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■--21世紀の起点
++ タク (社長)…2840回          


午前6時33分、昭和天皇が逝去されました。大正から昭和が若槻礼次郎、昭和から平成が竹下氏。いずれも島根出身です。因縁めいたものを感じます。最初の閣議は午前8時2分に始まりました。哀悼の意を示す「総理大臣謹話」を決定しました。

このあとの記者会見で竹下氏が読みあげました。昼前から政府は新元号の選定作業に入りました。午後1時3分、8人の委員からなる「元号に関する懇談会」が始まりました。小渕氏が「平成」「修文」「正化」の3案を示しました。8人の委員のうち6人が平成だった(石原信雄「首相官邸の決断』 中央公論社1997年・38頁)。

午後1時24分、小渕氏が衆参両院の正副議長に伝えました。午後1時49分、臨時閣議で了解をえました。正式に新元号が決まりました。昭和天皇崩御から8時間後のことでした。昭和がおわった。翌1月8日から平成が始まりました。西暦1989年です。

内政審議室長として元号選定の事務の責任者だった的場順三氏は平成の考案者は山本達郎・東大名誉教授だと断言する(「文藝春秋」2018年2月号)。しかし竹下氏の当時の証言によると、陽明学者・安岡正篤が考案した案のなかに平成があったといいます。

ただ物故者の案は採用できない。そこに新たに委嘱した学者(山本名誉教授)の案にも平成があったので、それを採用したかたちをとったというのが正解でしょう(後藤謙次「竹下政権・五七六日』(行研2000年・222〜224頁)。すべては1989年からはじまりました。

歴史とは不思議なものです。振りかえってみると、なぜか、ここが時代の節目だったという年があるものです。世界史でそれは1979年だと言います。この年を世界史の転換点としてあげているのが米国のジャーナリストのクリスチャン・カリルです。「すべては1979年から始まった」(2013年/北川知子訳・草思社2015年)でドキュメンタリー映画をみるように描いています。

とう小平による改革開放、サッチャー英首相による新保守主義、ホメイニによるイラン革命、ソ連の軍事侵攻によるアフガン戦争、そしてヨハネ・パウロ2世の祖国ポーランド訪問という5つのできごと、「5つの物語」が、くしくもこの年にはじまったからだと言います。
.. 2023年03月10日 05:36   No.2707001

++ タク (社長)…2841回       
「7年に解き放たれた力は、20世紀のかなりの部分を支配してきた社会主義ユートピアの終焉の始まりを意味していました。長年無視されてきた市場と宗教という2つの力が、猛烈な勢いで舞い戻って来たのが、1979年だった」(14頁)と論じています。われわれが生きている21世紀の起点はここにあるというわけです。

チャンネル登録お願い致します。仲條拓躬
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.. 2023年03月10日 05:42   No.2707002
++ 仲條拓躬 (社長)…813回       
これからの韓国と日本
過去の戦争の原因の一つは資源で、竹島も尖閣諸島と同様で、当然、北方領土も略奪からの早期の領土回復が求められるところです。韓国の海図には「日本海」の表記がありません。世界的に「日本海」と呼ばれる歴史的事実があるのに、韓国側は、植民地政策時代に日本が無理やり付けた名称と歴史を捻じ曲げて、自分たちの意見を通そうとしています。

韓国の言う代替の名称「東海」は、日本やロシアにとっても、日本海は東にはなく、この名称の意味あるのは、韓国だけなのです。世界的に通用する名称ならともかく、自国でしか通用しない名称を代替として提示してくるところが、あまりにも自己中心的なのです。

韓国政府は竹島を「独島」と呼び国定公園に指定しました。無理やり既成事実を作ってまでも自分たちの意見を押し通そうとして、都合が悪くなると、「戦前の植民地政策への謝罪の気持ちが無い」と言い出すのです。韓国では「反日教育」が延々と行われております。

過去に駐韓日本大使の高野紀元大使が「竹島は歴史的に見ても法的に見ても日本の領土」と発言したところ、韓国メディアや市民団体が一斉に反発して、ソウルの日本大使館前で発言の撤回を求め連日デモが起きています。
 
現在、竹島は韓国側が実効支配しています。歴史的・地理的に竹島は日本の確固とした資料と論理があるので、「韓国のものだ」と主張し、発言の撤回まで求めるのなら、国際裁判で決定していただければいいのです。だが、韓国政府に言わせれば、「国際裁判は関心がない、とにかく独島は昔から韓国の島だ」と言うのです。

つまり、竹島は韓国のものだという思い込みの心があって、資料や論理はその後なのです。だから高野大使が発言した翌日の朝刊トップには、「高野大使は妄言」であり、反日教育を受けている韓国人は口を揃えて「独島は我々の土地」と答えるのです。

日本人が韓国人と仲良くしたくとも反日教育をやめていただかないといつまでもこの状態が続くのです。日本の旗を燃やして、高野大使の写真に×印をつける韓国人の姿は、日本人にとって到底受け入れ難いかもしれません。

.. 2023年03月11日 16:13   No.2707003
++ 仲條拓躬 (社長)…814回       
現在、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領率いる韓国政府は、いわゆる「元徴用工」に関する解決策を正式に発表したことは、日本が示したガイドラインに沿うかたちでの、韓国の独り相撲の幕引きを意味していますが、この先、様々な問題に対して対処できるのであろうか。それでも日本に遊びに来てくれる韓国の方には日本人は「まごころ」で接しして欲しいと心から思います。
.. 2023年03月11日 16:54   No.2707004
++ 仲條拓躬 (社長)…815回       
自民党長期単独政権に終止符
1993年7月22日、都内のホテルニューオータニの一室。私の地元まで来てくれて一緒にお酒を呑んでくれる同じ主治医の小沢一郎・新生党代表幹事「首班を受けてもらえますか」父の親友であり同志である、細川護熙・日本新党代表「お引き受けしましょう」会談は実質わずか数分で決まりました。細川首相がみえた瞬間でした。

動いたのは小沢一郎先生。衆院でわずか38議席を獲得したばかりの日本新党の代表を首相に押し立てるという政治の常識をくつがえす荒技でした。細川氏は「客観的状況を考えると、推されれば時代の要請としてこれは受けざるをえない、準備は全く整っていないが地金でやるしかないと、その場で決断した」と振り返っています。『内訟録 細川護熙総理大臣日記』

ところが『聞き書 武村正義回顧録』によると様子はまったく違っています。7月21日ごろのこと。東京プリンスホテルに部屋を取っていた細川に呼ばれた新党さきがけ代表の武村正義。座るなり細川が武村の方を向いて「今朝小沢さんに会いました。 僕にやれというんですよ」。「総理大臣を?」と武村が聞くと「そうです」と細川。

「それ謀略じゃないの?」と聞き返した武村。細川は「いや、そんなことはありません!」と半分立ち上がって否定した。その日の夕方、細川から小沢に会うよう頼まれた武村は全日空ホテルの小沢のもとをたずねた。半信半疑で半分ぐらい謀略だと思っていた武村は「小沢さん、今朝の話はなかったことにしてください」。

すると小沢は「細川さんが駄目なら、武村さんでもいいんだよ」。「テレビ・新聞では羽田さんと言っているじゃないですか。 おかしいじゃないですか」と詰め寄る武村。小沢は「フレッシュな人ほどいいんだ。新しい人がいいんだ」とぼそぼそと語った。1週間後に小沢、細川、武村の3人で会うことを武村が提案、小沢も了解した。

内密にしたまま1週間後に渋谷の東武ホテルで小沢、細川、武村の3人で会った。 細川から会談の30分前にホテルの地下の喫茶店で会おうといわれた武村はそこで「まず最初に武村さんから小沢さんに聞いてほしい。1週間前の話はどうなんだ。 変わっていないと言ったら、武村さんから、細川がお受けすると返事をしてほしい」と頼まれた。

.. 2023年03月12日 08:54   No.2707005
++ 仲條拓躬 (社長)…816回       
打ち合わせ通りにことは運ぶ。ここで「細川首相」が固まった。細川の日記、武村の回顧録でわかる通り、政治家によってみえてくる、もしくは記憶に残っている事実は異なるものであります。自己合理化や自分に都合のいい後講釈があるのは、少しばかりバランス感覚のある政治記者ならだれもが実体験で知っています。歴史はまちがいなくつくられる。

それはどんな記録をのこすかにかかっているからです。ともあれ、細川擁立構想がうまくいきました。小沢氏が見事に細川氏で非自民勢力をまとめあげたのです。先立つこと1カ月、宮沢喜一内閣の不信任案に賛成して自民党を飛び出した羽田孜代表の新生党、不信任案に反対して自民党を離党して旗揚げした武村正義代表の新党さきがけ。

1年前に結党した細川の日本新党。そこに旧来の社会・公明・民社・社民連の4党に、参院会派の民主改革連合も加わりました。細川政権は8党派による非自民連立政権でした。8頭立ての馬車といわれ、寄木細工ともガラスの城ともいわれました。

1955年の保守合同以来、38年間にわたってつづいてきた自民党長期単独政権に終止符を打ったのです。細川内閣は小沢氏の政治的芸術品でした。なにせ8党派です。微妙なバランスの上に成り立っていた政権だったのです。

.. 2023年03月12日 09:00   No.2707006
++ タク (社長)…2842回       
北方領土が日本に一番近づいた時
橋本政権の特徴は、北と南で懸案解決に向けて取り組み、外交を前に進めたことでしょう。北=北方領土問題、南=沖縄の米軍基地問題です。北方領土返還交渉はあと一歩のところまでいき、基地問題の象徴的な存在だった米軍普天間飛行場の返還合意にこぎつけました。

北の話をします。歯舞色丹・国後択捉の北方4島。北方領土が日本にいちばん近づいたのがこのときでした。橋本龍太郎はボリス・エリツィン大統領との間で「ボリス・リュウ」の個人的に親密な関係をつくりました。

1997年11月、クラスノヤルスク市内を流れるエニセイ川の船上で行われた首脳会談では「2000年までに領土問題を解決し、平和条約を締結することを目指す」という内容のクラスノヤルスク合意ができました。2000年を言い出したのはエリツィンの方だったと橋本氏は明かしています。

それを踏まえて1998年4月18日、静岡県伊東市の川奈ホテルで開いた日ロ首脳会談。会談に同席した丹波實・元外務審議官が寄せた橋本の追悼文によると、橋本は会談の前々日の16日、官邸の首相執務室で丹波と2人だけで1時間ぐらい議論して決めた「川奈提案」をエリツィンにぶっつけました。

もしロシアが日本とロシアの国境線を択捉島とウルップ島の中間にあるということを「平和条約の中で」書くのであれば、別途合意するまでの当分の間、ロシアによる四島の治世を認めるエリツィンは絶大な興味を示し「インチェレスノ」を二度繰り返し、乗りかからんばかりだったと言います。

同席していたヤストロ補佐官が「これはゴンコン方式だ。モスクワに持って帰ると答えてください」と必死で大統領をおさえました。4島の国境線を画定しさえすれば返還は棚上げしてもいいという妥協案でした。

首脳間ではほとんど合意寸前までいっていたのです。ところがこのあと7月の参院選で自民党は敗北、橋本氏は退陣に追い込まれました。エリツィンも体調の不良から政権末期の様相を呈し、翌1999年には辞任したのです。政権の混乱がまねいた不幸な結末だったのです。

.. 2023年03月13日 05:26   No.2707007
++ 仲條拓躬 (社長)…817回       
永久平和を願った満州事変
満州事変の第一の目的は、在満三千万民衆の怨府となっていた東北軍閥を打倒し、ソ連の東亜侵略に対する強固な防衛体制を確立することであり、第二の目的は、永久平和への関門として近迫する最終戦争に必勝を期すため、満州の新建設によって精神的、物質的準備を進めることであった。

当時、満州侵略は、ソ連のロシア帝国以来の伝統的政策であり、中国はこれを阻止する実力をもっていなかった。米国は日本を中国から駆逐する政策をとり、東北軍閥を強力に支援しつつあった。また、これより先、欧米先進諸国がアジア、アフリカを植民地として分割し、闘争し、日本自身も明治時代の前半までは、植民地化される危険に直面していた。

これらは、こんにち世界のすべての国々と心から平和と協調に努力すべき永久平和の理想とは別に、直視を怠ってはならない歴史的現実である。
石原莞爾は最終戦争に勝利する準備として、
1、ソ連の陸軍を防ぎ得る陸上武力
2、米英連合の海軍を防ぎ得る海上武力
3、世界最優秀の空軍力
をもつべきものと考え、この体制を整備するために満州の確保が絶対に必要と考えた。

石原莞爾は、陸軍大学校における『欧州古戦史講義』およびその主著というべき 『戦争史大観』と『最終戦争論』の双方において、涅槃経および日蓮聖人遺文を引用し、永久平和の実現は武力ないし政治力の公正な運用なしには不可能であり、最終戦争の勝利、永久平和の実現は、この教えによってのみ期待し得ることを強調している。

「善男子正法を護持せん者は五戒を受けず威儀を修せずして刀剣弓箭鉾を持すべし」「五戒を受持せん者あらば大乗の人となすことを得ず。五戒を受けざれども正法を護るを為て乃ち大乗と名付く。正法を護る者は正に刀剣器杖を執持すべし」「兵法剣形の大事もこの妙法より出でたり」石原莞爾の最終戦争準備がつねにこの教えを遵守していたことはまちがいないであろう。

.. 2023年03月14日 08:17   No.2707008
++ 仲條拓躬 (社長)…818回       
次に、石原莞爾が満州事変の頃までは、『満蒙領有論』を強硬に主張していたことはよく知られているが、これも単純に主張されたのではない。石原は日本の敗戦に到るまで、満州が満州民族、蒙古民族の故郷であり、朝鮮民族も古くから水田開拓の実績を残し、日本もまた日露戦争によってロシアの侵略を排撃したし、漢民族はもちろん、三千万民衆の大部分を占めており、五民族それぞれに、満州には応分の発言権をもっている、という趣旨の主張をしていたが、敗戦後、占領軍当局によって東亜連盟同志会が解散させられたことに抗議した『東亜連盟』と題する文章では「満州事変を契機として実力を以て満州を支那より分離する行動は、重大なる暴挙なるは明なるも云々」と述べており、すべて石原莞爾の本心と思われる。『満蒙領有論』はこの間に深い祈りから生まれた。

石原莞爾はすぐれた精神的自叙伝といわれる『戦争史大観の由来記』に「昭和二年の晩秋、伊勢神宮に参拝のとき、国威西方に燦然と輝やく霊威をうけて帰来。当時の厳粛な気持はこんにちもなお私の脳裡に鞏固に焼きついている」と記し、「国威西方に燦然と輝やく霊威」については、かれが心から愛した若き信仰者、伊地知則彦の質問に対し「眼前に地球の姿が浮かんでみえ、日本から金色の光が満州に向かって光り渡った」と答えている。

石原莞爾が『最終戦争論』に確信を得たのは、大正十一年から十四年にいたるドイツ留学期においてであるが、帰国後、大正十五年から昭和三年にかけ、陸軍大学校で最終戦争を結論とする欧州戦争史を講義し、その準備のため、元年から二年への冬休みは千葉の日蓮聖人の聖蹟にゆき、二年から三年への冬休みは伊豆の聖蹟にいって資料を整理し、構想をねることに熱中した。

そしてこの講義の結論で、日蓮聖人の主著『撰時抄』における最終戦争の予言、および「観心本尊抄』における人類救済の賢王出現の予言を引用し、永久平和の使命達成に関する確信を吐露しているこのような状況の中で、石原は伊勢神宮に参拝し、前記の霊威を受けた。

.. 2023年03月14日 08:25   No.2707009
++ 仲條拓躬 (社長)…819回       
そして昭和三年三月には、関東軍参謀に転補の内命、中耳炎の難病治療のため十月赴任となったのである。石原莞爾は霊威を自分の熱願に対する本化上行菩薩、日蓮聖人の大霊の激励と拝したにちがいない。なぜなら、石原莞爾の信仰によれば、人類救済の賢王は日本国の皇室に出現することになっており天照大神はその守護神と信じられているからである。

石原莞爾にとり、満州事変も満州建国も、最終戦争準備のためであり、日蓮教徒としてのひたぶるな信行に他ならなかった。当時の世界および東亜の現実に照し、石原莞爾が主として陸軍部内を対象として執筆した『満蒙領有論』等を、石原莞爾の心の深層を理解しないで単純に大陸侵略の主張と解することは重大な錯誤である。

石原莞爾が陣頭に立った満州事変は、昭和三年六月、張作霖を爆殺した河本大作と意志の相通ずることなど、あり得ないことである。石原莞爾は後年、もし自分が中耳炎の難病に罹らず、満州赴任が遅れていなかったら張作霖爆殺に関与せざるを得ず、関東軍を去っていたであろうから、満州事変にも、満州建国にも、もちろん東亜連盟の発端にも参画できなかったろう、という意味の深い感慨を洩らしている。「石原莞爾のすべて」仲條立一著

(8) 仲條拓躬 - YouTube

.. 2023年03月14日 08:36   No.2707010


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