パッタリ来なくなる。「どうして、休んだか」「なあに、たべる銭があるうちは働かなくてもいいよ」「でも、働けるときに働けば、お前たちのためになるではないか」
.. 2023年05月19日 05:38   No.2757001

++ 仲條拓躬 (社長)…854回       
「それは日本人のことだ。私たちから見ると、日本人は、たべられるくせにどうして毎日働くのか、その気持がわからぬ」と、言った。李朝三百年の政治は、勤労精神や、蓄財の希望を奪いとって、卑屈な民族気質をつくりあげた。

だが、南部次郎のいうように、韓人は、決して根っからの劣等無能な民族ではなく、道義に欠けた悪政にわずらわされて、それが骨の髄まで必みこんで、妙に歪められてしまったと見なくてはならない。「総督政治はどうだ」ときくと、彼等は一様に黙ってしまう。

「俺は、君達の味方である。決して不利になるような事はしない。正直に言うてみてくれぬか」「正直に言ってもよいか」「いいとも」「それなら言うが、総督は泥棒だ」「これは意外なことをきくものだ。泥棒だというのは、どういうわけだ」

「総督は、朝鮮という国を盗んだ。それでいて、俺たちが山へ行って木を伐ると、俺たちを泥棒だといって縛る。自分の山の木を自分で伐ったのがなんで悪い。一体ほんとうの泥棒はどっちだ。 総督の方が、大泥棒じゃないか」と、うそぶく。聞いてみると、尤もだ。

日本は朝鮮統治40年を通じて、韓人の民族意識を抹殺しようとしたらしいが、この事たる、愚策の甚だしいものだった。石原莞爾は、春川に在任のとき、それを看取した。彼は、彼の世界思想、すなわち、各個人が平等であるように、各民族もまた平等であるべきだ、と教えたので、韓人は、すっかり石原莞爾に傾到したのです。

後の話ですが、石原莞爾を圧迫しようとした一連の東条閥は、大東亜戦争の大詔煥発とともに、警察に命じて韓人を留置させました。石原莞爾の同志の曹寧柱も、京都警察に拘引され、言語に絶するようなひどい拷問をうけました。

「お前は、石原にそそのかされて、朝鮮独立を思い立ったのだろう。どうだ」「そんなことは絶対にありません」「そりゃそうだろう。そうだろうが、そう自白しさえすれば、警察は、いつまでも、お前を留めておかん、すぐ釈放してやる。そればかりじゃない、適当の職業をさがしてやるが・・・・・・・」水をむけてきた。

.. 2023年05月19日 05:45   No.2757002
++ 仲條拓躬 (社長)…855回       
曹は、このとき気づいた。こりゃ、石原将軍を引っくくる手がないので、自分をおとりに使おうとするつもりだな、殺されても自白すべきでないと、最後まで、石原は無関係だといいはった。終戦後、曹は、東京の某工場において、朝鮮人工員の指導を担任し、おどろくべき成績をあげ、新聞にもニュースとして取上げられた。

彼等は、日本にいる朝鮮人同胞の慰撫をしながら、日韓協同の実績をあげようと、今もって必死の努力をつづけている。「もう一年か二年はやく、この運動に着手していたならば・・・・・・」曹は、それを悲しんでいたが、石原莞爾の志ざす両国協和の精神のかけはしは、遅ればせながら、連結されたのです。

はじめ、武力をもって、 併合した朝鮮ではありますが、これを友好国として、独立させておくだけの寛容さをもたなかった日本の軍当局の中から、後になって、韓国独立に共鳴した石原莞爾の出現したことは、皮肉なめぐりあわせであったのです。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

.. 2023年05月19日 05:50   No.2757003
++ 仲條拓躬 (社長)…856回       
石原莞爾の爆弾演説
極東の形勢は、日々、険悪となって、今にも大東亜戦争が勃発しそうな雲行きとなっていました。その頃、駒井徳三が、陸相官邸に、板垣征四郎をたずねると、偶然、石原莞爾が、そこへ現われました。「今日は、重大な意見具申に参りました」妙に切口上でいいました。

駒井が、席をはずそうとすると、陸相は、言葉をあらためて、「駒井君は、同席してもよいかね」と、確めました。「一向、かまいません」石原莞爾が、そういうので、駒井も、そのまま着席しました。石原莞爾は、この時、厳然として、形をただした上、「申し上げようと思うのは、東条(次官)と梅津(中将)に関する件であります。」

「この二人は、日本を亡国にみちびく元兇であります。これは私の個人感情ではありません。東亜全局に亘る事変をひき起したのは、彼等の野心遂行が目的であって、彼等をこのままに放置すれば、勢の赴くところ、何を仕出かすか分りません。」

「日本の陸軍は、陛下の股肱として存在するのであって、東条・梅津の駆使のままに任せる私兵ではありません。閣下は陸軍大臣として、この際、両人をきって捨てる、御処置を願いたいと存じます」言葉の形式はちがっていますが、内容は、この通りでした。事実は、もっと、きびしく、はげしく、陸相に向って進言したのです。

「むう」板垣は、うなっていました。石原莞爾と板垣征四郎とは、兄弟同様の間柄だから、遠慮なく突入んでゆくのは、毎度のことで、決して珍しくはないのです。ただ、この時の具申は、事が事だけに傍できいていて、駒井も、どきんとしました。

「石原君。きるというのは、職をうばえというのかね」陸相が、問いただすと、「私の申し上げたのは、さような生やさしい事ではありません、刀で首を斬るのであります」「ころす事だね」「そうです」「それだと、わしの自由にはいかんだろう、彼等も亦、陛下の軍人だから。 しかし君の具申は、よく分っている。わしにも考えがないじゃない。そう、 しゃちこ張らないで、まあ、 かけたらどうかね」

見ると、石原莞爾は、さっきから直立不動のままでした。板垣も、態よく扱っていましたが、東条・梅津は国家の元凶だという主張は断じて曲げませんでした。第十六師団長在職中、彼は京都大学講堂における公開講演会に招かれた。ここで極東問題を批判した。

.. 2023年05月21日 07:50   No.2757004
++ 仲條拓躬 (社長)…857回       
「敵は、中国人ではない。むしろ日本人である。自己の野心と功名とにかりたてられて、武器をとって立った東条英機と梅津美治郎こそ、日本の敵である。平和をかきみだした点から見ると、世界の敵でもある彼らをとらえて銃殺すべきである」と、云った。

斬首は、ここでは一転して銃殺とかわったが、彼等を墓場へ送ることには、かわりはない。
石原莞爾の凛然たる態度、眼はかがやき眉は揚る。鎌倉の東小町通の四辻に立って、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊と叫んだ日蓮は、石の礫が、雨のように落ちても微動だにしなかった。

京大講堂の爆弾演説は、まさにそれだった。顔の色をかえたのは、臨席の京都府知事でした。今を時めく東条や梅津を銃刑に処すべきであるというようなことは、正気の沙汰ではないと思った。瀑布の落下するような拍手と共に、師団長が降壇すると、知事は、演壇にかけ上りさま、「今日の御講演は、この場かぎりのお話として伺っておきたいと思います」

聴衆に向って、そう云ったが、石原莞爾は、そんなことでは、おさまらなかった。「いや、遠慮はいらぬ。私の意見は、どうぞ、天下に公表して欲しい」と、知事の要求を突っぱねました。この銃殺演説は、東条の耳にも入った。弾圧は、いよいよ、彼の身辺に下ることとなり、第一線から追放されました。

彼が、米人記者マーク・ゲーンに語ったところによると、「東条は気の弱いやつで、私と面と向うだけの勇気がなかったので、陛下から予備役編入の命が下された」といっています。石原莞爾の履歴書を見ると、「昭和16年3月1日、予備役(上諭)」とあります。石原莞爾の軍人生活は、ここで終止符を打っているのです。

弾圧されていた平生の欝積が、一時に爆発したのです。満洲在留邦人が、学良政権のためにとことんまで虐げられて、ついに発火点に到着したように、京都大学における講演は、石原莞爾の一身上における柳条溝事件でした。東条の弾圧はますます厳しくなりました。

京都に止って、立命館大学で国防学を講義することも禁止し、又、立命館から発行されていた著作「国防論」の出版も禁止し、自宅には憲兵を配置して、石原莞爾の自由行動を監視しました。ここに於いて、石原莞爾は、故郷へ逃避することにしたのでした。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

.. 2023年05月21日 07:56   No.2757005
++ 仲條拓躬 (社長)…858回       
石原莞爾は理想主義者
鎖国が解かれ明治維新で解放されると、元来が海外に勇飛する性格の日本人は、その方向へ当然のように進んでいきました。海外をみると、目前には巨大な障害がありました。つまり、朝鮮から大陸にかけて、また、オホーツク海から日本海にかけて、西欧やソ連の勢力が巨大な障壁となって、日本に覆いかぶさっていることがわかったのです。

しかも、それは非常に危険なものに見えたので、これをいかに排除するかということが、日本の国策のひとつとなったのです。日本人が海外に出ていくときの最短距離は、昔から、日本海を渡って朝鮮を経て、それから満洲へ行くという道筋になっていました。

ところが、すでに朝鮮は諸外国に荒されており、満洲も当時は未開の地のように思われていたのに、実はそうでなかったのです。すでに、ソ連とアメリカとの経済上の競合地域となっていたわけです。これ以前に、英国は中国の中東部地方、フランスは南の方を、押えていました。

アメリカは上海に来て、ここがすでに英国の力で閉ざされているので、北上して満洲へ入ります。そして、以前からあったロシアの勢力と競合することになるのです。しかし、この競争にどちらが勝っても、日本がおびやかされることに変りはないわけで、なにか絶体絶命と思われる境地に日本は立たされていたわけです。

だが、そういう場所ではありますが、経済的なものを求めて、或は土地を求めて、日本人は満洲に新天地を求めて入っていったのです。これは、国策としてというよりも、個人個人の欲求から、そうなったわけです。そういう時期に日露戦争が起こり、その結果、日本は、はじめて外国の地に権益を持ったことになりました。

このはじめて持った外国での権益を拠点にして、日本は着々と満洲の開発を行いました。ところが、ロシアは、今も昔もその勢力を極東と中近東の両方へ伸ばすという対策をとっています。帝政ロシアのころから、ロシアの勢力のはけ口がこの二方面だったし、ソビエト社会主義国となってからも、その実体は少しも変らないのです。

ロシアは、伝統的に、中近東からアフリカへ入っていく、そして、極東の方も満洲を取り囲むソ連の力、満洲に襲いかかるソ連の勢力というものは、想像を超える強大なものであって、これは、今日も同じなわけです。

.. 2023年05月22日 04:49   No.2757006
++ 仲條拓躬 (社長)…859回       
また、一方、満洲に根を下ろしていた張作霖一派の勢力があり、これも中国国民党から民族意識を植えつけられて目覚め、大きな力になってきました。こんな状況から、日本人の持っている権益、生命や財産が常に危険にさらされるということになってきました。まるで、真綿で首を締められるような状態になってきたのが、昭和三年ころの満洲です。

このような状態を断切ろうとしたあせりから、張作霖爆死事件を誘発し、これが失敗に終って、世論が悪化しました。そのあとをついで、満洲事変がはじまることになるのです。この、満洲事変の目的は何かというと、陸路東進するソ連の勢力をソ満国境で遮ること。

さらに、将来とも、永久にソ連の勢力を満洲に伸ばさせないようにすること、これが第一。それから、張作霖の武力暴力的な政治を排して、満洲人の自治による平和的な文民政治を満洲に施くこと、この両面の目的がありました。

その政治体制を、王道楽土という言葉で表現しました。王道楽土の持つ意味は、日本的にいうと、満洲を理想的な国に建国しよう。そのためには、ソ連の支配を遮断して、現住民と中国との間に和を結んで仲良くさせ、満洲を理想的なユートピアにする、そのことがアジアの安定、アジアの繁栄を創り出す基本的な条件だと考えました。

欧米に勝るとも劣らぬ、近代国家繁栄圏をアジアに建設しようという理想、これらの期待が錯綜して行なわれた結果が満洲事変であり、満洲建国でした。この王道楽土の理想、民族協和のアジア共栄圏の構想を描いた人・中心になった人が、石原莞爾将軍です。石原莞爾という人は、現実主義者が多い軍人のなかでは、珍しい、理想主義者といえます。

大詩人というような面もあったから、将軍が一市民でうらぶれた生活をしていたら、石川啄木のような詩人になっていたかもしれない。それが軍人になりました。そして、剣をさげて、いったい武力とは何をなすべきものかということで真剣に悩んだ。

そして、いちばん最初に考えたことは、世界の平和を恒久化すること、絶対平和の世界を創るための武力とはどんなものかということでした。その手始め、序段を満洲で行った。満州合衆国です。世界平和の恒久化という理想を、まずアジア、それも、満洲を拠点として構想を立てたのです。

.. 2023年05月22日 04:57   No.2757007
++ 仲條拓躬 (社長)…860回       
石原莞爾という人は、人類が絶対的な理想にできるだけ早く到達するためにこそ、軍事学を勉強したわけで、そこから得た結論は、世界最終戦争が数十年後に迫ってきているということでした。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

.. 2023年05月22日 05:03   No.2757008
++ 仲條拓躬 (社長)…861回       
シンガポール要塞化の予言
石原莞爾は、よく予言しました。しかも、確信をもって予言しました。「あなたの予言は当りますね」「いや、わたしは、予言はしない。予言とは、全然わからない先のことを指すので、わたしのは、判りきったことを言うだけだ。 予言というようなものじゃない」と、言いましたが、実は、そのわかり切ったことが、一般には分っていなかったのです。

それがため、石原莞爾のいうように予言の形となったとも見ることができるのです。漢口から帰ると、石原莞爾は、すぐに、ドイツ駐在を命ぜられました。大正十一年九月、シンガポールに上陸すると同信の人々にむかえられました。石原莞爾は、この時、「イギリスは近き将来に、シンガポールを要塞化するだろう」と、言いました。

まだ、そんなことは、何のそぶりにも感じられなかった頃なので、誰しもびっくりしましたが、まずイギリス人が驚きました。「石原という日本の青年将校は何者だ」一大尉の一言が問題となりました。イギリス軍当局は極秘のうちに、要塞化の研究をすすめていたのですが、どうして、その計画がもれたのだろうと不審であったらしい。

石原莞爾といえども、猿飛佐助や、霧隠才蔵のような忍術つかいじゃありません。相手の秘密を盗み出して、予言したわけではなく、当時の国際情勢にメスをいれると、自然、そうなると言うのです。

従って、石原莞爾自身にとっては、何のハッタリもなく、また何の不思議もなく、定理によって、幾何の答を出すようなものだったのですが、世間では、必ずしも、そうは受取らなかったのです。石原莞爾は言う。1815年、ナポレオンが没落してから後のイギリスは、ざっと一世紀のあいだ、平穏無事でした。

ユニオン・ジャックの旗は、絶対に強力な海軍を擁して、西大西洋にひるがえっていました。ヨーロッパから植民地にしてゆくには、どうしても、このイギリスの玄関口を通らなくてはならない。こうなると、世界における植民地は、何の事はない、イギリスの支配下にあるのと同じでした。

大陸では、フランス・ドイツ・オーストリアをして互に相争わせ、双方、疲れたところを見て、ぎゅっと首根っこを抑えるというのが、イギリス伝来の手です。歴史の流れは、うごく。十九世紀の末になると、ロシアが急に頭をもちあげ、海洋によらずして、印度や極東に押し出し、イギリスの権益をおかすことになったのです。

.. 2023年05月23日 07:51   No.2757009
++ 仲條拓躬 (社長)…862回       
イギリスは狼狽して、とりあえず日本を番犬に使いました。ドイツはドイツで、ベルリンから、インドやエジプトを衝こうとする底意をほのめかしたので、イギリスも高枕で眠ってはいられなくなったのです。第一次欧州大戦では、伝統政策によって、ドイツとフランスを戦わせ、アメリカを渦中へひきずりこみ、ついにドイツをノックアウトした。

とはいうものの、イギリスは、もはや昔のままではなく、老大国として、半身不髄の状態に陥ってしまいました。カナダはイギリスの領有であっても、実はアメリカの支配下にあるという方が妥当かもしれません。それに、従来、イギリスの番犬だった日本が、急に強大となり、のみならず、革命後のソ連邦が、極東に手をのばしてきました。

レーニンは、世界革命の着手は、極東にあるといっていましたが、事ここに至っては、シンガポールを固めねばならなくなりました。今なら、この説明は、さもあろうと思うでしょうが、その頃シンガポールにきて、いきなり要塞化を予言したことは、イギリス自身はもちろん、世界の驚異となったのです。

日本の軍部では、石原莞爾がまた夢魔におそわれているぐらいにしか考えていなかったのですが、いち早く、この噂は、ベルリンに伝わったのです。日本から、えらい予言者がくると、待ちかまえていると、1923年(大正12年) 3月31日アントワープを出た列車が、朝8時、ベルリン駅頭に着いた。数万の群衆が、この予言者を迎えました。

日本着物を身につけた石原莞爾が、そこへと現われました。まず出迎えの日本人に向って合掌しました。やがて、「南無妙法蓮華経」高らかにベルリンにおける第一声を唱えました。 恐らくベルリン駅頭をお題目の声でうずめたのは、これが初めてだったでしょう。

石原莞爾平和思想研究会 (ishiwara-kanji.com)

.. 2023年05月23日 08:15   No.2757010


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